荒井と甲賀とジョン・ドゥー
「相棒は、本来ならいまはまだ存在しない犬種です。いまよりしばらく後、ドイツで様々な犬種をかけあわせ、軍用犬としてつくりだされるのです。ジャーマン・シェパード。これが相棒の犬種名です。おれは荒井先生のことも甲賀先生のことも、幼少時代からこれまでのあらかたのことを語れます。荒井先生にいたっては、これからさきのことも同様に語ることができます。これよりずっとさきの時代には、あなた方の出自や経歴や逸話などの資料が残っているのです。副長があなた方に語ったのは、おれが副長に告げたことです」
さきほどの海戦がとおい過去の出来事にように、空も海もいまは穏やかで静かである。
「っていわれても、やはり信じられませんよね」
あまりにもながい沈黙に耐えかね、苦笑しながらいってしまった。
「いや、相馬君。信じるよ。なぜなら、わたしが死ななかったからだ。冷静にかんがえてみると、わたしはきみや土方さんの助言がなかったら、銃弾か砲弾かをこの身に受けたはずだ。俊春君や俊冬君がいなければ、甲鉄に斬りこんだ者たちのおおくが死んだはずだ」
甲賀が静かにいった。その真摯な表情は、かれがマジでそう思っていることをあらわしているような気がする。
「源吾、きみの申すとおりだ。土方さんの助言通り、きみはこの海戦で負傷したことにすればいい。指揮をとるのがむずかしいほどの負傷だ。それから、おりをみて本土にもどるか、蝦夷のどこかに潜伏するほうがいいだろう」
それから、荒井がいった。その表情もまた、おれのいったことを信じてくれているにちがいない。
「土方さん。わたしも源吾も、けっして生命が惜しいわけではない。だが、犬死にするつもりもない。この戦の結果が敗れて玉砕というならば、まだ生命の賭けがいがある。しかし、結果が降伏であるならば、生命を賭けても仕方がないような気がする」
荒井の両肩が落ちた。
途端に、申しわけなさでいっぱいになった。
かれのヤル気をなくさせ、テンションをがた落ちさせてしまったのである。
その上、仲がよくて片腕といってもいい甲賀がいなくなれば、かれは孤独感にさいなまれることになるかもしれない。
それでも、その仲のいい甲賀が荒井自身と戦場にいることで、甲賀の生命が危険にさらされるかもしれない。
荒井は、そういったもろもろのことを考慮し、結果的に親友の生命を選んだのであろう。
「わかりました。そうですね。正直なところ、口惜しいし無念でなりません。だが、生命を賭けるべき対象も時機も逸してしまっている。これからさきは名をかえて出家するか、あるいは伴天連になるか、兎に角、なんらかの神に仕え、これまで散っていった、あるいはこれから散るであろう仲間を供養することにしましょう」
甲賀は、相棒に触れてもいいか合図を送ってきた。そして、おれが無言でうなずくのを確認をしてから、相棒のまえで両膝を折ってその頭をなではじめた。
「申し訳ありません。あなた方の信念や理想を挫くつもりはありませんでした。しかし、結果的にはそうなってしまった」
「相馬君、謝罪は必要ないよ。なにせ源吾が助かったのだからね。ああ、案ずる必要はない。土方さんの申されるとおり、この話はここだけのことにする。だれにも口外はしない。というよりかは、口外できることではないからな」
荒井は、ウィキどおり温和で謙遜家のようである。
そのタイミングで、向こうの方から二人連れがこちらにやってくるのに気がついた。
「ハローハロー!マイ・ネイム・イズ・ジョン・ドゥー。ナイス・トゥー・ミー・トゥー!」
英雄の野村である。肩を並べるのは、俊冬だ。
「イッツ・ア・ビューティフル・デイ・イズント・イット?」
野村は大袈裟に両腕をひろげ、空を見上げてから海上をみまわして叫んだ。
「みなの者っ!吾輩のことはジョンと呼びたまえ。ジョン・ドゥー。それが、吾輩のあたらしい名である」
なるほど。
すでに野村利三郎は、英雄として非業の死をむかえたっていうよりかは「たたぬ」のを悲観しての投身自殺をしている。
名をあらためる必要があるってわけだ。
ジョン・ドゥー。
名無しの権兵衛ってわけだ。
俊春が、その意味についてみんなに告げた。
「甲賀君、よければあの馬鹿のジョンも同道してくれるとありがたい……」
「お断りします。いくら生命の恩人の頼みであれ、きけるものときけぬものがありますから」
副長が頼みきるまでに、甲賀が拒否った。
荒井が笑いだした。もちろん、ソッコーで伝染する。
おれたちの笑い声が、海風にのってゆく。
どこまでのってゆくのだろう……。
歴史上でも稀有な海戦、宮古湾の戦いは、おれたちが敗北した。
まさしく、史実どおりに……。
宮古湾へ向かうときとはちがい、かえりは天候もよくなっていることもあり、艦内もずいぶんと雰囲気がちがう。
たしかに任務は失敗におわった。しかし、事実上の戦死者はいない。それこそ、擦りむいたりぶつけたりしたような軽傷者が何名かいる程度である。
もしかすると、この海戦じたいムチャぶりだということを、一部をのぞいてだれもが感じていたのかもしれない。
ゆえに、これくらいの被害ですんだことに安堵しているんだろう。
負傷に関しては、かくいうおれも甲鉄から回天へと俊冬に引き上げてもらった際、どこかに二の腕をこすってしまったようだ。
薄皮がめくれてしまっていることに、ついさっき気がついた。
これが名誉の負傷といえばそうなのかもしれない。
唾でもつけとけば治る程度の名誉の負傷ってわけだ。




