人を殺めるということ
屯所に戻ると、すぐに「之定」の手入れをせねばならなかった。
同室の野村利三郎は、気をきかせ、この夜は両局長付きの子どもらの部屋に移ってくれた。
ゆえに一人、部屋で静かに手入れをすることができた。
まず柄をはずし、ついで鎺、切羽、鍔もはずしてゆく。
刀身だけになると、鍔元から峰に付着した人間の血や脂を懐紙で丹念に拭い、打ち粉を振る。 手入れ用の油を塗り、それもまた懐紙で拭う。
棟も、おなじようにする。
これだけ人間の血を吸ったのである。
すぐに手入れをしないと、茎まで腐ってしまう。
本来なら、刀の手入れは心静かにおこなうもの。
だが、心は穏やかとはほどとおい。
はじめて人を斬った、正確には突き殺した、という自覚が、この時分になって芽生えてくる。
それは、恐怖と悔恨へと直結する。
両掌が震える。
かたかたと震える音が、静かな室内にいやにおおきく響く。鼓動も速い。
殺してしまった。
正当防衛?敵だから?味方の生命を護る為?命令だから?
殺した大義名分は、いくらでも立つ。だが、人間が人間を殺すことは、いかなる理由があろうと、許されるべきではない。
おれは刑事だった。
一般市民が、仲間が、生命の危険に晒されたとき、とるべき当然の行為がある。
それはなにも、刑事にかぎったことではない。
自衛官だってそうであろう。
国が、国家が、国民が、外敵の脅威に晒されれば、自衛権を行使する。
一般市民にいたってもそうである。
刃物をもったなに者かに襲われれば、逃げるか、場合によっては抵抗する。
それは、生き残ろうとする本能である。
目には目を・・・。兇刃には兇刃を・・・。
なにをもってして、正義とするか悪とするか、とくにこのような時代においては曖昧である。
現代のテロも同様、仕掛ける側にも信じるものがあり、その為におこなう。
たとえその内容が狂信的であろうと、当人たちにとってそれが正義であり、標的はすべて悪となる。
個々でもおなじことがいえる。
脳内に声が響いた、というような啓示系の殺人がある。それもまた、きこえてくる声を信じ、自分は正義の使徒となって、悪を懲らしめるわけである。
その手段が、尋常でないというだけである。
これだけだらだらと並べ立ててはみたものの、結局は殺した。
みずしらずの男を、殺してしまった。
殺した男に、家族はいたであろうか?酒を酌み交わす、親友はいたであろうか?
思いは、底なしである。
「くーん」
相棒が庭でお座りし、おれをみている。
室内の灯火の明かりを受け、つぶらな瞳が光っている。
そうだ、相棒はとんでもないはなれ業をやってのけた。
上段からの斬り下げを受けたばかりか、その相手の力をそぎ、切っ先を地にのめりこませた。
そこそこの遣い手でも、ああもうまくはできない。
お蔭で、底なしの思考が一時棚上げにできそうである。
「まだ起きていたのか、主計?」
相棒が横を向いたのと、声をかけられたのが同時である。
副長が廊下に立ち、おれをみ下ろしている。
この人は、いつも相棒が気がつくのと同時にあらわれる。
おれには、それがわからない。
副長は、気配を消したり気を絶っているわけではない。
なのに、どうして・・・。
震えがいつの間にか止まっている。
いつかなにも感じなくなるのか、と思うと、そちらのほうが怖ろしい・・・。