枯れ桜
いまの屯所は、下京区にある。
当時は、不動堂村といった。
浪士組として上京したての頃は、壬生村にある地主のお宅を借り、そこでしばらく過ごした。
ゆえに、京の人々はこの東夷の集団を「壬生浪」と呼び、蔑んだ。
そこから西本願寺に移転した。
いまでも「お西さん」、と呼ばれる浄土真宗西本願寺派の中枢である。
当時、そこは長州系の志士たちが出入りし、西本願寺派でもおおっぴらにそれを受け入れていた。そして、情勢がやばくなってくると、こっそりかくまったり逃がしてやったりした。
その威嚇、という意味もあり、そこに無理矢理移転した。
隊士が増えて手狭になったことも、理由の一つである。
それはもちろん、副長が強行したのだが、その際、総長の山南と意見を異にし、その亀裂から山南は脱走、切腹に到ったのではないか、というのが通説となっている。
事実はわからない。先日の藤堂との話のなかにもちらりとでてきたが、誠の理由を副長の口からもたらされることはなかった。
今後もないかもしれない。
そもそも、副長だってわかっているのかどうか・・・。
それは兎も角、寺院内での新撰組の活動は、威嚇というには強烈であった。
そこへ転がり込む、ということじたいが、暴挙以外のなにものでもない。
寺院内で空砲をぶっ放したり、刀で柱を傷つけたり、というのはありなのか?
いや、寺院でなくともありえない話であろう。
それを思えば、最初の八木邸や前川邸はさぞ迷惑きわまりなかったであろう。
前川邸の人たちは、実際、親類の家に身を寄せたという。
自分の家に突如、武器を携帯した反テロ組織が転がり込んでくるのとおなじことである。
もっとも、一応はバックに幕府がいる。つまり、国家承認の反テロ組織、である。
それでも、迷惑にちがいはない。
国家を盾にされれば、とくにこの時代には拒否、という選択肢はないのだから。
いまの屯所は、西本願寺派の苦肉の策の賜物である。
土地家屋、果ては移動代と、それにかかわる諸費用まで、すべて西本願寺が負担した。
それだけの出費と天秤にかけても、新撰組を追いだしたかったというわけである。
ゆえに、ここは大名屋敷のごとし、である。
すくなくともそうらしい。
というのも、あいにく、この時代の大名屋敷なるものを訪れたことはない。
もといたところで、跡地やら旧跡やら文化遺産やらでお目にかかることはあったが。
土地も広い。庭には、桜やら銀杏やらが植わっている。
裏庭に、「枯れ桜」と異名のある桜の木がある。
その桜の木は、新撰組がやってきたときには刀傷がついていて、その傷のせいかどうかはわからないが、「桜の花が咲かない」という曰くつきらしい。
真実はわからない。なぜなら、新撰組がここに移転したときには桜の時期が過ぎていたから。
つまり、来年のその時期にならないと、この逸話の真偽はわからない。
だが、おれは知っている。このままだと、新撰組がその時期までここにいることはない。
年がかわってそうそうに戦がはじまり、こぞって江戸へ逃げかえるはずだから。
だから、この桜が咲くか咲かないかはだれにもわからない、はず。
建物の蔭で両膝を折ると、相棒と目線を合わせる。
「いいか相棒、おれが合図したら、愛想のいいわん公のように尻尾を振りながら駆けてくるんだ。それから、おれにではなく、相手の男にじゃれつくんだ。あぁいっそ、相手の男を噛み殺してくれてもいいかもしれないが、命令違反になるから、激しくじゃれつくのでいい。これが精一杯の譲歩だ。いいな?」
相棒は、右に左に頭を傾げる。
すると、頭上から永倉と原田、山崎、島田の含み笑いが落ちてくる。
「坂井もおねぇなのか、主計?」
山崎が、生真面目にきいてくる。
「ええ、そうですね。それと、かれは受け、でしょうか?あぁでも、昼間の様子では、攻めもありかな?攻めに目覚めたおれ様系ってところでしょうか?」
受け、攻め、おれ様、について解説する。
四人とも「おおっ」となった。
「なら、副長もおれ様だな」
永倉の断言。
おれも含めた全員が、無言で同意する。
「主計のところでは、いろいろ面白い言の葉があるのだな」
山崎が、生真面目にいう。
表現が豊か?発想が突飛?平和で考える時間がたくさんあるからか、それとも、情報が豊富だからか。だれかがつぶやいたことが、即座に広範囲に渡って拡散する世のなかである。
もちろん、それにまつわるリスクもある。
「では、いってまいります」
立ち上がり、深呼吸する。
斬り合いの直前より緊張するのは、なにゆえであろうか?