冬のある寒い朝と寒い夜
この日、早朝から雪がちらほらしている。
早朝稽古に参加する際は、明け六つ(6時)には起きる。
もちろん、この時分は、夜が明けてないのでまだ暗い。
井戸端で顔を洗い、歯を磨く。それから、道場にむかう。
歯磨きというのは、柳の枝の先端を叩き、房状にした房楊枝に塩をつけてそれをこする。
現代の歯磨きと、おなじようなものである。
いまのところは、ありがたいことに事なきを得ているが、幕末で虫歯になったりしたら、引っこ抜くという処置法になるであろう・・・。
そう考えるとぞっとしてしまう。
正直、外科や内科などは怖くない。が、歯科だけは苦手である。あのキーンという機器の音や、マスク姿の歯科医の姿を思いだすと、いまだに怖くなる。いい大人が、といわれそうであるが、現代人のおおくが一生涯なれることができないのではなかろうか?
そういえば、おねぇの歯が真っ白できれいなのを思いだした。歯磨き粉で手入れしているのであろう。
この時代の歯磨き粉とは、陶土から作る磨き砂にハッカや丁子といった薬効のある薬草を加えたもので、すでに江戸時代にはあったといわれている。
兎に角、今朝は、まず布団からでることができなかった。おまささんのところから頂いた、例の布団である。重いがあたたかい。
早朝稽古のあるなしにかかわらず、幕末での早起きは、いいや、いつの時代であっても、起きて布団からでることが苦行なのである。
これが現代なら、ヒーター、エアコン、電気カーペット。こういったもののタイマー機能を駆使し、起きる30分ほどまえから部屋をあたためておけばいい。
いや、それはごく一般的な家庭の話か。
おれのマンションには、もともと備え付けられていたエアコンがある。基本、冷房機能しか使わなかった。冬は、例の人殺しソファー「マン・キラー」と炬燵を組み合わせ、冬をのりきっていた。
日本の誇る暖房器具炬燵・・・。これは体全体をあっためてくれるばかりか、光熱費もそうおおくかからないすぐれものである。
いまにして思えば、「マン・キラー」とともに、炬燵も背負ってくればよかった。
あぁくそっ、だめだ。電源がとれないではないか・・・。
今朝、布団のなかでそんなことを考えたり思いだしていた。その所為で、よりいっそう布団からでることができない。いっそ、朝の稽古を休もうと思った。
ちなみに、朝の稽古は任意である。強制ではない、はず。たいていは、夜中の巡察当番の組の隊士たちが参加する。わざわざ起きてまでというのは、よほどの物好きか稽古好きかであろう。
が、おれは自分で自分をののしった。へたれなおれを、ではない。無茶ぶりでしかない約束をしてしまった、お馬鹿なおれを、である。
その前夜、「兼定御殿」に相棒の様子をみにいってみた。
しんしんと冷え込んでいる。雪がちらほらしているではないか。同室の野村もいなかったので、よけいに寒く感じられる。
相棒が、寒がってやいやしないか?寒がっていたとしたら、今夜だけは一緒に寝てもいいと、布団を抱えて御殿へとむかう。
寒さに負けて相棒を行火がわりにしようとしたわけでは、けっして、けっしてない。あくまでも、相棒のためである。毛皮をまとっているとはいえ、短毛である。
京の底冷えは、堪えるに違いない・・・。
いそいそと、これもまただれかにみつからないようこそこそというわけではないが、「兼定御殿」へと急ぐ。
「兼定御殿」。
新撰組でそう呼ばれるようになった相棒の小屋は、なんと窓までついている。そこと、入り口の引き戸の隙間から、明かりが漏れているではないか。
だれかがいる。人間がいる。
「相棒っ!寒くないか?」
引き戸を開けながら、相棒に様子を尋ねる。
「寒いっ!はやく閉めやがれっ!」
即座に返ってきたのは、まぎれもなく人語・・・。しかも、やけに副長の声に似ている・・・。
副長、島田に林、伊藤、野村に子どもたち・・・。
御殿内は、人間でひしめきあっている。副長などは、文机と燭台までもちこんで書類仕事をしている。
どうやら、みながみな、おなじことを考えていたらしい。
みながみな、相棒が寒がってやしないかと案じてやってきてくれた。
なんとありがたいこと、だろうか・・・?
そのとき、だれかがいった。これは兼定の為、であると。すると、ほかのだれかがいう。「なら、明朝の稽古に参加できるか?できないであろう?」、と。
結局、売り言葉に買い言葉的に話がエスカレートした。つまり、その場にいる、もちろん、副長をのぞいて、全員が参加することになった。できなければ、完璧なるへたれ、というわけである。
心中でとんだ約束をしたものだと、自分自身を呪いながら相棒をみる。すると、子どもらの間でもみをくちゃにされている相棒は、眉間に副長ばりの皺をいくつもよせ、すごく迷惑そうな表情で、おれをみている。
現代なら確実に、記録的な最低気温と朝の情報番組やら天気予報で伝えるようなこの朝、早朝稽古に参加した者がいたのかどうかさえ、わからない。すくなくとも、おれはへたれになりさがった。
御殿内にいただれもが、まるでそんな約束などなかったかのように日中ふるまった。それどころか、そのことについて会話の端にすらのぼらなかった。
おれたちだけでない。
その朝はほかの隊士たちもへたれになり、早朝稽古そのものがなかったにちがいない・・・。