竜と犬
はっとして横をみると、山崎の姿が消えている。
さすがは新撰組の監察方。
おそらく、坂本に顔をみられてはまずいのだろう。
「ほりゃあ狼ぜよね?かっこういいやき」
坂本は、おれをみてにっこり笑ってから相棒を指差す。
尻の横で掌を下に向け、相棒にお座りの指示をだす。
坂本は眉間に皺を寄せ、瞳を細めている。
それをみ、かれが近眼だったことを思いだす。
「さわってもえいかね?」
無言で頷くと、坂本は膝を折って相棒に視線を合わせる。
まずは顎の下を掻いてやり、相棒の緊張がほぐれたところで首筋を撫でる。
それからやっと、頭を撫ではじめる。
ずいぶんと犬に慣れている。
土佐の実家で、飼っていたことがあるのであろうか。
「それにしたち、人に慣れちゅう狼やき」
「狼ではありませんよ。れっきとした独逸の犬です」
苦笑しながら説明する。
警察の捜査に加わることのできる犬は、直轄犬のほかに嘱託犬がいる。直轄犬のおおくがジャーマン・シェパードである。ほかにはドーベルマンもいる。探索犬になると、ゴールデン・レトリーバーやラブラドール・レトリーバーといった犬種がおおい。
だが、直轄犬は多種に渡る。洋の東西、大型小型、愛玩犬から使役犬まで、ほんとうにいろいろである。
去年の直轄犬の認定試験の見学にいったときのこと、ウエルシュ・コーギーが参加していた。それはもう可愛くて可愛くて、試験官ですら笑みを浮かべていた。
臭跡試験は兎も角として、体力系となると、胴長短足の体格ではなかなか難しい。だが、がんばっていた。どっしりとした尻に、あるかなきかの尻尾。それが右に左に揺れる様は、駆けていってうしろから抱きしめたくなった。
残念ながら、そのコーギーは試験に落ちてしまった。もしも大の犬好きの犯人がいて、あの尻をみせられたら、あきらかに反則技になるだろう。
それもありかな、と思う。
それは兎も角、相棒も秋田犬とか甲斐犬とか紀州犬とかだったらよかったのか。四国犬もありだな。日本原産の犬だったら、幕末にきてからのやりとりは、ずいぶんとらくだったかもしれない。
幕末にきて、もう何度おなじやり取りをしていることか・・・。
「どこの家中の人なが?遠い異国の犬を連れちゅうらぁて、かわった武士やき」
坂本は、この時代の人にしては大柄である。膝を折った姿勢でも、顔はおれの腰の位置にある。
副長に借りた着物に、「之定」を帯びている。坂本は、それに気がついたのだ。
そうだ、坂本は剣の達人である。
「北辰一刀流」の皆伝だ。だが、生涯、一度も他人を斬らなかった。
長州の高杉晋作に貰った拳銃を、いつも懐に忍ばせていた。
どうやら、それは真実らしい。相棒がしきりに気にしている。鼻をひくつかせている。
わずかな火薬の臭いをも感知する能力にも長けた、相棒の反応である。
現代は、通常の捜査や探索だけでは通用しない。テロ対策としての訓練も、充分こなしている。
とくにこの時代の拳銃は、現代とは比較にならぬほど火薬の臭いに溢れているに違いない。
同時に、それとは違うとんでもないことを思いだした。
いまは慶応三年(1867年)の夏だ。この冬、坂本は暗殺される。中岡慎太郎とともに、潜伏先の醤油屋で。
盆地である京特有の蒸し暑さだけでない、じめっとした空気が、まとわりついて離れない。
近い将来、死ぬであろう男と話をしている。
「いえ、おれは藩士ではありません」
かろうじてそう答える。
坂本は、その声音が震えていることに気がついたであろうか・・・。
「犬の散歩に雇われた、喰い詰め浪人です」
「そうなが、おおごとやき。やけど犬はいい話相手くじゅうてくれる。なにより付き合うがやき面倒臭くない」
嘘にも気がついたはず。それでも坂本は、そういうと軽快に立ち上がる。
「ちくと急ぐきに・・・」
そういうと、坂本は人懐っこい笑みを浮かべる。
「また会えればいいやき。ほいたら、失礼するがで」
坂本はおれの右肩をぽんと叩き、最後に相棒の頭を撫でる。それから、掌を振りながら去っていった。
その背をみ送っていると、ほんのわずかの気と視線を感じた。
坂本がでてきた路地の奥からである。
おれたちとは反対の方向へ、数人の男が足早に去ってゆく。
そして、そのなかの一人が、おれたちをみていた。
背筋が凍りつく。
それは、まぎれもなくあの夜の襲撃者の一人、「人斬り半次郎」である。
坂本と「人斬り半次郎」・・・。
薩摩は、最終的には坂本を裏切ることになる。
いや、真実は現代にいたっても解明されていない。あくまでも、その説の可能性が高いということだ。
そう、坂本と中岡暗殺の犯人、そして、黒幕はわかっていない・・・。
そのとき、おれの横で相棒がすっくと立ち上がり、真っ黒の鼻を夜空に向けた。そして、低くうなる。
みつけたのである。
相棒は、武田観柳斎を確実に捉えたのだ。