チンアナゴの思い出
「副長、原田先生、おそれながら、われらが大切な義姉に、チュッチュや、それ以外に、あんなことやこんなことをされた、と?」
「つまり、手をつけてしまった、ということでしょうか、兄上?」
『ゴゴゴゴゴゴッ!』
「ジOジョ」の奇妙な地鳴りがぴったりのシチュエーションである。遠間の位置で正座している双子の周囲に、レタリングしたくなる。
「あ?」
副長と原田のつかみあい、もみあいがフリーズし、同時に双子へと視線を向ける。
その奇妙な地鳴りのごとき気に、上役や先輩の「七つの大罪」の一つ「淫蕩」を弾劾する子どもらですら、ぴたりと静まりかえってしまう。
「おおっと、指がすべってしまった」
大石に「小便たれ野郎」のレッテルをはりつけた俊冬の指が、畳に突き刺さる。
「げえええっ」
永倉のちいさな叫び。
畳に、穴が・・・。
「しまったぁっ、指が五本もすべった」
おつぎは俊春。右の掌をひらめかせるなり、五本の指で畳の「経O秘孔」を突く。
俊冬の一本に、俊春の五本・・・。
チンアナゴが、にょっきりでてきそうなほどの穴がこさえられ・・・。
「畳に穴がああああっ!ちょちょちょっと、お二人ともやめてください。歳さん、左之さん、腹切って詫びてください。畳屋に、ぼったくられてしまいます」
あわてた伊庭が叫びだす。
畳の修繕費より、副長と原田の生命のほうが軽いってわけで・・・。
その伊庭が、大笑いしだす。いまはやけ気味というわけではなく、心底おかしくておかしくて仕方がない、というような、大笑ってやつである。
それで、みなも笑いだす。
腹を抱え、周囲にいる者の肩や頭を叩きながら。
「ありがとうございます。なんだか、吹っ切れました。おっしゃるとおりです。義務や義理、しがらみ・・・。わたしは、それらのせいにし、真実を、自身の誠の道を、見失っていました」
ああ、なんてキラキラしているんだ。
畳の弁償はいいという。思い出に、畳の無数の穴はそのままとっておくと。
伊庭家を辞す際、握手しつつ再会を約束した。つぎは、決着をつけようとも。
ほんとは、ハグがよかったんだが・・・。
双子は、完璧である。左上半身の防御の弱さを指摘し、くれぐれも気を付けるようアドバイスしてくれた。
伊庭が、このアドバイスを思い出し、小田藩の藩士高橋との戦いに挑んでくれれば・・・。
あ、副長と原田の双子の義姉手出し事件は、うやむやにおわってしまっている。念のため。
横浜で入院治療している負傷隊士たちが医学所に移ったのは、二月に入ってからである。
局長は横浜の病院に、二度ほどリハビリテーションもかねて治療に通った。
やはり、肩の傷の完治はむずかしく、四十肩のごとく腕を振り上げられないらしい。
ほぼ史実通り、である。
将軍が謹慎するため上野の寛永寺に移る前日、局長はあらためて城へ呼ばれ、下命された。
負傷隊士以外、総動員で警固の任にあたる。しかも、寛永寺に泊まり込んで。
ちょうど、桃の井とともに京へ上った久吉と沢が戻ってきたので、子どもらを二人に託すことができた。
東叡山寛永寺は、天海大僧正によって、寛永二年(1625年)に創建された天台宗の寺院である。東の比叡山という意味で、東叡山と名付けたらしい。
家康、秀忠、家光、三代将軍の帰依を任された天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安の祈願のため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に寛永寺を建立したのである。
現代では、上野公園の一部に現存している。
約三十万五千坪に、根本中堂、現代の東京国立博物館になっている本寺、清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍があり、子院も三十六坊ある。将軍家の菩提寺も兼ね、歴代将軍の霊廟もあり、国内最大級の寺院として偉容を誇っている。
しばらく後におこる上野戦争で官軍に火を放たれ、それらの大部分が灰燼に帰す。そして、没収。それでも、明治十二年には明治政府によって復興が認められ、再建される。
関東大震災、太平洋戦争などを経て、現代では約三万坪の敷地のなかに、本寺、開山堂、辯天堂、パゴダ、徳川霊廟、輪王殿、幼稚園、子院十九坊など、上野の杜にひろがっている。
ちなみに、徳川歴代将軍の宝塔、慶喜が謹慎する「葵の間」は、現代になっても保存されている。
さらに、清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門といった史跡は、重要文化財に指定されている。
一週間ほど、将軍は新撰組が警固する。
その後、最終的には慶喜の一橋家の家臣たちで結成される彰義隊が、将軍の警固をおこなうことになる。
そこに、官軍に抵抗する人々が集い、上野戦争へと結びついてゆく。
将軍警固の栄誉を担ったとはいえ、新撰組の稼働率は60%程度。
一週間ほど、という期限付きではあるが、無事にやりすごせるのかという不安もある。
それでも、やりとおさねばならぬ。やりとおさねばならぬのである。