犬笛
そんな思い出話は兎も角、相棒は迷うことなく林のなかをすすんでゆく。これだけの距離をダッシュしつづけるのは、いったい、いつぶりだろうか。
このまえの甲州での戦いでは馬にのっていたので、自分の脚で駆けることはそんなになかった。ということは、浅草寺詣をしたときに、強盗犯を追ったとき以来というわけか。
あのときは、永倉の先導で、とんでもないところをダッシュさせられた。
相棒のダッシュに、さすがに女児の両親はついてこれない。途中、副長が隊士の一人に二人を護衛するよう指示をだす。
いったいどこまでゆくんだ、相棒?息が、あがりつつある。へばってしまうまでに、是非とも目的地についてもらいたい。
へたれ野郎もはなはだしい。
もう限界にちかい、と思いはじめたとき、相棒の駆ける速度が遅くなった。そして、ゆっくりと慎重にあゆみはじめる。
うしろに合図を送り、人間も慎重に歩をすすめる。同時に、息を整える。
相棒が伏せた。ちょうど、木々が途切れ、ひらけた場所にでる手前の茂みのである。
茂みにちかづき、そこからそっとのぞいてみる。
薄暗いのは、雨のせいだけではない。さきほどマイ懐中時計をみたら、18時をまわったところである。冬ほどではないが、夏の日のながさほどでもない。このくらいの時刻なら、薄暗い時期である。
雨しずくのなか、距離にして150mか、それをオーバーしているくらいか。藁ぶき屋根の家屋と、それとはべつに、窯のようなものがかろうじてみえる。
「炭焼き窯でございます。何代にもわたって、村のために炭をつくってくれていた一族がおりましたが、後継者がいなくなり、いまはだれも住んでおりません」
ややあって、女児の両親が追いついてきた。その家屋や窯をみ、父親がおしえてくれた。
おれたちの追っている連中と女児は、あの小屋のなかにいるのだろうか。はたして、女児は無事なのであろうか。無事であったとしたら、連中はいったい、なんのために女児を連れていったのか。そもそも、連中は何者なのだろか。
それにしても、双子は相棒にどうやって合図を送ったのだろう。あまりにも完璧すぎる。
さまざまな疑問が、浮かんでは消えてゆく。
「連中と女児は、小屋のなかにいる。女児は無事で、かすり傷一つおってはおらぬ。連中の目的は、金子。女児を人質に、村から金子をいただこうとしておる」
「連中は、幕府の脱走兵。脱走する際に、隊の備品を盛大にちょろまかしておる。銃、弾丸、軍服、軍靴。はては上官のところから失敬した紙巻き煙草まで・・・。そして、偉大なる隊士兼定号には、こいつをつかって合図を送った」
「ひーーーーー・・・!ふぐぐぐ」
『忽然』、という言葉がドンピシャであろう。茂みにひそむおれの両脇に双子があらわれ、おれの耳にそれぞれささやく。
そりゃあ驚いて当然だ。叫びそうになったが、両脇から掌で口をおおわれてしまった。
おれだけではない。副長、斎藤、蟻通に隊士たち。もちろん、女児の両親だって、腰を抜かすほど驚いている。
しかも、おれをよみまくるなんて・・・。
おれが落ち着くよりもはやく、俊冬は相棒の頭を撫でてから、おれの眼前に掌をひらめかせる。よくみると、その指先に細長いものをつまんでいる。
「犬笛?」
さらによくみてみると、奇妙な形をしている。
やはり、犬笛である。
たしか犬笛は、「種の起源」で有名なチャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンが、1900年代に入ってから発明したものだと記憶している。ホイッスルの一種である。
犬笛も三種類あり、俊冬のもつものは、周波数を発するタイプのものにちがいない。
「無論、われらがつくったもの。以前は、ぽちに合図を送るためにつかっていた。が、いまはそれができぬゆえ・・・。兼定用にと、とっておいたのだ」
「え?犬笛でぽちに合図を?」
いまのは、台詞だけならしっくりくる。ぽちという名の犬に、合図をおくるという意味になら。だが、ここにいるぽちは、当然のことながら人間である。
犬並みに周波数をききとるなんて・・・。いいや。耳がきこえていたときには、犬以上にききとれたんだろう。
「それにしても、犬にはちゃんとわかるんですね」
警察犬の訓練において、犬笛を使用することはない。もっとも、ほかの国の警察犬はわからないが。犬笛をつかう使役犬といえば、牧羊犬や猟犬が思い浮かぶ。ともに、活動範囲がひろい。犬笛でもって、人間は、犬たちに指示を送るのだ。
犬笛ははじめてのはずなのに、相棒はちゃんとわかったのである。
相棒をみおろし、「すごいな」と声をかけると、「ふんっ」といつものようにツンツンしている。
「音を調節できるようにしているのでな。それに、はじめてではない。戦に向け、三人で練習しておいたのだ」
「はあ?おれをさしおいてですか、たま?」
ソッコー、俊冬にクレームチックにいってしまう。
ふんっ!どうせ、散歩係など必要ないんだろう。
モスキート音のアプリで、人一倍きき分けられるだけの耳をもっていたとしても、到底、三人に勝てるわけもないし・・・。