トーマス・グラバー
相棒は、鼻で地を嗅ぎ、ずんずんすすんでゆく。
永倉と島田、そして、松吉の父親と鳶という目明しが、おれと相棒のうしろをついてきている。
目明しの鳶というのは、ニックネームらしい。
本名は、末吉である。九人兄弟の、いかにもとりを飾るというそのネーミングに、当人は子どものころからずいぶんといやな思いをしているらしい。
身の軽いところから、だれかがかれを鳶というようになり、かれもまた、そのニックネームを気にいった。ゆえに、いまでは鳶でとおしている、というわけらしい。
つけられた当人にとっては、キラキラネームもさることながら、単純すぎるネーミングもそれなりに苦労する、ということであろう。
毎度のことながら、相棒の集中力はすごいと感心する。
もちろん、これは相棒にだけいえることではない。捜索や救助など、臭いを追う訓練を受けている犬はすべておなじである。とくに、ジャーマン・シェパードのような狼の血を濃く受け継ぐ犬種は、追うということに長けている。
狼がそうであるように・・・。
かれらは、狙った獲物を何日にもわたって追うことがある。その執着心と集中力が、ジャーマン・シェパードにも備わっている。
「島原の方角だな・・・」
島田のおおきすぎる囁き声が、背にぶつかって落ちてゆく。
この時代、隠れたいと思ったら、みな、島原にゆくのか・・・。
妙に納得してしまう。まぁ、それはそうであろう。人間の心理として、できるだけ人のおおいところに紛れ込んだほうがいいと思うし、ある意味ほっとできるだろうから。
もっとも、幕末だからこそ、そういう場所が島原か祇園に限定できるわけで、現代だったらそうはいかない。
相棒のしなやかで黒い背をみつめつつ、トーマス・グラバーについて思いだそうと試みる。
トーマス・グラバーは、スコットランド出身の商人である。たしか、「なんとかマンセン商会」の社員として、上海にしばらく赴任し、その後に長崎にやってきた。
そこで、「なんとかマンセン商会」の長崎支店として、「グラバー商会」をつくった。
ちなみに、「なんとかマンセン商会」の「なんとか」、というのが名前ではない。不覚にも思いだせないのである。
グラバーは薩長と取引し、坂本率いる「亀山社中」とも取引をしたはずだ。
最初は、ほかの商人と同様、生糸やお茶といった貿易をした。が、八月十八日の政変以降、武器をうることを主とする。
八月十八日の政変とは、長州や一部の公家が画策したクーデターのことである。それにより、長州は京を追われた。
いまや武器商人として、八面六臂の活躍をするグラバー。幕末期のみならず、明治期にも活躍している。土佐の岩崎弥太郎という三O財閥の創始者となる男と組み、炭鉱の経営や麒O麦酒の基礎を築いたのだったと思う。
プライベートでは、日本人女性と結婚し、息子と娘をもうけたはずである。
これはいま、この状況ともグラバー自身との生涯とも、直接関係も影響もない。
あくまでも余談だが、グラバーの長崎での邸宅は、現代では「グラバー園」として開放されている。長崎にいったらはずせない、観光名所の一つである。
そうこうしているうちに、島原とは違う方角へとすすんでいることに気がついた。
またグラバーへと思いをはせる。
そんな幾つもの逸話があるなかで、興味を惹いたことがある。
それは、トーマス・グラバーがフリー・メイソンのメンバーではないのか、ということである。