冤罪とは
仙助の蕎麦のあまりのうまさに、おかわりをしてしまった。
ふたたび、相棒の瞳力に負けてしまう。
ふーふーと息をふきかけ冷ました蕎麦を、相棒もまた堪能する。
あきらかに喰いすぎである。
正直、ここにきてから太ったかもしれない。
まえよりも規則正しい生活になっているからであろう。
いや、通常は反対だろう。不規則な生活にくわえ、栄養の偏ったものを食す習慣から、規則正しい生活に、質素なものを食す習慣にかわったのである。
なにゆえだ?なにゆえ、太った気がするのか?
体脂肪計どころか、体重計もない。数値上で確認することは難しい。もっとも、秤はあるから、魚や塩や醤油なら、量ることはできるかもしれないが。
以前、着ていたものを着れば、太ったかどうかわかるじゃないか、と思いつく。
以前、着ていたものは、メルカリで購入したブランド物のスエットスーツであることを思いだす。
洗って、いまは押入れのどこかにあるはずのそれは、ウエストのところがゴムになっている。
これがジーンズであったら、あるいは、スーツであれば、すぐに判明する。
そして、へこんだことであろう。
ストレスの問題だろうか?緊張感の問題だろうか?
どちらも、ここでは感じられない。もちろん、緊張感という点では、斬り合うときや駆け引きなどにはある。
だが、それは異種のものだ。現代では、いつも緊張していた。仕事だけではない。日常生活ですら、感じることが多々あった。
そして、ストレス。
まったくない、といいきれる。どれだけないのだ、と突っ込みたくなるくらい、ない。
現代でありすぎたのか、あるいは、ここがよほどおれに合っているのか・・・。
心身ともにリラックスできている自分が、自分でも驚きである。
音楽も絵画も文章も、自然の景色も音も、いっさい必要ない。
ただ、ふつうにしているだけで、リラックスできている。
環境どころか、時代までかわったというのに・・・。
またしても、副長の言葉が思い起こされる・・・。
いや、まて。
これは、おれが太ったかもしれない疑惑から、意識を叛けようとしているか、ごまかそうとしているだけだ。つまり、現実逃避である。
男らしく、認めねばならぬのか?
これこそが、中年太りなのか?ということを・・・。
まだそんな年齢でないと信じて疑わぬのだが、若年性中年太りということがあるかもしれない。
若年性痴呆症や若年性更年期障害とおなじように・・・。
そのとき、足許でお座りしている相棒と瞳が合った。
その瞳は、「しょーもないこと考えるな」、といっているようだ。
だから、腹いせにいってやった。
「おいっ相棒、おまえも太ったんじゃないのか?」
すると、相棒の長い口吻の間から「げふっ!」と盛大にげっぷが漏れた。
「肥満の問題は、人間だけじゃないぞ、相棒?ペットだって要注意なんだ」
すると、相棒はさりげなく立ち上がる。副長ばりに寄せられた相棒の眉間の皺をみつめていると、相棒は黒い尾を、明けつつある空に向かってぴんと立てる。
「ぶぶぶっ!」
なんと、剣術試合での坂本のあの屁よりも立派な屁の音が、静まり返った京の街角に響き渡った。
はっとすると、松吉の父親、永倉に島田、そして、仙吉までもがおれをみている。
どの瞳も、五つ星ホテルのレストランかバーで、おれが全裸ではしりまわっているかのような、そんな冷ややかな光を宿している。
相棒は、おれの足許でお座りしている。そして、人間とおなじように眉間に皺を寄せ、おれのマナー違反を咎めるかのようにみ上げている。
さもなにもしていないかのように。なにも起こさなかったかのように・・・。
「おれではありません。おれでは、ないのです・・・」
力なく訴える。
満員電車で、「この人痴漢です」と掌を掴まれ、大声で叫ばれたかのような気になってしまう。
冤罪とはこういうことをいうのかと、つくづく実感しながら・・・。
「旦那方、あいつでっせ」
そのとき、仙吉が囁いた。
おれたちの瞳がみ護るなか、屋内から一人の男がでてきた。そして、左右に視線を走らせる。
男はきっと、ちかくの夜鳴き蕎麦屋にいる複数の客を認めたであろう。
それから、おれたちとは反対の、まだ明けきらぬ京の町へと消えた。
おれたちは仙吉に別れを告げ、その男の後を追った。