修羅の慟哭
ちかづくにつれ、血臭、さらには死臭が濃くなってゆく。
それらが体にまとわりつくような、そんな錯覚すら抱く。
綱をつけていない相棒は、いつもの定位置である左脚に鼻先がくるよう、駆けている。
が、このときばかりは、鼻先がまえへまえへとでてくる。
その相棒の焦燥感が、じわじわ伝わる。
世界史において、大量虐殺とよばれるものはすくなくない。
軍隊などの武装勢力が、非武装民を害するパターン。これが、おおいであろうか。
原住民の虐殺もそうだし、特定の人種の虐殺もある。
もちろん、一人や少人数による虐殺、というものもある。
学校で、あるいは、公共の施設で、銃を乱射する。爆弾を仕掛ける。有毒ガスや毒の入った飲食物を散布する・・・。
放火、という手段もある。
集団にしろ、単独や複数人にしろ、おこなう側には、たいてい理由がある。
国家のため、神のため、自分にしかきこえない「啓示」もあるであろう。命令であったり、身を護るためであったり・・・。あるいは、理不尽なものであったり・・・。
ついさきほどまで、敵の兵士たちでひしめきあっていた場所。
そこは、地獄と化している。
凄惨やら残酷やらと表現するには、なまやさしすぎる。
せりあがってくるのは、悲鳴や嗚咽ではない。胃の、なかみである。
不覚にも、吐いてしまう。
上半身をおり、口中から胃のなかみを吐きだしたとき、自分が血の海のなかにいることに、はじめて気がつく。
戦争やホラーなどの創作で、表現される血の海。
これはまさしく、その表現以外に表現しようもない。
ついさきほどまで、息をし、あゆみ、同僚と会話していた人間。そのパーツが、血の海のそこかしかに散らばり、積み重なっている。
腕、脚、ボディ、頭部、指や耳といったかけら・・・。
みたくもない。
おれの草履とおなじように、前脚も後脚も血に染めた相棒が、みじかく唸る。
すぐさきに、たった一人の生者が立っている。
二個小銃隊ことごとく、惨殺した張本人が・・・。
曇まで逃げ散ったのか、きれいなまでの夕陽が、この地獄を染め上げている。
大地とおなじ血の色に・・・。
シルエットが、やけに生々しい。
こちらに背を向け、相貌は天を仰いでいる。
大量の血を吸い、肉と魂を喰らいつくした二本の刃。それらを、両脇にだらりと下げている。
慟哭が、耐えがたいほど耳に響く。
胃のなかに、もはやなにも残っていない。すっぱい唾液が、血で染まった足許に落ちてゆく。
えづきつつ、一歩踏みだそうとする。脳の運動野は、ちゃんと指令を送っているはず。それなのに、動かない。
すくんでしまっているのか?恐怖で、身動きができないと?
いいや、違う。そんなものではない。
躊躇・・・。
人間をよせつけぬなにかを、感じているから?
人間を、よせつけぬ?
自分で、自分の言葉に驚く。
頭を左右に振り、くだらぬ考えを追い払う。それから、自分の精神にカツを入れる。
刹那、相棒がまえにでようとする。
左の視界に、右前脚が上がるのが入る。
「ちかづくな」
こちらを向いている。
夕陽を受け、真っ赤に染まっていてもなお、髷を落としてみじかくした髪も、相貌も、シャツも、ズボンも、軍靴も、すべてが真っ赤に染まっているのがわかる。
血で、真っ赤に染まっているのが。
返り血で・・・。
「これが、わたしだ」
俊春は、震えを帯びた声でつぶやく。
「人間のする、所業ではなかろう?」
刀が、掌よりすべり落ちる。
最初に握っていた刀ではなく、背におっていた刀にちがいない。
「わたしは、わたしはなんだ?魔物か?鬼か?」
俊春は、また慟哭する。
その姿は、ちいさな子どもが怯えているよう。
ちいさなちいさな虫を、誤って潰してしまった。踏んづけてしまった。
生命の意味も大切さもわからぬ、ちいさな子ども・・・。