また熊のご訪問?
そのとき、副長のうしろにある窓ガラスになにかがあたった音がした。
刹那、副長が飛び上がった。
いまの副長の反応は、先日の熊事件のトラウマによるものにちがいない。
『キキーッ!』
めっちゃあかん系の音が、室内に響きはじめた。
爪でガラスをひっかく、あの身の毛もよだつ音である。
まあ、黒板をひっかく音よりかはマシかもしれないが。
ってか、まさかまた熊?
だとすれば、松前城はどんだけ熊の訪問がおおいんだ。ってか、なにゆえピンポイントで副長の部屋を選択するんだ?
「おっと、ごめんごめん」
そのとき、副長の補佐官然と執務机の横で控えている俊冬が、窓ガラスにち近寄った。
みな、熊事件のことはきいている。
みんなで固唾をのんでみまもるなか、俊冬は勢いよく窓ガラスを開けた。
「兼定兄さん、おまたせ」
かれの一言で、全員がいっせいに息を吐きだした。
相棒が、窓を爪でひっかいていたんだ。
「副長、いれていいですか?」
「ああ、たま。無論だ」
「いや、ちょっとまってください」
俊冬の問いに応じた副長の答えにかぶせ、思わずダメだしをしてしまった。
「今宵は雨は降っていませんが、地面はぬかるんでいます。せっかく大きくてきれいな部屋をいただいたというのに、いきなりドロドロにしてしまうのはいかがなものかと」
「きみ、いいかい?きみにとって兼定兄さんはしょせん相棒かもしれない。だけど、かれはおれたちにとっては兄みたいなものだ。それを、ドロドロにしてしまうから、このクッソ寒いなか外で凍え死ねだなんて。人間って、どれだけ冷たい生き物なんだろう」
俊冬が涙ながらに反論してきた。
「主計。おまえ、ひどいやつだな」
「誠にひどいやつだ」
「信じられぬ」
「この寒さに兼定を野ざらしにするなどとは……」
「マジで塩対応すぎだな」
島田をかわきりに、みんながディスりだした。
最後の野村にいたっては、『おまえにいわれたくないよ』って喉まででかかった。
さらに、俊春がすぐ隣で無言の圧をかけてくる。
つまり、かっこかわいい相貌を悲し気にゆがませ、しかも瞳をうるうるさせているのだ。
ついさっきフランス軍士官たちを「駆逐してやった」同一人物とは、とても思えない。
ってか、このままではおれも『駆逐してやる』宣言されるかもしれない。
思わず尻を反対側にずらし、俊春と距離を置いてしまった。
「なんだい?」
すると、俊春とは反対側に座っている伊庭にぶつかった。
「あ、すみません」
にこやかに、あ、これは愛想笑いというやつだが、笑顔で伊庭に謝罪した。
「きみ、ぼくが人間じゃないからってあからさまに避け、愛している八郎君にくっつくことないじゃないか」
刹那、俊春が立ち上がって弾劾してきた。
「い、いや、なにをいって……」
そんなつもりは毛頭ない。まったく?たぶん、たぶんまったくない。いや、俊春が人間じゃないとかそういう理由で避けたわけじゃない。だが、伊庭を愛していてくっつくとか、それもないない。
まったくないない……?
ってか、なにこの展開?
混乱のきわみのなか、副長の「兼定、こい。おれが許す」という召喚の呪文とともに、相棒が窓を華麗に飛び越え室内に着地した。
相棒の黒くつぶらな瞳が、こちらをにらみつけている。それが、室内の灯火の灯を受けてはっきりみてとれる。
「お、おれが悪うございました」
これまでの経験から、さきに謝ったもん勝ちだということを学んでいる。
ゆえに立ち上がってまずは俊春に、それから俊冬と相棒に深いお辞儀とともに謝罪した。
そんなおれの謝罪をよそに、俊春は相棒にさっとちかづいた。軍服のポケットから手拭いをだし、四本の脚をせっせと拭いてから体も拭いてやった。
それから、床についている肉球の形をした泥も拭いてまわった。
なんて甲斐甲斐しいんだ。
こんなできた男を彼氏にすれば、風邪をひいたり怪我をして動けなくなったら、それこそ痛いところに手が届く勢いで甲斐甲斐しく世話をしてくれるにちがいない。
いや、それだけではない。老後の世話も完璧だろう。身体介護に家事援助、入浴介助や下の世話まで……。
「きみ、なにをいいだすかと思えば。なぜぼくがきみの下の世話までしなきゃならないんだ?」
どうやら、床についた泥を拭きおわったようだ。
俊春は、立ち上がりながらまたしても文句をいってきた。
「例えばの話だよ。ほめているんだ。すっごく面倒見がいいんだなって。ってか、おれの心の声をきくなよ、感じるなよ」
「逆ギレだ。みっともない。ねぇ、兼定兄さん?」
「ふふふふふふんっ!」
相棒は、あいかわらず塩対応である。
だが、相棒はみんなといっしょにいれて、どことなく機嫌がいいみたいに感じられる。
一瞬、明日からの出撃も連れていけないかなってかんがえてしまった。
艦長の甲賀、それから海軍奉行の荒井に頼めば、もしかして連れていけるかもしれないだろうか。




