失われし音・・・
ここまできたら、気づかざるをえない。そうとわかってしまうと、これまでのことが符合する。
山崎を探しにいったときのこと。あのとき、俊春の様子がおかしかった。俊冬がおぶっていたり、ぼーっとしていたり。ゆえに、何度か尋ねたのである。だが、かれは「なんでもない」とつっぱねた。
そのあとも、副長が呼びかけているのにぼーっとしていたり、なんてことがあった。
「富士山丸」で、泰助が呼んでいるのに気がつかなかった。野村がきて、やっと気がついたのである。そのとき、「江戸でなにをご馳走しようかと考えていた」などといっていた。
さっきの話では、子どもの心はよみにくかったり気配は感じにくいというが・・・。
和宮 親子内親王に会ったときもそうである。話かけられているのにうつむいたままで、俊冬がこづいてはっとしていた。俊冬曰く「がらにもなく照れて」、とのことであったが・・・。
そういえば、相棒も鼻をおしつけたりしていた。
原田のいうとおり、相棒も気がついている。
犬は、信頼する人間の異変に敏感である。そういった特殊な能力が備わっている。
形はちがうが、がん探知犬なるすごい犬がいる。人間の尿のにおいで、悪性腫瘍を探知するのである。その発見率は、99.7%といわれている。レントゲンやMRI、CTは、人間の瞳が見落としてしまうことがある。いくら医療技術が発展しても、ヒューマンエラーはおこりえる。それを考えたら、99.7%という数値は、すごいと感嘆する。
それは兎も角、最大の謎であるずっとつづけられている鬼鍛錬。いや、地獄でおこなわれる鬼と悪魔レベルの鍛錬。これこそが、その理由からによるものなのである。
おれだけではない。副長と永倉と斎藤も、気がついている。
静寂のなか、七輪と火鉢で炭が爆ぜる。
その音だけが、耳に痛いほど響く。
「くそっ」
永倉は納戸から背をはなし、拳でそれを思いっきり殴りつける。
さすがは、秋月邸の調度である。いい材木がつかわれ、つくられているにちがいない。
永倉のパンチで壊れるようなことはない。
「くそったれ」
副長も毒づく。だれにたいしてか、なににたいしてかはわからないが。物にあたるようなことはない。手タレのごとくきれいな掌を額にあて、うなだれている。眉間の皺は、怒りよりも悔しさで刻まれているだろう。
「あのとき、ともにゆけばよかったのか?」
斎藤が、生真面目な表情で問う。だれかに、ではない。全員をみまわしてから、自分の胸に掌をあてる。
自分自身に、問いかけているのだ。
いや。あのとき、いっしょにいったとしても足手まといになるだけである。人数がおおいほうが、かえって迷惑をかけたはず。なぜなら、おれだけでも負担をかけてしまったからだ。
「あの爆発ですよね?おれのせいですよね?」
俊春と視線をあわせる。思わず、詰問口調になってしまう。
かれがこちらの瞳ではなく、口をみている。
そうだ。よくガン見されている。それもまた、気になっていた。
「主計、勘違いするな。だれのせいでもない。だれかのせいというのなら、それはわれら自身だ。わずかなズレの結果。ただ、それだけだ」
俊冬はつぶやいてから、弟の頭を小突く。
「さよう。わたしが未熟であったからだ。主計、わたしはおぬしに助けられている。おぬしは、わかりやすいのでな。おぬしをとおして、さまざまなことを感じている」
俊春は、兄の頭を小突き返す。
「まったくきこえないんですか?」
「ああ、いまのところは。一時的なものか、生涯つづくのかはわからぬが」
突発性難聴・・・。
音響外傷やストレス、糖尿病などの病によってひき起こされる場合がある。
休養や薬などで治るケースもある。が、イヤホンやヘッドホンを大爆音できくとか、ライブなどかなりおおきな音のなかですごすとかで発症した場合、治りにくいときいたことがある。
大砲の発射を喰い止めた際、落下してきた大砲の砲弾が、ほかの大砲や砲弾にあたって大爆発をおこした。
おれたちは距離があったので、映画にでてくるような大爆発の連続という感じではなかった。しかし、あれを間近できいたら、耳がどうにかなって然るべきであろう。
「副長、申し訳ございません」
なにゆえか、謝罪する俊春。謝罪された副長は、眉間に皺をよせたまま相貌をあげる。
「弟にとって、耳朶は瞳よりも大事。それがつかえぬとなると、鼻に頼るしかありませぬ。足手まといになるから抜けよと再三再四申しておりますが、この馬鹿はいっこうにききませぬ。鍛錬にて、どうにかする、と。ゆえに、毎夜、目隠しをし、無駄なことをつづけております。わたしは、そのつど「おまえは役に立たぬ」ということを、しらしめております」
俊冬は、憎まれ口をたたく。そこに、兄としての複雑な想いがこめられていることを、ここにいるだれもが感じている。
「法眼には診てもらったのか?」
副長が、ようやく口をひらいた。つらそうな、それでいてしっかりせねばという気力が混在した声である。
双子は、同時に頸をふる。
「失礼ながら、われらのほうが蘭方学も漢方学も経験がございます。いましばらくは、様子をみるしかございません。副長、この馬鹿に離隊命令を申し渡してください。わたしがいくら申しても・・・」
「話がちがうではないか、兄上っ。兄上を負かしたら、好きにしろと申された。負かすことができぬ場合は、兄上がわたしを・・・」
兄の着物の袷部分をつかみ、むきになって詰め寄る俊春。
負かすことができぬ場合、俊冬は俊春をどうしようというのか・・・。
「いまのおまえに、わたしを負かすことはできぬ。目隠しをしていようとしていまいとだ。おまえがくたばるだけならかまわぬ。だが、それによって新撰組に被害を与えることになれば、いかがする?」
「わからずやっ!」
俊春は、怒鳴り散らす。俊冬の着物の袷部分をつかんだまま、ひきよせようとする。が、俊冬は微動だにせず、逆に俊春の両手首をつかむ。
その掌に、力がこもる。
「わからずやはおまえだっ!この馬鹿がっ」
俊春の手首からさきが、じょじょに白くなってゆく。それでもかれは兄を睨みつけ、着物の袷部分から掌をはなそうとしない。