公開訓練
今回は、基本的な追跡法を取ることにした。
「兼定、ゴー」
通常は長いリードに繋ぎ、犬のあとをハンドラーがついてゆく。
そのリードは、いまは使いたくとも使えない。
神社の林のなかに、放ってしまったからだ。
おれたちはいつ、どの時点で幕末に迷い込んだのか?
リード、それに合羽や刀を雨避け代わりに包んでいた袋は、落ちているだろうか?
そうだ、あそこに戻ったらなにかわかるかもしれない。
もしかすると戻れるかもさ・・・。
おれの合図で相棒が地面を嗅ぎはじめる。
さほど難しい追跡ではない。
相棒は迷うことなく庭から縁側に飛び上がると、そのまま廊下を嗅ぎながら進みはじめる。
相棒には、いまの地面を嗅ぐ方法と、空気を嗅ぐ方法との二種類を訓練している。
犬によっては、地面に残る臭気を嗅ぐのを得意とするものと、空中に漂う臭気を嗅ぐのを得意とするものがいる。
相棒は、両方とも使いこなすことができる。
一般的に、犬の嗅覚は人間より百万倍から一億倍すぐれているといわれる。
警察犬などの使役犬のほうが、よりその比率は高くなる。訓練されているので、当然のことだ。
そして、犬が追うのは人間の汗、臭酸を嗅ぎ分け追いかける。
地面に残った、あるいは空中に漂う。
ハンドラーは、犬から数メートルはなれてついてゆく。
集中する犬の邪魔にならないよう、それでいて様子がわかり指示をだせる距離である。
もっとも、いまは室内の為さほどはなれられない。
そのおれたちのうしろを、山崎に島田、子どもらがぞろぞろついてくる。
しかも、事情をしった隊士たちが、われわれもと加わるものだから、その数がどんどん増えてくる。
井上源三郎の甥っ子の泰助は、ずいぶんと張りきって隠れ場所を探したようだ。
あらゆる部屋を駆けずり回っている。
厨に使用人の部屋、道場、物置のようなところ・・・。
そして、相棒は一筋の煙が上る小屋のようなところへと向かった。
薪がたくさん積まれている。煙は、どうやらその小屋の外で上がっているようだ。
「風呂だよ」
すぐ後ろにいる山崎が教えてくれた。
驚いた。泰助は、臭気を追う犬から逃れる方法をしっているのか。
風呂に入ってしまえば、臭気が絶たれる。さすがの相棒も、右往左往するだろう。
同時に、違うことも考えていた。
土方が呼びにいかせた組長が二人しかいなかったこと、日野から子どもらを呼び寄せていること、そして、風呂があることから、1867年頃なのかもしれない。
そう、江戸から呼び寄せた伊東甲子太郎が、離党した時期だ。
一番組組長の沖田総司は労咳で近藤の妾宅に、三番組組長の斎藤一および八番組組長の藤堂平助の姿を、一度もみていないというのが頷ける。
そして、土方が薩摩に襲われたことを隠したがっていること・・・。
だとしたら、もしかすると坂本龍馬の暗殺も、この位の時期なのか・・・?
自分の推測に、自分で愕然としてしまう。
はっとすると、積まれた薪の前で相棒が伏せている。
犯人の追跡ではなく、お遊びだということを相棒もわかっている。
その証拠に、尻尾が右に左に動いて地面を掃いている。
「みつけたな、相棒!よし、小さな犯人を確保せよ。やさしくな。ゴー」
再度の号令に、相棒は伏せの姿勢のまま前進をはじめる。
人間でいうところの匍匐前進だ。
おれのうしろで、だれかが息を呑む音がする。
相棒が薪の束を迂回し、そのうしろにまわる。
それから、ちいさく「ウオンッ」と吠える。
「うわっ!みつかった」
子どもの叫びがきこえてくる。
「すごいっ!あっという間だ」
泰助は叫びながら薪のうしろの隠れ場所から飛びだし、相棒に抱きついた。
相棒の困り顔は、それはもうみものだ。
スマホさえあれば、撮ってやりたかったのに・・・。