相馬 肇
おれは相馬肇。これでも元京都府警刑事部捜査第一課の捜査員だった。
いまは鑑識課に属し相棒とともに訓練と実戦の毎日を過ごしている。
親父が叩き上げの刑事だったこともあり、おれも小さい頃からそうなることが当たり前だと思っていた。そして、親父は剣士でもある。陸自や大学生どもに負けぬ腕をもつ一流の剣士。剣道をさせれば全国大会で何度も優勝しているし居合をさせれば英信流をよく遣う。
おれは親父の背中をいつもみつめ追いかけてた。大学三回生まではだれにも負けなかった。居合も英信流の皆伝だ。周囲が就活で四苦八苦しているなか、おれは陸自の誘いを蹴って警察を選んだ。警察学校での厳しい訓練の後に配属されたのが刑事部だった。
キャリア、いわゆるエリートコースだ。そんなものにはいっさい興味はなかった。警察というところは身内意識が強い。公務員試験もコネがなければ難しいのが現実。入ってからも昇進できるのは一部の子弟だけだ。お偉いさん方の息子や娘らが、いわゆる上の方を目指してゆく。逆にいえば、よほど秀でていないかぎり、あるいはよほどの手柄かニュース性満載のそれを立てないかぎり、せいぜい巡査長か警部補どまりってわけ。まったくせちがらい世界だ。
おれがそんなものに興味がなかったのは、やはり親父の影響だ。親父は生涯現場で生きた。そしてそこで死んだ。だからおれも当たり前のようにそうしようと、配属後しばらくまではそう思ってた。
いつからだろうか、おれのすべてがかわってしまったのは・・・。
夜の訓練場はおれの鍛錬にはぴったりの場所だ。明かりもなにもない訓練場。今夜も頭上で月と星が淡い要したからだ。そして、視覚以上に聴力と臭覚、そして感覚が研ぎ澄まされた。「まるで犬だな」と一課の先輩たちは笑ったものだ。
自分でもそう思った。
いまもおれはすでにおれたちの近くに気が存在しているのがわかっていた。相棒はいうまでもなくわかっている。それでもおれは自分の鍛錬を中断したくなかった。
呼吸を深くしてゆく。姿勢は地面に片膝をつけた立膝。
「横雲」「虎一足」「稲妻」「浮雲」「颪」「鱗返」「岩波」「浪返」「瀧落」「受流」
英信流早抜き。ほとんど光のない暗がりの中、日本刀が空気を斬り裂く鋭い音がする。
残心をして納刀する。それをおれの真正面で座ってみていた相棒が唸った。
「なんだ?馬鹿いうな。おれに迷いなどない」おれは相棒に文句をいった。相棒がおれの刃には迷いがある、と指摘したように思えた。
そのとき、犬舎の向こうから感じていた気が近づいてきた。
「あいかわらずだな。なにもこんな暗闇でしなくても道場ですればいいじゃないか?」
「訓練場のほうが落ち着くんですよ、刑事長」
おれは招かざる客人の為に犬舎の壁に付けられたライトを点灯させた。途端に訓練場の一部が明るくなった。犬舎内にいる直轄犬の数頭が非難の唸り声をあげた。
「兼定、昨夜も大活躍だったな。ほら、差し入れだ」
おれの元上司であり剣道のライバルである京都府警刑事部捜査一課の課長荒木英雄だ。身長180cm、体重68kg、50代後半ながら若い時のままの体型を維持出来ているのには驚きだ。それは筋力も同様で、いまでも現役の剣士である。警察の道場では先生を務め、警察関係者のみならず多くの社会人や学生、子どもたちを指導している。そして、仕事では「捜査の鬼」と異名を持つ叩き上げの刑事。まさしく剣士と刑事になる為に生まれてきた漢だ。
親父の後輩であり相棒だった漢でもある。
刑事長は、訓練場の近くのスーパーの名前が入ったビニール袋を掌に持っていた。それを近づきつつひらひらさせた。
相棒にはすでにそれがなにかわかっている。臭い以前に刑事長がいつもそれをそのスーパーで買って持ってきてくれることをわかっているからだ。
「パブロフの条件反射」か?いつもは無愛想極まりない相棒も、このときばかりは尻尾を右に左に動かし地面を掃いた。