松平容保
会津本陣は、左京区にある金戒光明寺にある。
黒谷にあることから、当時は会津本陣のことを黒谷と呼んでいた。
金戒光明寺は、いったことがある。
重要文化財に指定されている三重塔や、登録有形文化財に指定されている御影堂など、みどころのたくさんある寺院だ。
この日、局長と副長に伴われ、黒谷に参上した。
会津候が、相棒をみたがっているという。
もちろん、会津候、すなわち、松平容保のこともみたことがある。
幕末期の写真は、土方に負けず劣らずイケメンである。
そして、明治期には「高須四兄弟」としての写真である。
兄である尾張公徳川慶勝、そして、一ツ橋家第十代当主徳川茂徳、弟であり幕末期には京で京都所司代として兄を助けた桑名藩主松平定敬が、「高須四兄弟」と呼ばれた。
御前にまかりでると、京都所司代である弟もきていた。
弟の写真も、みたことがある。ずいぶんと緊張した写真で、まだ少年ぽさが残っている印象的な写真である。
会津候は、写真どおりのイケメンである。
Tシャツとジーンズであったとしても、アイドル系に間違えられそうだ。
副長もそうだが、あと百五十年後に生まれていれば、もしかすると、二人ともおなじアイドル系事務所でユニットを組み、寝る暇もないほど忙しい毎日を過ごしていたかもしれない、などとじつにくだらない考えが脳裏をよぎってしまう。
「近藤から、狼のごとき犬とききおよんでおる」
会津候は、時代劇にでてくる一段高くなったところに座している。
時代劇そのまんまだと、いたく感動してしまう。
会津候は、声もいい。歌って踊れるアイドルだ。
「連れてきているのであろう?」
弟の定敬がきいてくる。
写真通り、子どもっぽさが残っている。弟は会津候の左斜めまえに座しており、その真向い、向かって右側には、会津藩の重臣が居並んでいる。
「はっ・・・。庭にて・・・」
叩頭してから答えたのは、局長である。
「そちが相馬か?近藤から、そちのこともきいておる。剣をよく遣うとか・・・」
まったく偉そぶったところのない青年である。
性格もよさそうだ。これならば、現代のほうがよほど愉しい人生を送れるに違いない。
「相馬主計と申します。こちらは寺院にて、獣を室内に上げるのはどうかと思い、庭にてまたせております」
まさか自分が会津藩の藩主と直接会話するなどと、どうして想像できるであろう?
こんなことなら、もっと時代劇や大河ドラマをみて勉強しておけばよかった。
「ああ、そうであったな。失念していた」
会津候は、にっこりと笑う。弟と顔をみ合わせ、さらに笑顔になる。
白い歯が、眩しいほどである。
「ならば、庭にゆこう」
身軽に立ち上がると、さっさとあるきだす。
てっきり、「お待ち下され、殿」、「あぶのうございます、殿」と、重臣たちがわらわら群がり止めるものと思ったが、みな、笑顔でぞろぞろと金魚の糞のごとくついてゆく。
奔放な藩主の部下たちは、藩主に似て奔放なのか?それとも、これは会津気質なのか?
頑固生真面目というのが、会津武士への印象だったのだが・・・。
局長と副長とともに、慌てて追いかけねばならなかった。