奪われた唇
「あー、坂井さん?おれも、犬とはやらない・・・」
ごくあたりまえのことを告げる。
上半身を、厳密にはおれの顔を、坂井の顔が追いかけてくる。
いっておくが、坂井は美男子である。
だが、この際それはどうでもいい。
「そうなのか?主計って、どっちが好きなの?」
やたら距離がちかい。
人間とし、て不快感を抱く以上の距離。
坂井の瞳に、おれが映っているのがはっきりとみえる。
「なに?どっちってなにがどっち・・・?意味がわからない・・・」
背中は、壁にぴったりとくっついている。
坂井はイケメンなだけでなく、上背もある。おれより10センチ位はあるはず。それが壁に両掌をつき、わずかにおれをみおろしている。
かすかに香のにおいがする。
それが伊東も愛用している類の香であることを、後日、身をもってしることになる。
着物の合わせ目がやたらと広い。
肌白で華奢な体をみせるため、わざとやっているのがうかがえる。
永倉も、これみよがしに着物の合わせ目から肌をみせているが、これは坂井とおなじ理由からではけっしてない。
まったく逆の理由。つまり、地黒で筋肉質の体躯をみせつけているわけ。
そのほうがよほどマシ、である。もっとも、どちらもみたいとは思わないが・・・。
「わかってるくせに・・・」
意味深な発言がつづく。
薄く紅まで塗っていることに、気がついてしまう。
(なんだ、やはり受けなんじゃないか)
どうでもいいというよりかは、気分がより滅入ってしまうことを考えてしまう。
「なにもわからない。あぁおれは、なにもわからない・・・」
後ろの壁が邪魔で、これ以上身の引きようもない。
「剣術の先輩たちから、可愛がられてたんだろう、え?」
ソッコーでぶんぶんと音がするほど頸を振り、坂井の問いを否定する。
「道場に、通っていない。ゆえに、先輩も後輩もいない」
ここでは・・・、と心中で付け足す。
もちろん、もといた場所では通っていた。だが、そういう系はいなかった。
それに、たとえいたとしても、フェロモンとかなんかとか、おれには皆無である。誘われたこともない。
ていうか、誘われていたとしても気がつかなかった。
もう一度、坂井の向こう側に視線をはしらせる。
見物人が増えている。
局長と副長である。
山崎が、両局長になにやら囁いている。すると、局長が破顔する。それはもう、頭上の太陽よりも眩しい。それから、両膝を折り、副長の足許でお座りしている相棒の頭を撫でる。
相棒は、気持ちよさそうに撫でてもらっている。
それじたいめずらしいが、いまのおれには、それが裏切行為としか思いようもない。
永倉と原田は、あいかわらず面白がっている。
こちらを指差し、笑っている。
なんてこと・・・。
すると、副長が相棒になにかいう。相棒が駆けだす。同時に、副長もゆっくりとあるきだす。
こちらに向かってくるっぽい。
「あー、坂井さん?話の途中ですが、副長がやってきます」
その一言に、さすがの坂井も凍りつく。
新撰組の両局長は、どちらも衆道をよしとしない。それで切腹とまではいかずとも、副長の強烈な一睨みは免れぬはず。
それは、隊士たちにとって切腹とおなじくらいの威力がある。
「残念だ。では、今宵、今宵だ・・・」
「はあ・・・?」
一方的な約束の途中を遮ろうとしたおれの、おれの唇を、よりにもよって坂井は自分の唇で覆い、ふさいでしまった。
「今宵、枯れ桜のところでまっている。いいな?」
永遠にも感じられた後、おれの唇から自分のそれを離し、やはり一方的に指示する。
それから、背後に副長が迫っていることに気がつかないふりをし、足早に去る。
副長と相棒が、壁に背をつけたまま尻餅ついているおれを、じっとみおろしている。
「主計・・・。げろのつぎは、男からの接吻か?つくづく気の毒なやつだな・・・」
副長は、含み笑いをしながら慰めてくれる。
「相棒、舐めろ!おれの唇をべろべろやってくれ」
相棒に指示する。
だが、相棒は、するすると後退してしまう。おれの掌の届かぬ範囲まで・・・。
「ああ、くそっ」
体育座りをし、泣いてしまう。マジで泣いてしまう。
みなが寄ってきて、さんざん鹹かったり大袈裟だといっているが、かまわず泣く。
お天道様まで笑っている。