宮古湾から蝦夷へ
「おおげさな。だったら、どっちか死んでなきゃってやつじゃない。二人とも思いっきり生きてるよね?にゃんこ、きみはなんでもかんでもドラマチックに脚色しすぎなんだよ。どうして『頬の傷も身体の傷も、史上最強のアサシンとの勝負に負けた代償なんだ』ってシンプルにいえないわけ?」
俊春は、しれっと自分で自分のことを史上最強のアサシンといった。
まあ、たしかにそうなんだが。
「うるさい、わんこ。なにが世界最強のアサシンだ。世界最弱の泣き虫だろうが。だいたい、おれのイケメンをアーミーナイフでえぐりまくるなんて、ドМもいいところじゃないか」
「はああああ?きみがやれっていったよね?ぼくは拒否ったのに、きみがやれっていったんだ」
あ、あのー……。
なんかまたはじまった。
とりあえずは、俊冬の頬の傷や二人の体の傷のトリビアは解明された。
そのあと、かれらはずっと喧嘩しながら過酷きわまりないワークアウトをおこなっていた。
きっとあれだ。この二人は、仲がよすぎて喧嘩する系にちがいない。
「太江丸」には、定員以上の人数がおしこまれている。当然、寝るのも雑魚寝程度である。布団どころか大の字になれるスペースもない。くわえてこの艦は輸送艦である。ちゃんとした船室がおおくあるわけもない。
というわけで、定員の九十五パーセントが、現代でいうところの貨物室で身を横たえ夜を明かさねばならない状態なわけである。
だれもが胎児の姿勢にかぎりなくちかいという、窮屈な体勢ってわけだ。
わがままは承知で甲板ですごすことにした。
どうせ相棒の様子をみる必要がある。いや、ちがった。相棒に様子をみてもらう必要がある。
気候も天気もいいからこそ、甲板で夜露にぬれることができる。
というかんがえを抱く輩がおおいようで、甲板にあがってきている者がじつにおおい。
ってか、甲板のそこかしこで身を横たえている。でっ、おおくが鼾をかいている。
よって、俊冬と俊春は、いつもの半分もワークアウトができなかったようだ。そういう連中に、場所を奪われたからである。
おれ自身は、相棒とともに甲板においてあるおおきな木箱の脇に場所をゲットした。
ここなら死角になっていて、ちょっぴり個室感が味わえる。
意外にも、そんなところででも爆睡できた。
気がついたら、夜が明けて太陽が燦燦と輝きまくっている時刻であった。
宮古湾で物資の補給をし、いよいよ蝦夷へ向けて出発した。
集結場所の鷲ノ木沖までは、丸二日もかからなかった。
船酔いする者がほとんどいなかったほど、航海はおだやかで順調であった。
到着までの時間を利用し、副長、島田、蟻通、中島、尾関、尾形、俊冬、俊春、そしておれとで、今後のことを詰めていった。
もうごまかしやもってまわったいい方をする必要はない。
史実に伝わっている覚えているかぎりのことを伝え、その上で打ち合わせができるのは、おれにとってもみんなにとっても、ある意味有益で有意義なことである。
ちなみに、安富と久吉と沢は、ちがう艦に乗船している。
この太江丸に馬を乗せることができなかったからである。
大坂から江戸へ逃げる際は、初代「豊玉」と「宗匠」を連れてゆけなかった。艦に乗せるのが、人間だけで精一杯だったからである。
結局、初代「豊玉」と「宗匠」は、山崎や林とともに丹波にいかせた。ゆえに、安富はかれらと別れなければならなかった。あのときの安富の失意ぶりは、近藤局長の斬首をきかされたときよりひどかったように思う。
しかし、今回はちがう。連れてゆけるのだ。
かれらだけちがう艦に乗船しろといわれても、安富は機嫌よく了承した。
『連れてゆけるのなら、泳いでもいい』
安富は、そういったらしい。
とんだ「馬フェチ」っぷりではあるが、ある意味うらやましいともいえるだろう。
これほど好きなものがあるのだから。
人間にたいしてであろうと動植物、あるいは趣味などであっても、好きで好きでたまらず、没頭できるものがあることはいいことである。
それは兎も角、この二日間は船上でクルーズ気分なんてことはいっさいなかった。
打ち合わせ以外でも、俊冬と俊春の銃などの武器の手入れや改造を手伝ったり、食事の配給の手伝いをしたり、傷病人の世話をしたりと、それこそ煙草一本吸う暇すらなかった。
ってか、煙草はやらないんだけど。
銃の改造や手入れは、隊士たちも率先して手伝ってくれた。なので、この二日間で新撰組の手持ちの武器に関しては、すっかりカスタマイズされ、ピッカピカになった。
遊んでいたのは、野村と子どもらくらいである。
ブリュネらフランス軍の兵士たちにつきまとっては、会話を試みたりフランスのことをきかせてくれってねだったりしまくっていた。
野村は、薩摩だけでなくフランスにも亡命できるだろう。
かれなら、桜島だろうと凱旋門だろうとフツーに観光し、それどころか薩摩人あるいはフランス人のなかににソッコーでとけこんでしまうだろう。
ちなみに、だれもが一度は映像や写真でみたことのあるフランスの凱旋門は、エトワール凱旋門という。
それは、幕末より半世紀ほどまえの1836年に、ナポレオン・ボナパルトがつくらせたものである。




