幼児のこころ
無意識のうちに、脚が動きだす。一歩、また一歩。
相棒も、それにあわせて進む。
「くるな、こないでくれ・・・」
俊春は、ちいさな子がいやいやするように、相貌を左右に振りつつ後退する。
「あなたは、あなたは、人間です。俊春殿・・・」
さらに一歩踏みだそうとしたとき、逃げようというのか、背を向けかける。
それをよんでいた。おれではなく、相棒が。
かれが背を向けるよりもはやく、駆けよる。そして、軍服のズボンの裾を噛む。
そのタイミングで、懐を脅かす位置まで駆け寄り、華奢な肩を掴む。
怯えた子どもの瞳が、こちらを・・・。
この瞳を、どこかで、たしかに、どこかでみた。
哀しみと苦しみがないまぜになった、この瞳を。
たしかに、どこかでみた・・・。
思いだせない。
いや、いまは兎も角、かれをはなしてはならない。このままはなしてしまったら、かれの精神まではなれてしまう。
それは、物理的な距離以上につらいことである。
「俊春殿、あなたは、人間です」
これ以上、かれの瞳をみたくなくて、頭部を抱き寄せる。
抗わない。
かれも、心のどこかで他者との接触を望んでいるのであろう。
三つか四つの幼児のように、しくしく泣きつづける俊春。
人間であることを、いいつづけるおれ。
相棒は、おれたちの足許でそれをみあげている。
その瞳もまた、いいようのえぬ哀しみに満ちている。
かれを連れ、一刻もはやく豊後橋にゆかねば。
井上のことが、気がかりである。
俊春をみつめつつ、思案する。
全身血まみれのまま、合流するわけにはゆかぬ・・・。
落ち着きを取り戻したかれは、地に積み重なった遺体のなかから、まだみるに耐えうる軍服をみつくろい、それに着替える。
血まみれのシャツを脱ぐと、体も血まみれである。
「ほんとに、怪我はないんですよね?」
幾度も訊ねてしまう。
あまりにも血まみれで、かれ自身の血なんじゃないかと錯覚してしまう。
無言で頷く俊春。
みるともなしにみていると、付着しまくっている返り血の下に、傷跡がみえる。
いや、上半身だけとはいえ、男の裸をみる趣味はない。
が、それが気になりガン見してしまう。
一つや二つではない。しかも・・・。
銃創・・・?
刀で突かれたものではない。あきらかに、銃創と思えるものがうかがえる。
なぜなら、自分にもそれがあるから・・・。
銃から発射された弾丸を、斬ったりよけたりキャッチしたりできるのに?
それ以前に、銃創があるという時点で、違和感を覚えずにはいられない。
おれの視線を感じ、心中をよんだのであろう。
俊春は、死者のものであったシャツをはおり、ボタンをとめる。それから、軍服も着る。
その一連の動作は、スムーズすぎて洋服に慣れ親しんでいるようにしか思えない。
死者のシャツも軍服も、破れたり血が付着している。だが、かえるまえまでのものよりは、ずっとマシである。
白いシャツは兎も角、黒色の軍服、パッとみだとわかりにくい。
ズボンは、そのままでゆくようだ。
「主計、すまぬ。情けない姿をさらしてしまった。兄上には、なにも告げないでほしい」
俊春はそれだけいうと、うしろを振り返り、自分が惨殺した敵兵に一礼し、しばし黙祷する。
それにならい、黙祷する。
もしかすると、死ななくてよかったかもしれない生命。
おれの存在が、一言が、この惨劇を招いてしまったのかもしれない。
そう考えると、心底怖ろしくなる。
だとすれば、俊春ではない。おれこそが人間ではない。
おれの行動のすべてが、人間の所業ではない。
黙祷がこれほど重く、苦しいものだとは・・・。
終えると、無言のままあゆみだす。