主計の親父
「いいかげんにしろ、泣き虫め」
静かに注意する俊冬の声が震えている。四本しか指のないほうの掌を伸ばすと、弟の頭をやさしく撫でる。
はっとしたような表情で、右の掌の甲で涙を拭う俊春。
「見苦しいところをおみせして、申し訳ございません」
説明をまつおれたちに、俊冬は弟をみつめたまま謝罪する。もう声は震えていない。
「まだ童だった時分、われらを助け、導いてくれた恩人の佩刀が「之定」だったのです」
説明は、たったそれだけである。
「やはり、穢すようなことはしたくございません。副長・・・」
「すまぬ。まさか、かような事情があったなどと・・・。おれのくだらぬ挑戦など忘れてくれ」
副長も、どぎまぎしている。
「ありがとう、主計。「之定」は、穢れのない剣。魂だ」
俊春が、照れくさそうに「之定」をさしだしてきた。
「親父の形見です」
受け取りながら告げた瞬間、俊春の指先がぴくりと動いた気がした。
「そうであったな。立派な剣士、であろう?」
「ええ。おれとちがって」
自嘲気味に返す。俊春の掌が、「之定」からはなれてゆく。はなしたくないのに、仕方なくという感じに。瞳はたがいをみつめたままである。
視力のあるほうの瞳は、リアルなおれをみているのか?それとも、その恩人の姿をみているのか?
その恩人について、もっとききたかった。が、教えてはくれないだろう。すくなくともいまは。
「よしよし。兼定、みたか?ぽちたまは、おれの気に負けて勝負を放棄した。夜が明けたら、みなにいいふらしてもいいぞ」
副長は、うんうんと満足げにうなずきつつ、相棒にジョークを投げつけている。
「あの・・・。さしでがましいようですが、副長との勝負は兎も角、「之定」で型を披露していただけませんか?穢れるだなんてとんでもない。「之定」の力をひきだせていないおれより、ぽちに遣ってもらうほうが親父は喜ぶはずです」
口の形をおおきくし、「之定」を俊春のほうにおし戻す。
俊春のみえているほうの瞳に、驚きとうれしさがないまぜになったような光がともった。
「ぽち。せっかくの機会だ。「之定」を感じさせてもらうといい。副長。しばし、こいつにときをやってもらえますか?」
「ああ、いくらでも。おれもみてみたいしな」
「ありがとうございます。ぽち。ぐずぐず泣いてばかりいては、主計の親父殿に笑われる。おまえの力の一部を、副長と主計と兼定と・・・」
俊冬は右の人差し指を立てると、それを星々の瞬く空へと向ける。
「あの世にときの概念があるかどうかはしらぬが、主計の親父殿にご覧いただくのだ」
「はっ」
俊春はまた「之定」を三本しか指のないほうの掌でつかむと、こちらへ一礼した。
「主計、ありがたく遣わせていただく。おぬしも感じてくれ。いまからみせるものが、おぬしにとって励みになることを切に願う」
どういう意味なのだろう。それをはかりつつ、無言でうなずく。
かれはおれたちから2、3mほど離れて立ち、「之定」の柄を夜空に向けた。柄頭を額にぴたりとあてると鞘を胸におしつけ、じっとしている。瞼を閉じ、口中でなにかを唱えているのか話しかけているのだろう。口許がわずかに動いている。
それが数分間つづき、瞼をひらけるとすばやく「之定」を尻端折りした左腰に帯びた。
そして、彼はこちらに体ごと向き直ると深々と一礼した。
ふと相棒をみおろすと、喰いいるようにかれをみつめている。それは副長も同様で、ライバルの技を盗もうというよりかは、一番弟子の成長を見届けようとする師匠のような表情である。
親父は、おれの「無双直伝英信流」も学んでいるが、警視流の流れを組む警視流木太刀形と立居合の遣い手でもある。
警視流とは、明治になって制定された警察の剣術である。それが、太平洋戦争を経、形をかえつつ受け継がれているのである。
親父がやるのは剣道がほとんどで、居合はめったにやらなかった。たまに、警察の道場で型の練習をしたり、後輩たちに指導したりするくらいである。
剣道をやる親父もかっこよかったが、居合の型をやる親父もすっげーかっこいいって、餓鬼の時分から思っていた。だから、おれも剣道だけでなく居合もやったのである。
1の八相からはじまり、2の変化、3の八天切、4の巻落、5の下段の突、6の阿吽、7の一二の太刀、8の打落、9の破折、10の位詰・・・。
いま、眼前で一つ一つ型を披露しているのは、まぎれもなく相馬龍彦。つまり、おれの親父である。
「親父・・・」
左の掌の甲で、あふれる涙を拭っていた。相棒の綱を握っていたはずの掌の甲で。
相棒の「くーん」という声がしたような気がしたが、気のせいかもしれない。
副長が左から、俊冬が右から、それぞれ掌を肩に置いて支えてくれなかったら、しゃがみこんでしまったかもしれない。
「主計。よくみてくれ。感じてくれ。弟は「之定」を通じて、おぬしとおぬしの親父殿を感じ、なっているのだ。あれが、あいつの力の一部。ゆえにさきほど、弟はおぬしに励みになってくれることを願う、と申したのだ。はやすぎる別れを、悲しんだり恨んだり憎んだりするのではない。仲間とともに、進むべき道を迷わずあゆむために・・・」
俊冬のささやきは、おれだけでなく副長の精神にも響いたらしい。副長の口から、ちいさなうめき声がもれた。




