龍馬への一撃
ゆっくりと襖が開いてゆく。
そこに、小柄な武士が座している。その左太腿には、太刀が寄り添っている。それは、自分に害意がないことを意味する。
かれは叩頭した姿勢から、わずかに面をあげる。
上目遣いに、自分に背を向けている坂本と中岡を確認する。
部屋のなかの様子。坂本と中岡のいる場所。そして、得物の置いてある位置。自分と両者の間の距離を、瞬時に把握したであろう。
おれは、この若者の名をしっている。桂早之助である。
実行犯にかれが加わっているのは、かれもまた佐々木とおなじく小太刀の名手だからである。
その桂が、唾を呑み込んだ。その音が、室内にやけに大きく響く。そして、かれの心臓は、早鐘をうっている。それもまた、はっきりとわかる。
緊張が、いやでも伝わってくる。
奇しくも、かれにとって最初の人殺し。それが、坂本の暗殺なのである。
一つだけある燭台が、なんのまえぶれもなく突然たおれた。
灯が途絶え、そとからの明かりも遮断されている室内が真っ暗になった。墨を落としたようなという比喩表現がぴったりなほど、室内は真っ暗である。
「殺れっ!いそげ」
間髪入れずに発せられた命に、桂は躊躇せず膝頭をすすめる。膝行する衣擦れの音が、いやにおおきくきこえる。
「石川っ!」
闇のなか、坂本が中岡の変名を叫ぶ。膝立ちで闖入者のほうへむきなおりつつ、床の間の刀掛けにかけてある自分の愛刀「陸奥守吉行」へ左腕を伸ばしたであろう。
桂は、それを気配で察したはず。いまだ瞳は、闇になれていない。それでも、委細かまわず腰から脇差「越後守包貞」を右掌で抜き放ったであろう。
自分が確認し、記憶した状況と気配だけで、坂本の膝立ちになったときの頭の位置を予測し、脇差を右から左へとはしらせたはず。
この闇のなか、桂という小太刀の名手の技が、充分に発揮された瞬間・・・。
そして、坂本龍馬という男の命運を絶つきっかけを与えた一瞬・・・。
さらには、この日本の歴史から、英雄を葬り去った刹那・・・。
床の間に飾られた「梅椿図」。これは、坂本のバースデープレゼントとして、文人であり勤皇家でもある淡海槐堂が自作して贈ったものである。
桂の一閃は、坂本の額を薙いだ。そのときに飛散した血が、「梅椿図」に付着した。
現在、それは重要文化財に指定されており、「京都国立博物館」に所蔵されている。
くぐもったうめき声に、どさっというにぶい音がつづく。
そのタイミングで、襖の向こうに潜んでいるさらなる暗殺者たちが、いっせいにおどりこんできた。