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五兵衛新田の人たちとの別れ

「いっちゃうのか?」

「戦だろ?あぶないよ」


 村の子どもたちは、口々にとどまるようすすめている。


「ありがとう。とても愉しかった。でも、わたしたちはゆかねばならない」

「てっちゃんのいうとおり。わたしたちがついていないと、みな、しっかり戦えないから」


 子どもらの周囲にいる隊士たちは、きくともなくきいていて、田村の「大人は頼りない」発言に、思わずふきだしている。


 なにも馬鹿にしているわけではない。なかなか、言い得て妙であるからだ。


 たしかに、かれらがいてくれているからこそ、がんばれる面もある。


「じゃぁ、戦がおわったら戻っておいでよ」


 村の子どもの一人がいう。すると、市村も田村も困ったような表情かおになる。


「ごめん。約束はできない。戦で死んじゃうかもしれないから」


 その答えにはっとしたのは、村の子どもたちではなく、周囲にいる隊士たちである。


 二、三人が、なにかいおうと口をひらきかけ、やめた。


 なにも約束をしてやれぬのだ。中途半端に口だしすべきではない、と判断したのだろう。


「でも、生きていたらまた遊ぼう。ねっ、てっちゃん?」

「そうだ、相撲。相撲をとろう。わたしたちは鍛えているから、結構、強いんだ」


 子どもらは、いまは丹波にいる十番組の伍長林と、よく相撲をとっていた。


「ならば秋祭りに、みなで参加しよう。今年は、隣村の梅丸うめまる竹丸たけまる兄弟を負かしたいから」

「へー。そいつら、強いの?」

「うん。だれも勝てない」


 子どもらは、打倒梅丸竹丸兄弟で盛り上がっている。


 わずかに安堵する。


「相馬先生」


 局長や副長と別れをおえた金子がちかづいてきた。


「お世話になりました。それと、いろいろご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「なにを申されます。わたくしどものほうが、いろいろ助けていただきました」


 金子は、こんなおれに深々と頭を下げてくれた。あまり慣れてないおれは、ソッコーかれより深く頭をさげてしまう。


 典型的な日本人同士って感じだ。


「さしでがましいようですが、なにかございましたらおしらせください。金子きんすにしろ物資にしろ、わたくしどもにできることはしれておりますが、ぜひともお力になりたく・・・。正直申せば、いまは敵や幕府より、新撰組に協力を惜しみたくありませぬゆえ」

「そのお気持ちだけで充分です。新撰組われわれにかかわれば、敵になにをされるかわかりません。もうすでに、新撰組われわれがこちらに滞在したというだけで、詮議されるはずです」

「近藤先生と土方先生にもおなじことを・・・」

「金子さん、あなたは立派な名主です。その責をまっとうなさってください」


 かれがやることは、敵や世間の双眸を欺き、新撰組われわれを助けることではない。五兵衛新田の土地と民を、護ることである。


 無言で掌をさしだす。それをじっとみつめる金子。


「握手といいまして、異人の挨拶です。親しい者同士がかわすんです」


 教えてやると、「きいたことがございます」といい、両掌でがっしり握ってくる。


 かれの掌は、とてもあたたかい。


「兼定、元気でな」


 金子は握手ののち、めずらしくおれの左脚許でお座りしている相棒の頭をなでる。


「そうだ。兼定、沢庵を荷馬車に積んでおいたので、また食べておくれ」


 なんてことだ。さすがは「キング・オブ・兼定」。お土産付きである。

 

 うらやま・・・、いや、ありがたい話ではないか。


 ふとみると、例の誘拐された女児が、俊春のまえで大泣きしている。

 あぁなにも俊春が、イケナイことをしたわけではない。女児は、別れるのが悲しくて、大泣きしているのである。


 かのじょに目線をあわせ、必死になだめている困った相貌かおの俊春が、ちょっぴりかわいい。


 昨夜にひきつづき、ほとんどの村人が集まってくれた。


 みなの別れの言葉を背に受けつつ、新撰組おれたちは出発した。


 運命の地流山に向けて・・・。


 五兵衛新田、つまり綾瀬から三郷へ、それから流山へ。距離的には、現代なら車で向かえば18kmくらいであろうか。


 じつは、新撰組が流山へゆくルートは、綾瀬から金町、松戸を通過して流山へというのが定説であった。かの司馬O太郎先生の「燃Oよ剣」でも、そのように描かれている。


 が、幕末期、水戸街道の裏街道として、流山道というのがあったらしい。それは、いわゆる参詣道といわれるものであるらしい。江戸から流山へは「流山道」で、そこから流山市駒木にある「諏訪神社」へつづくのが「諏訪道」である。さらには、関東三弁天の一つである「布施弁天」へと「布施道」がつづく。

 

 わざわざ松戸を経由する必要は、ないというわけである。


 現代では、この説がつよくなっているようだ。

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