あいつだけは……
「ハジメ君。きみと副長、それから兼定兄さんに、頼みがある」
「冗談じゃない。こっちの頼みをきく耳すらもたないっていうのに、おまえの頼みだけきいてもらおうっていうのか?ムシのいいことをいうなよ」
「あいつのことを頼みたい。おれにかわって、あいつを護ってほしい」
かれは、切実に訴えてきた。
俊春は、俊冬が自分のことを嫌っているといっていた。
が、ぜったいにそんなことはない。
「断る。なにゆえ、おまえのかわりをしなきゃならない?冗談じゃない。それは、おまえの役目だろう。おまえが責任をもって、かれを最後まで護れよ」
自分でも意地悪なことはわかっている。わかってはいるが、きいてやるつもりはない。
おれは、間違っているのだろうか?
「あいつまで死ぬ必要はない。もちろん、きみもだ。この戦いがおわったら、きみと兼定兄さんとで副長とあいつを連れ、国外に逃亡してほしい。きみ自身の死は、絶対的なものじゃない。どうとでもなるだろう?だから、どこかにいってほしい」
「そんなこと、おまえにいわれなくったってそうするつもりだ。まえにいったよな?四人でどこかにいこうって。副長もくわえてみんなでいこう」
「きみに暗示をかけたり、ましてや危害を加えて無理矢理従わせたくないんだ。生きる気のない者の意志を覆すのは難しい。きみ自身、それを何度も経験しているだろう?受け入れてくれ。そのほうがラクになる」
近藤局長がそうだった。説得ができなかった。
そして、井上源三郎だってそうだ。
京で散っていいという、かれの気力をくじくことはできなかった。
ダメだ。
おれでは、とても俊冬の説得ができない。
近藤局長のときと同様である。
おれでは、とてもどうにかできるものじゃない。
近藤局長のとき以上に、無力感に苛まれてしまう。
いつの間にか、かれから視線をそらしてうつむいてしまっていた。
「副長の前では言えなかったが、あいつは性的虐待のトラウマだけじゃない。悪夢にも悩まされている。餓鬼の頃から多くの人間を殺め、傷つけてきた代償は、あいつの心を完全に壊してしまった。毎晩眠ることができず、眠れたとしても悪夢にうなされる日々だ。あいつの心理状態によっては、おれでさえ近づくことができないほどだ」
彼は、つぶやくように言った。その両拳は、強く握りしめられてまっしろになっている。
その彼の拳を見ながら、ショックというよりかまたしてもどうしようもない無力感に苛まれてしまった。
俊春は、精神状態を巧妙に隠していた。とはいえ、その不調、それどころか壊れきった精神状態の片鱗さえ気がついてやることができなかった。
すぐ側にいたにもかかわらず、だ。
「許してくれ」
そのとき、謝罪とともにおれの肩に掌が置かれた。
視線を上げると、意外に穏やかなかれの表情がある。
「謝る相手を間違っているだろう?」
「そうかもしれないな」
「俊春は、かれは……。かれのことを思うと、やりきれないよ」
「ああ、わかっている。ハジメ君。『狂い犬』を演じていないときのあいつは、ただの泣き虫で弱虫でシャイな男だ。だから、独りぼっちにしたくないんだ。しかし、あいつはおれがいなくてもなんとかやっていけるだろう。だが、おれは、おれは……。最近のあいつは無茶をしすぎている。その理由もわかっている。あいつに何かあれば、おれが生き残るようなことになれば、おれはダメだ。おれの方が、あいつよりずっとずっと弱いから」
肩にのっているかれの掌が震えている。
「ハジメ君、お願いだ。あいつだけは死なせたくない。あいつを死なせたくないんだ。あいつの側にいて、護ってくれ。おれの後を追わないよう、寄り添ってやってほしい」
俊冬の両瞳に涙があふれたかと思うと、堰を切ったように流れ落ちはじめた。
「あいつがいつまで生きられるかわからない。いまだってギリの状態だ。いや。限界をこえてしまっている。この戦いがおわったら、あいつは以前のようには動けなくなるだろう。寿命だって縮まっているはずだ」
涙同様、言葉が溢れてくるようだ。
『生命を削っている』
先日、俊春と話をしていたことである。
「俊春は、おまえが自分のことを嫌っているといっていたが?」
ふと、そんなことを口走っていた。
いまのかれをみれば、どうかんがえたって俊春を嫌っているようには思えない。
「いや……。嫌っているように見せかけて……、いや、ちがうな。おれが自分自身にそういいきかせてきていることだ」
「おまえ自身に?どういう意味だ?」
かれは、ほんの一瞬だけ視線をそらした。それから、ちいさく頭を振った。
言うか言わぬかを逡巡しているのか?
「餓鬼のころ、おれは過ちを犯した。くそったれの大人どもに犯され、泣いているあいつを……。いまだになぜあんな愚かなことをしたかはわからない。慰める術だったのか?たぶん、それもあっただろう。だが、まだ餓鬼だった。その行為に純粋な愛などなかった」
正直なところ、その告白はおれにとって衝撃的すぎた。
「それ以降、うしろめたさがずっとつきまとっている。あいつは、そのときいっさい抵抗しなかったし、そのあともおれを責めるようなことはいっさいなかった。いっそ、非難してくれた方がおれ的にはずっとラクだったんだが。だが、一方でおれの中で何かがかわってしまった。あいつの見方が、まったくちがってしまった。おれは、あいつよりずっと弱い。肉体的にも精神的にも、ずっとずっと弱い。だから、常に自分自身にいいきかせなければならなかった。あいつの兄貴的な存在であるようにと。そうでなければ、あいつに、あいつに溺れてしまう。溺れてしまうことがわかりきっている……」
これほど苦しそうな俊冬をみたのははじめてである。
かれも一人の人間で男でおれとおない年の、ある意味では青二才なんだと実感した。
同時に、死のうとしている理由のひとつは、俊春にあるのだと確信した。
「そんなに俊春のことを愛しているのに、それでもおまえは死ぬというのか?」
「だからこそ、なのかもしれない……」
「おまえがなにをいおうが思っていようが、おれは納得できない。容認するつもりもない」
これだけは、ぜったいに譲れない。
めずらしく、かれは集中力が途切れたようだ。どこか上の空になっている。
俊春のことが気にかかるのだ。
たしかに、かれを引き止めすぎた。




