岩崎弥太郎
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人である。
もともと、岩崎家は由緒正しい。たしか、甲斐武田の当主の息子の一人が、岩崎村を本拠にしてそう称したのがはじまりだったはず。
その後、その末裔が長宗我部家や山内家に仕え、ひいひい祖父ちゃんの代で郷士の株をうってしまい、地下浪人になった。
いや、この岩崎にかぎっては、先祖の云々より本人の功績がもっともたるものだろう。
なにせ、現代日本において、この名をしらぬ者などいないといいきれる、財閥の創始者なのだから。
「三菱財閥」、である。
永倉に気絶された武士は、おれがカツを入れて正気づかせた。
岩崎は、島田と松吉の父親にはさまれ、猪首をすくめ、立派な八の字の鼻髭の下には媚びた笑みを浮かべ、おれたちをみている。
「土佐の岩崎さんですよね?」
自分では爽やかにみえるであろうと思われる笑みとともに、岩崎に尋ねる。
「ええ、岩崎です。どこかで、お会いしましたか?」
土佐弁ではない。
が、日本語を習得したばかりの外国人のように基本に忠実で、たどたどしい。
「はい。お顔はよく、拝見させていただいています。ですが、言葉を交わすのははじめてです」
正直に答える。
これ以上にないほど真実である。
岩崎は、ごつい相貌のちいさな瞳に、油断のない光をたたえている。
口許にはあいかわらず媚びた笑みが浮かんでいるものの、おれを値踏みしているのがはっきりと感じとれる。
「三菱財閥」の創始者は、やはりやり手の商売人である。
早朝の爽やかな木漏れ日も、男ばかりのおどろおどろしい雰囲気のなかでは、焼け石に水状態である。
岩崎の油断のならない瞳をみつめながら、この状況をまとめようとがんばってみる。
長崎にいるはずのグラバーに岩崎・・・。
グラバーのお気に入りの芸妓を殺害したであろう容疑者が入っていった、おなじ裏門からでてきた岩崎・・・。
そして、その裏門の向こうにいるであろう岩倉具視・・・。
これが偶然というにはできすぎている・・・。
岩倉、グラバー、岩崎、そして、容疑者が最初に立ち寄った家・・・。
「わたしにご用とか?わたしは、さきをいそいでおるのです」
岩崎の問いに、はっとわれに返る。
「申し訳ありません、岩崎さん。お手間はとらせません。じつは、われわれはある人を追っていましてね。その人を、このあたりで見失ってしまったものですから。そこにきて、ちょうどあなたをおみかけしたもので。なにかご覧になっていたのではないか、と」
「ほう・・・」
その嘆息に、警戒と不審の息吹を感じる。
「どんな男でしょう?」
はい、岩崎さん、おれにポイント一点。
内心でほくそえむ。ほくそ笑みながら、さりげなく周囲をみまわす。
永倉は、右掌で正気づいた男の襟首を掴んで動きを封じているものの、暇そうプラス興味なさそうに大欠伸をしているし、襟首を掴まれている男もまた、うんざりしたような表情で欠伸を噛み殺している。
くOモンは、木の枝で羽根を休めている小鳥たちを、ゆるーい表情でながめている。
さすがに、二番組伍長であり、監察方でもある島田、それから、同心の松吉の父親は、おれたちのやりとりを興味深げにみている。
相棒も然りである。おれの左足許でお座りし、岩崎をじっとみつめている。
「岩崎さん、あなたもご存知のはずの人ですよ」
そう断言し、岩崎の反応をたしかめつつ、ふたたび爽やかな笑みを浮かべた。