狼と剣
不覚だった。いつの間にか小柄な男が背後にまわっていた。気配を断ち、忍び寄るところなどまさしく肉食獣そのものだ。
「気をつけろ主計っ、そいつは人斬りだっ!」
長髪の男がまた叫んだ。
「遅かっ!」小柄な男もまた上段からの斬り下げをを遣ってきた。示現流の初太刀・・・。インターハイでこの一撃での面を喰らい、どれだけ多くの出場者が気絶したか・・・。
おれは、できるだけ間合いの外にでようと振り向きつつ後退していた。だが、間にあいそうにない。
切っ先がすぐ頭上まで迫っていた。おれは、おれ自身を斬り裂こうとしているのが「和泉兼定」であることにはじめて気がついた。もう死ぬっていうときに、おれは冷静にそれをみていた。
『きんっ!』と金属同士が激しくぶつかり合う音が耳元で響いた。火花が散った。
「こげんこっあうかっ!」小柄な男が叫んだ。おれはその叫びでまだ生きていることを自覚した。
「相棒っ!」おれは小柄な男より大声で叫んでいた。
小柄な男とおれの間に相棒が割り込んでいた。しかもその口に抜き身を銜えている。転がっている得物を銜えたに違いない。
犬は武器を遣わない。当たり前のことだ。遣うのは漫画の世界だけだ。だが、銜える習性はある。おれはそれを利用し、相棒にドスや長包丁を銜えさせて威嚇するよう教えていた。実際は武器を持った相手を威嚇することしかできない。それでもジャーマン・シェパードが凶器を銜えて唸れば結構な迫力がある。だが、それ以外のことはなにも教えていない。ましてや強烈な斬り下げを受け止めるような離れ業など・・・。
まさかおれの型の練習をみていたからか・・・?
相棒は地に四つ脚を踏ん張り抜き身を銜えて低い姿勢で唸り声を上げている。
「狼ほいならんか」「狼じゃ・・・」
小柄な男以外が怯えた声を上げた。小柄な男も渾身の一撃を受け止められたショックを隠しきれず、刃を寝かせじりじりと間合いの外へと後退しはじめた。
そのとき、おれと小柄な男の視線が合った。
おれは、その小柄な男のことも知っていて当然であることに気がついた。
「退きもそや、半次郎どん」すでに残りの男たちは逃げ腰になっている。
小柄な男がおれから視線を逸らせ、おれの肩越しに長髪の男を一瞥した。
それからおれに視線を戻してにやりと笑った。
走り去るその背をみながら、おれは心底助かったと思った。そこで雨が止んでいることにはじめて気がついた。
生きていることの実感が沸いてこない。
不意に眩暈がした。
星がきれいだと思った。最後に星をみたのはいつだったか思いだそうにもできなかった。