中堅 斎藤一
中堅は、斎藤である。
斎藤は、土に描かれた線にいたるまでもなく、控えているその場で草履を脱ぎ、素足になってから二度三度と素振りをくれた。それから、試合場の向こうに視線をはしらせた。
それにつられ、向こうに視線をはしらせる。
ゲロ佐川が、剣士の一人と面突きあわせて話し込んでいる。
その相手の剣士は、まだ試合にでていない。ならんでいる位置から、その剣士は一番最後にでる予定なのであろう。つまり、大将、である。そして、ゲロ佐川は、つぎにでるはずの位置。つまり、中堅だ。
じっとみつめていると、ゲロ佐川がおれたちを指さし、なにやら熱く語っている。いや、熱く、というところは、あくまでもおれ個人の主観であって、誠のところは熱いのか、ひえきっているのかはわからない。
そしてついに、相手の剣士が両肩をすくめた。それから、木刀を握らぬ右の掌を、ゲロ佐川の相貌のまえでひらひらと振った。ついで、左の掌に握る木刀を肩の位置まで上げると、それを頭の後ろにまわし、担ぐようにした。
こちらに、というよりかは試合場へと歩をすすめる。
「ふっ」と、斎藤が笑った。それが、視界の隅に映る。
どういう意味の笑いなのか、おれには理解できない。
ゲロ佐川は、中堅から大将へとかわってもらったことになる。ということは、斎藤との勝負より、こちらの大将との勝負を選んだことになる。
斎藤は、それがおかしいというのであろうか?ゲロ佐川と、やりたくないのか?
やはり、理解できない。
「なきすって?順番を、かえるがやきす?」
坂本が、隣で叫ぶ。
それは、こちらがききたい。
そのおおきな坂本のまえに、小柄な斎藤がすっとちかづく。それから、相貌を上に向け、坂本と視線をあわせる。
そこには、とても爽やかな笑みが浮かんでいる。
「おそらく、あなたと勝負したいからでしょう、才谷さん?わたしとは、勝負するまでもないということです」
それから、くすくす笑う。
さしもの坂本も、その少年っぽい態度に面喰らったらしい。瞳を、何度も瞬かせている。それから、副長をちらりとみる。
つられてみてしまう。いや、みなが副長をみている。
「おれは、佐川殿ではない。真意がわかるはずがなかろう?おれの佐川殿の印象は、ゲロだ。それしかない。なぁそうであろう、主計?」
突然ふられ、どぎまぎしてしまう。同時に、あの失意ともいうべき一夜のことを思いだす。
せっかくの豚まんのにおいが、つぎはゲロのそれへとかわる。
「両者、まえへ」
審判が、呼ぶ。
斎藤は、局長と副長に律儀に一礼すると、そのまま開始線まですすむ。相手にも一礼する。
相手は田辺という、皆伝の腕らしい。中肉中背、相貌は濃い髭に覆われている。正直、その一つ一つの造作はわからない。汚くみえる髭でないことだけが、救いであろう。みためは、こつこつと真面目に研鑽を積み、ときをかけて皆伝にいたった、という典型的な努力の人のようにうかがえる。
こちらでいうところの、井上みたいに。
が、試合後にしったのであるが、田辺は、剣術をはじめてわずか三年で皆伝を得たという。いわゆる麒麟児である。麒麟児というのは、実際の年齢も二十歳そこそこらしく、まさしく麒麟児なわけである。
なにもかも、驚きの剣士というわけだ。
「はじめっ!」
審判の号令と、「かんっ!」という鈍い音とが同時である。
おれたちは、呆けた表情で、宙をみている。
そこに、木刀がゆっくりと弧を描きながら舞っている。
「参りました」
そして、そのか細い声で、地上へと視線を戻す。
おれたちは、みた。
どこをどうやったのか、斎藤が田辺の後背にいて、そこからまわされた木刀の剣先が、田辺の眉間を軽く突いている・・・。
「かつんっ!」、とまた鈍い音が響く。
それは、木刀が地に落下した音である。