粗相しちゃダメッ!
「いやぁ、まいったまいった」
そのとき、俊冬と相棒が、殺風景な庭に入ってきた。
俊冬は、人差し指で右の鬢のあたりをぽりぽりかいている。そして、その左脚許にいる相棒は、『めっちゃごめんなさい』って表情で、俊冬をみあげている。
「主計。おぬしの相棒が、どこぞのお武家の方々の袴に、粗相をしてしまってな。おかげで、平身低頭お詫びせねばならなんだ」
俊冬はそういってから、相棒に目線で「めっ!」をする。「くーん」としょげる相棒。
「それは、すみませんでした」
ちっともすみませんなんて思ってもいないのに、調子をあわせる。
病気であったり、小便をしたくてもできないという究極の状態でないかぎり、粗相をするわけがない。しかも、ピンポイントで人間に向かって、だなんて。
おれが命じないかぎり、ありえない。
あ、俊冬がそう命じたんならありだけど。
「それで、そのお武家の方々は?おれからも、謝罪いたします」
腰を浮かしかけると、俊冬が鬢のあたりをかいていたほうの掌をこちらに向け、おしとどめる。
「小便をひっかけられた衝撃かどうかはわからぬが、昏倒される方や驚きよろめいて壁やら木やらにぶつかってしまわれる方がいらっしゃってな。みな様、去ってしまわれた」
なんてこと・・・。とんだ災難だ。
どうせだったら、運がつくって意味で、小より大のほうがよかったのかも。
「このあたりに、お武家様の住まいはなさそうでございます。思うに、こちらの訪問者であったのでは?」
俊冬のいまの問いの最後のほうは、めっちゃ雰囲気が険悪になっている。
もちろん、その問いは、勝に向けられたものだ。
勝は、本から視線を俊冬に向けたものの、すぐにまたそれを本へと戻す。
びびってる感が、半端ない。
「犬のすることですから、許してやってください。べつに、あそこを噛んだわけではないでしょうし」
無責任な飼い主を演じるおれ。しかも、幼少期に陰嚢を犬に噛まれて死にかけ、そのせいで犬にたいしてトラウマを抱えている勝へ、嫌味をぶつける。
おれって、やなやつだ。
「相棒」
掌で合図を送ると、相棒がお座りする。いまはもうテヘペロではなく、マジな狼顔で勝をじっとみすえている。
俊冬がその首輪から綱をはずし、綱を放ってきたので受け取る。
俊冬自身は、「関の孫六」を鞘ごと腰から抜きつつ、廊下にどかりと胡坐をかく。
それから、背筋を伸ばすと自分をみている副長に目礼する。
俊冬と相棒は、勝の屋敷の周囲に潜む連中を、追い払ったのである。
これで、役者はそろった。
「勝先生。女子どもは、いずこに?」
「民子以外は、しりあいの屋敷に遊びにいってらぁ」
「では、いまは奥方だけで?」
俊冬は、鼻を宙に向け、それをひくひくさせる。
民子は、勝の正妻である。かなりできた女房で、深川の芸者であったといわれている。しかも、二歳ほど年上のはず。夫に尽くしに尽くした良妻として、現代でも有名である。が、勝の死後、自分が亡くなる際、「勝の側に葬ってくれるな」と遺言している。
あまりにも奔放すぎる勝に、愛想をつかしていたのかもしれない。
「奥方も、そのしりあいとやらの屋敷にいかせるべきでしたな。ああ、そうでした。急遽、急ぎ雇った先生たちの世話をする人も必要でしたな」
そういって、ちいさく笑う俊冬。悪意ありありの言動である。
「ところで、すでに用向きはおききになってらっしゃいますかな?」
「ああ・・・」
「おとといきやがれってよ」
勝にかぶせ、ここぞとばかりにチクる副長。こちらも、悪意ありありの声である。
「これはしたり・・・」
「あたりまえじゃねぇか、ええ?もう間もなく江城が引き渡されようってときに、近藤を助命してくれって口が裂けてもいえるか。おめぇらは、京で恨みをかいすぎたんだよ。自業自得ってやつだ」
江城とは、江戸城の別名である。ってか、いまのは、おれでさえかちんときた。「どの口がいうとんねん」ってツッコむ以前に、おさえこんでいた怒りが暴力となってあふれそうになる。
おれ以上に、副長のほうがキレるのは当然のこと。ふたたび、さきほどと同様のアクションを起こしかける。
「ふざけるなっ、勝っ!」
その一喝で、副長もおれも凍りついてしまった。
俊冬である。その怒鳴り声は、宅内どころか屋敷の外にまで響き渡ったにちがいない。
「貴様のやってきたこと、やっていること、やろうとしていること、すべてお見通しだ。他人をたぶらかし、いいように操り使嗾し、目的を達したら始末する。坂本龍馬や小栗忠順の無念は、はかりしれぬであろう」
坂本龍馬は、勝の弟子的存在である。いまの俊冬のいい方なら、坂本も利用されるだけされて暗殺されたことになる。




