デモンストレーション
局長、副長、井上、永倉に原田、島田、山崎、双子、そして、おれがゆくことになった。
林や野村もきたがったが、幹部クラスにかわって屯所で留守番、である。
あぁ、忘れていた。子どもたちもくることになった。
先日、黒谷を訪れた際に会津候からいただいた差し料で、局長がかれらに得物を選んでやった。
いっちょまえに、それを腰に帯び、お礼かたがたというわけである。
沖田の試合をみられるともあり、子どもたちは大喜びだ。
みな、沖田のことが大好きなのである。
黒谷の道場は、もともとはお堂だったらしい。
不審火があり、半焼した。そこで新築し、そちらに移ったというわけである。
所司代の本拠地と決まった際、残された建物を改築した。
リフォームされ、道場として生まれかわったのだ。
会津候と桑名少将も、立ち会われるという。
会津藩から、名だたる剣士たちもやってきた。
ゲロ佐川に、先日の試合に出場していた剣士たち。
大砲奉行の林親子もいる。そして、田中や重臣の何名かも。
みな、新撰組の沖田総司の剣をみたいのだ。
会津候と桑名少将は、特別ゲストを招いていた。
それは、双子の義母と異母姉、松吉と竹吉である。
松吉などは、新撰組のキッズよりも礼儀正しく挨拶している。
その後に新撰組のキッズたちが挨拶したが、副長の眉間に濃く皺が刻まれたのはいうまでもない。
その瞬間、会津候と桑名少将がにんまり笑った。
先日の話を、思いだしていらっしゃるにちがいない。
俊春は子どもの時分、沖田の試合をみた。
だが、沖田は俊春の剣技をみたことがない。
それどころか、柳生新陰流の遣い手に縁がなかったという。
幕末、柳生新陰流皆伝として有名なのが、長州の高杉晋作である。
労咳で、この年に死んだ。
皮肉な話である。
したがって、勝負のまえに沖田にみせることになった。
俊冬が、会津候になにやら囁いている。
その後、会津候は道場に集まった全員にいった。
「狂い犬に一太刀浴びせることのできた者に、五十両を授ける。なあに、みよ。相手は、左の掌しか遣わぬ。そして、目隠しをする。幾人でかかろうとかまわぬ。取り囲んでもな。五十両を割ればよい」
会津候は右掌を伸ばし、道場の隅で準備している俊春を指す。
俊春は、手拭いでしっかり目隠しをしている。
「おいっ主計」
永倉に呼ばれ、そちらをみると木刀を放ってきた。
反射的に受け取ってしまう。
「え?おれも?」
「当然だろうが。おおければおおいほうがいい。どにかなるやもしれぬ」
永倉は、にんまりと笑う。
左の掌に握る木刀を一回、二回と軽く振る。空気を斬り裂くするどい音が、静かでもないのにはっきりとききとれる。
「平助、左之、三人で遣れるのって久しぶりだ。「三馬鹿」ここにありってところを、みせてやろうぜ」
「えー、そこは「馬鹿」ではなく、「剣士」なのでは?」
「馬鹿いってんじゃない、平助。「二剣士一槍術士」だろうが」
永倉の提案に、藤堂と原田が応じる。
藤堂、もちろん、斎藤もこっそりやってきた。
「なんでもいいさ。斎藤、ぬかるなよ」
「無論。が、佐川殿たちも含め、これだけの人数でかかっても、敵わぬのであろうな」
「いいんだよ」
永倉は、声のトーンを落とす。
重臣の一人である神保修理と話をしている沖田へ、視線を向ける。
神保は、主戦派のおおい会津のなかにあって、それを鎮めつづけている。
長崎に留学中には、おおくの志士たちと交流があった。そのなかには、長州系の志士もいた。
この後におこる戦の際にも、神保は将軍に江戸に戻って善後策を練るよう進言。それが将軍慶喜が世紀のとんずらをしでかした要因だったのでは?と、会津藩士たちから槍玉にあげられることになる。
すなわち、スケープゴートだ。そして、自刃しなければならなくなる。
美しい奥方がいて、こちらも夫の死後、新政府軍の捕虜となりながらも土佐藩士の短刀を借りて自刃するという、壮絶な最期を遂げる。
夫婦の仲睦まじさは、幕末も有名だが、ウィキにも記載されているし、大河ドラマにもなった「八Oの桜」など、小説などでも語られている。
「おれたちは、俊春をすこしでも疲弊させりゃいい」
永倉の一語。
おれたちは、無言で頷く。
その意図すること、想いを理解した。同時に、想いを共有し、納得する。
「ならば、おれがやらねばはじまるまい?」
そのあらたな声に、おれたちは愛想笑いすら忘れ、口をあんぐり開けて声の主をみた。
でたっ!でました!
この男が・・・。