江戸潜入
赤坂氷川神社は、享保十五年(1730年)に赤坂に遷座した由緒正しい神社である。氷川神社じたいは、千年以上の歴史がある。なんでも、全国に氷川神社は二百五十社以上あるらしいが、関東にそのほとんどがあつまっているという。
もともとは、出雲国の簸川を流れる斐伊川に由来し、素戔嗚の命を信仰する出雲氏族が武蔵国造となって移住、開拓したことに関連しているとか。
現代では、縁結び、開運、厄除け厄払いにご利益のある、パワースポットの一つであったはず。
勝海舟の屋敷は、赤坂氷川神社から坂を下ったところにある。現代ではビルが建っていて、勝海舟邸跡の碑がたっている。
ちなみに、現代ではこのちかくに、「勝海舟と坂本龍馬の師弟像」なるものもある。
江戸に舞い戻ったのは、夜も更けた時間である。いくらなんでも、こんな時刻から訪れるわけにはいかない。
かといって、史実では江戸城開城が数日後にひかえている。そんな状況下で、新撰組がうろうろするには危険すぎる。
俊冬のすすめで、医学所にいってみることにする。が、そこへいったら、夜勤の医師が「麹町の自宅へもどっている」という。ゆえに、すぐに麹町へと向かった。
俊冬はこういうことまでみこし、弟と二人で松本の屋敷の場所まで調べ上げていた。
やはり、できる男たちはちがう。
副長が無意識のうちに俊冬の頭をなでてしまっているのも、わからないでもない。
夜の江戸の町。敵の数が増えてきていることもあり、静かである。まぁ夜も更けた時刻ゆえに、当然のことといえば当然なのであろう。それでも、町全体がひっそりとしすぎている。不気味感が半端ない。
家のなかで、人々は息をひそめて生活しているかのように感じられる。
松本の屋敷は、さほどおおきくないこじんまりしたものである。
小者とか住み込みの弟子とか、そういう人がいるのかもしれない。一応、門らしきものはかまえているが、この夜更け、それは開いたままになっている。
もしかすると、おれたちの訪問がわかっていて、開けていてくれているのかとさきゆきに希望をもってしまう、そんな解放感が満載である。
あとでしったことだが、いつも開けているそうだ。というのも、医学所のみならず、いつなんどきでるかもしれない急患などに備えているというのである。
プロ意識がすごすぎる。ちょっとかわっているということをさしひいても、後世に名医として名を残すだけのことはある。
堂々と門から入り、なんの変哲もないフツーの玄関戸を控えめにたたく。
かんがえてみたら、松本は医師であって武士ではない。フツーの民家であって当然である。
俊春がいないからだろう。おれの左脚許で、相棒がお座りしている。みおろすと、みあげてきた。めずらしく「ふんっ」はなく、そのかわりに鼻面をあげて宙を嗅ぐ。ぴんと立った両耳は、ひくひく動いている。
宅内で、だれかが気がついてやってきたのだろう。
「夜分、申し訳ございません。わたしは、甲陽鎮部隊副隊長内藤隼人の小者たまと申します。至急、松本先生にお会いしたく・・・」
「おまちください。すぐにお開けいたします」
きこえてきたのは、品のいい女性の声である。戸の向こう側で、木の突っ張り棒であろうか、ガタガタと音がしている。
その間、おれの脳内では戸の向こう側にいる女性のイメージがもくもくとわきおこっている。
だめだ・・・。
主人公の女の子が男装して新撰組に入隊し、沖田といい仲になるという少女漫画「風光○」のちょっとふっくらした、包容力があってこれぞ良妻賢母といった女性しかでてこない。
建付けが悪いのか、経年劣化なのか、引き戸はすんなりひらかず、おれたちを焦らすかのようにごとごとと音をたてつつゆっくり開いてゆく。
そっと副長をみてしまう。大親友が危地にいることを思い、さぞ悲哀と焦燥にさいなまれているだろう。
ちょうど、雲間から半月があらわれた。その月光の下、副長の瞳が輝いている。
んん?松本に会える期待感?
さらにだまってみていると、その双眸がすっと細められた。それは、対象物をよくみよう、観察してやろうという、人間の自然な動作のはず。
もうそろそろ開ききるというその刹那、副長の右の口角がすっとあがった。背筋をムダにぴんと伸ばし、口はそのままさわやかな笑みをかたどる。右の掌が、眉に届きそうな前髪をかきあげて・・・。
おいっ!なにカッコつけとんねん。
思わず、心のなかで力いっぱいツッコんでしまった。




