禁断の未経験
お芳さんの表情は、外で焚いている篝火のなか、じつにすがすがしい。
(ええ?まさかこの短時間、しかも、次の間に双子がいるのに、やったってか?)
などと、下世話なことを考えてしまう。
「これでもう、思い残すことはありません。だけど、もう男はこりごり。ゆえに、いらぬ見合い話はけっこうですよ、父上」
草履をはきつつ、父親に忠告するお芳。
「なら、いいたかったってことはいえたんだな?」
「無論です」
父親に、しっかりとうなづいてみせる。
そのお芳さんの背後で、俊冬がこっそり、俊春の顔面に一撃を喰らわせるジェスチャーをする。
それをみたおれたち全員、思わず相貌に掌をあててしまう。
「『くそったれめ。あんたはお人よしすぎるのよ。一人ですべてをひっかぶって恰好つけて。大馬鹿野郎もいいところよ』。そう啖呵をきってやりましたら、すっきりいたしました、父上」
お芳さん、なんて強い女性なんだ。暇をだされた泣き言とか、会えない寂しさとか、ぶちまけるのかと思いきや・・・。
いや、お芳さん。お人よしは、あなたのほうだ。
気は強いが、思いやりのある江戸っ子。さすがは新門辰五郎の娘。
新門の親分、育て方は間違っちゃいません。厳しいなかでも愛情深く、しっかり育て上げたのです。
「歳さん、あんたもお人よしなところがあるから、気をつけなさいよ」
「あ、ああ」
「それから、あんた」
心底ほっとした表情の副長の横をすり抜け、お芳は俊春のまえに立つ。
日本、いや、世界最強といっても過言でない俊春が、びくっと体を震わせてから一歩うしろへひく。
「あんたが一番お人よしよ。うつむいてないで、わたしをみなさい。いい男なんだから、抱かれるんじゃなく、抱きなさい。もったいないわよ。一度も抱いたことがないって、世の女がしったら、うんざりするほどよってくるわ」
「ええっ?」
お芳の暴露なのか、それとも第六感をこえる女の勘ってやつなのか、俊冬をのぞく全員が、驚愕の叫びをあげる。
まさか、まさか経験がない?あ、いや、女性との経験がない、と?
篝火のせいじゃない。うつむいているかれの相貌は、真っ赤っかである。その隣で、俊冬は苦笑している。
颯爽と去ってゆく男装の美女と侠客。
「そっか、そうだったのか」
「いやー、まさかな」
がぜんはりきりだす副長と原田。俊春を、左右から腕をまわして肩を組みだす。
「案ずるな。しっかり教えてやる」
「土方さんもちで、吉原にゆこう。なっ?」
副長と原田の謎提案・・・。
「だったら、おれも」
「わたしも」
そして、それにしれっとのっかる永倉と斎藤。
おれも、といいかけ、足元から相棒がみ上げていることに気がつき、言葉を呑む。
「いえ、わ、わたしは・・・」
真っ赤っかのままうつむき、口ごもる俊春。
かなりかわいいかも・・・。
ふふっ、これでいざというときの保険ができた。
いざというときには、鬼にでも悪魔にでもなってやる。
翌朝、警固の隊が到着するとの報が入った。
到着するまでに、引き払えという。
副長は、その高飛車な命に快く応じる。
連中をまっていて相貌をあわせれば、嫌な思いをすることがわかっているからである。
引継ぎは、双子がすることになる。
かれらより、一足先にかえることになった。引き上げの準備後、いままさに宿所がわりの庵からでようとしたタイミングで、双子がまったをかけた。
「上様が、みなさまにお礼を申されたいと仰せです」
俊冬がいいおわらぬうちに、将軍が「葵の間」よりやってきた。
いっせいに片膝ついて控える。
「かまわぬ。面をあげよ」
いわれるままに、片膝ついたまま相貌をあげる。
なんてこった・・・。
すこし離れている隊士にはわからぬであろうが、冬のささやかな陽光のなか、将軍の頬から顎にかけ、真っ赤に腫れあがっているのがわかる。
俊冬のジェスチャーは、軽めの一撃って感じだったが、実際のところは、強烈なアッパーカットだったんだ・・・。
副長が喰らったのとおなじ・・・。
いや、絶対に喰らいたくない一撃である。
「このたびの警固のこと、心より礼を申す」
そういうと、頭をさげる将軍。あきらかに、警固まえとは態度がちがってる。
この数日の間に、思うところがあったのであろう。
沢村との一戦後、将軍は、次の間や廊下の見張りに「寒いであろう」、と本間の火鉢にあたらせてくれたり、こっそり酒をすすめてくれたりしたそうだ。それだけでなく、外の見張りたちにも同様に。
休憩中の者と、酒を酌み交わしたりもしたそうだ。
京での戦のことを、よくきいてくれたらしい。
「なにか礼をしたいところではあるが、いかんせん、余は謹慎中。しかも、懐は寒く、なんの権限ももたぬ身」
おどけたようないい方に、隊士たちから笑声がもれる。
「だが、新撰組の活躍と無事を祈っておる。余には、そのくらいしかできぬので」
ぽつりと付け足す。
「いえ、お気持ちだけで充分でございます。数々のご無礼、ひらにご容赦願います。交代が急で、近藤がご挨拶できませぬことも、お詫び申し上げます」
将軍とは反対側の頬が赤く腫れている副長が、神妙に応じる。
副長のそれは、俊春が冷やしてだいぶんとマシになっている。将軍のそれも、俊春が冷やしたのであろう。
「近藤にも、いい勉強になったと伝えてほしい。おぉそうだ、兼定にも世話になった。生きのびることができたら、毛玉ではない、兼定のごとき精悍な犬を傍におきたいものだ」
将軍はこちらへちかづくと、両膝を折って相棒と視線をあわせる。犬に慣れていないのであろう。触れるのが怖いらしい。それでも、視線をあわせるだけすごいことである。
「触れていただいても、大丈夫でございます。兼定だけでなく、犬は、人間をわかっておりますゆえ」
伝えると、おずおずと頭を撫でる。それから、笑顔になる。
時代だけでなく、いろんなものに翻弄される男・・・。この人も、おれたちとおなじ、ただの男なんだ。
新撰組は、この朝をもって無事、将軍警固の任を解かれた。
二日後、自称「新撰組の人斬り」の大石とその手下たちが、甲府に出立した。
この数日まえにも、そのあたりの地理にあかるい隊士を三名むかわせている。
一応、物見である。が、実際のところは、遠ざけるという意味がある。
ぼちぼちではあるが、入隊希望者が集まってきている。大石が新参者と衝突することは、火をみるよりもあきらか。そのまえに、物見にだしておこうというわけである。
同日、幕府より甲州出陣に費用にと二千両以上の金子を賜る。
新撰組を甲州に向かわせようという動きが、活発化している。それを画策している筆頭が、勝である。
その他、好戦的な隊もまた、ぞくぞくと出陣している。
伊庭の属する遊撃隊も、その一つである。
好戦派を江戸から遠ざける。これが、勝の目的である。
俊春が「富士山丸」で泰助に勝手に約束した、ふわふわたまごや寿司を喰いにゆこうという企画は、双子がつくるほうがいいということになり、ぽしゃった。
いやマジ、助かった。身ぐるみはがされるどころか、借金をこさえるところであった。
この夜、また握りが喰えるという。
この日は、局長もいるし、野村もやっと医学所から解放された。入院している隊士たちも、ぞくぞくと退院している。
その祝いも兼ねようというわけである。