絶品蕎麦と密偵のゆくえ
この狭い部屋に、大人が総勢十五名。鰻の寝床式の家屋である。控えの間のような三畳間をあわせても、せいぜい十五畳。関東間よりかは若干ひろいが、それでもこの人数では息苦しいことこの上ない。
だが、その密着間もあってか、隣の者と両肘をぶつけあいつつ仙助の蕎麦を食べおわった時分には、体全体があったまった。
みな、食べおわるまで無言だった。腹が減っていたこともある。できた仙助は、体格の小さい者には二杯。大柄な者には三杯。永倉と島田、林、坂本には、その三杯にプラスして、替え玉を準備していた。
「うまいやか。こがーうまい蕎麦ははじめて食べちゅう。のう、慎太?」
坂本は食べおわると、おおきな掌をうちわがわりにひらひらさせながら、幾度も賛辞を繰り返す。
大量の汗が額から流れおちてゆき、化粧をどろどろにしている。しかも、大量の鼻水までだだ漏れである。
みるに耐えない、とはまさしくこのことであろう。
そして、その声は鼻声である。
「ああ、うまかったやか。新撰組に、こがな料理人がおるとはな」
中岡もご満悦のようだ。小六が差しだした手拭で、相貌の顔料を拭いながらいう。
「いいや、新撰組の者じゃねぇ。れっきとした夜鳴き蕎麦屋の職人だ」
そういった副長の声音には、どこか誇らしげな響きがこもっている。
その仙助は、指を詰めたほうの掌で照れたように頭をかいている。
「いっとくが、ここは一応おれの隠れ家ってことになってる。新撰組の者でも、いまここにいる者以外は存在すらしりゃしねぇ。そこにおしかけてきやがって、いってぇどういう料簡だ、ええ?」
副長は、どうにかみれる顔に戻った坂本と中岡に鋭く問う。
仙助と鳶が蕎麦の鉢を集め、洗ってくれたようだ。
副長と中村を上座に、おれたちはそのまえに並んで胡坐をかいている。互いの膝をぶつけあいながら、両者に注目する。
「峰吉は悪くないがで。峰吉にいかんに連れてこさせたきす」
坂本がいう。
「あぁあの餓鬼か?わかってる。あの餓鬼は、商家の倅だろうが?ああいう餓鬼は、目端がきいて利巧だ。ちっとやそっとじゃ約定をたがえるようなことはしねぇ。新撰組の餓鬼どもよりよほどしっかりしてるだろうよ。あらかた、おめぇらが脅したりすかしたりしやがったんだろうが」
餓鬼の時分、商家で奉公していた目端がきいて利巧だった副長がいう。
「で、そっちは中岡慎太郎、だな?新撰組副長土方歳三だ。こいつらのなかには、みしった者もいるだろう?」
「「鬼の副長」さんの噂はよおききゆう。そうやき、何人かにゃ会おった・・・」
中岡は、すこし居ずまいを正して応じる。さしもの中岡も、副長の態度のでかさに、もとい、威厳に、無意識のうちにそうしてしまったのであろう。
「この二人が、ほんものだが?」
そのとき、吉村が中岡の言にかぶせてなにかいった。
坂本と中岡。土佐でも歴史的な両英雄が吉村をみ、同時に瞳をみはる。
「二人ども、みがげだごどがあるな」
吉村は、その視線のなかまたなにかいった。
副長も坂本も中岡も、異国人にしゃべりかけられてなにがなにやらわからぬまま、愛想笑いでごまかす気弱な日本人のごとく曖昧な笑みを浮かべてかすかに頷く。
「山崎、密偵どもの正体は?それを、この二人におしえてやれ」
副長が命じると、山崎はすらすらと澱みなく答える。
「薩摩、岩倉卿、見廻組、黒谷、紀州、そして、土佐に福井・・・」
坂本も中岡も、山崎の顔をじっとみつめている。
意外である。そのリストのなかに、福井の名まであがっているからである。
福井は、四賢候の一人松平春嶽が率いている。春嶽候は、坂本に好意的であったはず。
その福井が・・・。正直、土佐より意外すぎる。
「というわけだ、坂本。てめえに死んでもらいたいってやつらの希望をまんまとかなえてやるってのも、おめぇ、癪じゃねぇのか?いいや、そんなことよりも、ふざけたおめぇでも、死んでほしくねぇって願ってる者がいる。その数のほうがおおいってもんだ」
副長の言に、中岡が「もっともだ」とでもいうようにおおきく頷く。
「兎に角だ、坂本。もうおめぇの意思やら希望やらは関係ねぇ。おれたちももうあともどりはできねえし、するつもりもねぇ。てめぇと中岡は、とっとと京からでてゆきやがれ。血なまぐせぇことはおれたちが、おめぇら自身のことは陸奥やらグラバーとやらがうまくやる」
副長得意の一方的かつ上から目線かつ超高圧的な態度と言葉に、坂本も中岡も返す言葉もないようである。