あの・・・
「グラバーという異人です・・・」
松吉の父親の口からでた名は、だれにも感銘を与えることはない。
すくなくとも、永倉たちにはぴんとこなかったらしい。おれも、その名を脳内で咀嚼するのに、しばしときを要した。
「ええっ!グラバー?グラバーって、あのトーマス・グラバーのことですか?」
おれの叫びに、全員が体をびくりとさせる。
声がでかすぎだ。
はっとして下を向くと、相棒がうんざりしたような瞳でおれをみ上げている。
「あのトーマス・グラバー?」
松吉の父親が、当惑した表情でおれをみてくる。
「ご存知なのですか?ただ、グラバーとしか・・・。あのトーマス・グラバーというのですか、グラバーは?」
え・・・?。
思わず、頭の上に、漫画の吹きだしみたいにクエスチョンマークが浮かぶ。
「あのトーマス・グラバーって異人は、なに者だ、主計?」
「あのトーマス・グラバー?異人の名は、理解できぬ」
副長につづき、原田がせせら笑う。
そこにいたり、ようやく気がつく。
あのトーマス・グラバー・・・。
つぼにはまった。
すぐ瞳のまえの家屋のなかに、二体の仏があるというのに、不謹慎にも笑いをおさえることができない。
上半身を折って笑う。目尻にたまった涙を指先で拭っていると、また相棒と瞳があう。
(馬鹿笑いしてないで、はやくしろ)
その瞳は、そういっている。
懐紙の臭いを嗅ぎ、追う気満々の相棒である。
「おいおい、なにがおかしいってんだ、主計?」
前傾の姿勢で笑っているおれの後頭部に、副長の不機嫌な問いが落ちてくる。
「申し訳ありません」
姿勢を正すと、そこにいる全員をみまわす。
「あのトーマス・グラバーという名ではありません。トーマス・グラバーです」
笑いでふやけた脳内に気合を入れ、トーマス・グラバーについて思いだせるかぎりのことを、脳内のメモ帳に、箇条書きにしようと試みる。
だが、相棒のモチベーションを優先させるべきだ。
「グラバーが京に?で、仏と懇意にしていたんですか?」
いますぐしりたいことだけを、確認する。
「京にくることはあまりありませぬ。京は、異人にとっては鬼門も同様。芸妓は、もともと新町の芸妓だったようです。それを、移籍させたのだとか」
松吉の父親の説明は、突っ込みどころが満載である。
すくなくとも、おれのなけなしの知識や常識では、いまの説明では不可解なことばかりである。
「副長、ときが経てば経つほど、臭跡は不利になります」
捜索開始の許可を求める。
副長は眉間に皺をよせ、一つ頷く。
「とっとといきやがれ。だいたい、おめぇがややこしいことをぬかした上に、勝手に笑ってやがったんじゃねぇか、ええ?」
おっしゃるとおり。返す言葉もございません。
副長の指摘に、指先でこめかみをかくしかない。
「永倉、島田両先生よ。二人を、しっかり護ってくれ。頼んだぞ」
「承知」
副長の命に、即座に了承する二番組の組長伍長コンビ。
「兼定、がんばれよ。おっ、ついでに主計もがんばれ」
「ありがとうございます、原田先生。ついでの主計が、相棒にかわってお礼申し上げます」
激励してくれた原田に、苦笑とともに礼を述べる。
それから、相棒に命じる。
「相棒、行くぞ」
相棒は、指示と同時に鼻を地につけ、犯人の追跡をはじめた。