禁忌と指三本
「これをご覧ください」
松吉の父親は、左の袂をめくり上げると左腕をあらわにした。
そこにあらわれた左腕を目の当たりにし、思わず息を呑んでしまう。
それは、永倉と原田も同様で、三人でただ茫然と眺めてしまう。
先日の追跡の際、まったく気がつかなかった。
「お恥ずかしいばかりで・・・」
松吉の父親は、苦笑まじりにつぶやきつつ、袂をおろす。
二の腕から掌の甲へとはしる斬り傷・・・。そして、左の掌・・・。
そこにあるはずの小指と薬指。ともにない・・・。
それは、剣士としては致命傷である。
なんと応じていいのかわからず、刀のほうへ視線を戻す。
それを掌にしたとたん、背筋に冷たいものがはしったような気がした。まるで、みえないなにかに背を撫でられたかのようだ。
顔を左右に振り、気合を、正確には勇気をふりしぼる。
そうしないと、柄にかかった右掌が、動きそうにないから。
深呼吸する。
刀を鞘から解放するのに、これほど躊躇したことなどない。そして、これからもないかもしれない。
右掌を叱咤すると、それはやっと動きだす。それでも、緩慢な動きである。が、体の動きとはべつに、はやく鞘から解放したい。どんな業物が飛びだすのかみてみたい、という気持ちもある。
相反する心と身体・・・。いわゆる、怖いものみたさ、というのであろうか・・・。
じょじょにあらわれる刀身。鞘のなかからひきだされ、空気に触れたところからくもりを帯びるようにみえるのは、瞳の錯覚だろうか・・・。
不意にめまいがし、気分が悪くなる。
こんなこと、はじめてである。この刀の毒気に、当たったとでもいうのか。
もういい、充分である。中途で、それを鞘に戻そうとする。
が、できない。戻すどころか、右掌はその反対、つまり、鞘から抜きつづけている。
「おいっ主計、なにをやってる?」
永倉の怒鳴り声ではっとし、体ごとうしろに座す永倉のほうを向こうとするも、それもできない。
永倉もなにかを感じているのか、ちかよってこない。
「さすがは、新選組の方々です。刀のことを、よく感じられるのですな」
左掌に添えられた掌、そこには、指が三本しかない。そして、右掌に添えられた掌には、ちゃんと指が五本ある。
その力強い掌は、正気付かせてくれたばかりか、力をも与えてくれた。
それを、やっと鞘に戻すことができた。
それはまさしく、悪霊を封印したようなものである。
「これは、呪われております。数百年もまえから、人間の血を吸いつづけております。直近が、これ、というわけです」
松吉の父親は、おれの掌にある刀をとり、左腕をひらひらさせる。それから、それを刀掛けへ戻す。
「これは、徳川家禁忌の業物なれど、わが一族にも禁忌のものでございます」
かれは、ふたたび座しながら厳かに告げる。その内容で、それがなんだったのかをしることができた。
「村正」・・・。
それは、伊勢は桑名の刀工の作である。徳川家康の祖父が、謀反で殺害された凶器であり、嫡男が切腹した脇差でもある。家康自身、それで指や掌をきっている。
そういう経緯から、これは徳川家禁忌の刀といわれている。
だが、ここにある「村正」は、徳川家とはべつの意味での禁忌があったのであろう。
だからこそ、これだけ禍々しい気に覆われているということか。
だからこそ、松吉の父親は、剣士としての道を断たれたのであろうか・・・。