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凶行と捕獲

　まるで猫だ。四本の脚を折って鼻面を地面すれすれまで落とし、猫よりもはるかに大きく重い体を伏せて慎重に慎重に獲物に忍び寄ってゆく。月の光を受け黒い瞳（め）は肉食獣の輝きを発している。

　男は、右の掌にアーミーナイフを握っている。左の腕が女の細首に回され、アーミーナイフのぎざぎざの刃先が女の頚動脈の辺りにぴたりとくっついている。

　分厚く幅広の特殊な形をした刃は、月の光を吸収して鈍い光を帯びている。それは、一度生き物の体内に入るとすぐには抜けなくなる。内臓がぐちゃぐちゃに斬り裂き潰されてもなお、そこに留まることができるのである。

　女の唇がちいさく動く。そこには、真っ赤な口紅（ルージュ）が塗りたくられている。

　淡い月の光にもかかわらず、それがやけに艶かしく瞳（め）にうつる。

（助けて・・・）

　女の口が、はっきりそう形づくる。

　狭い路地裏である。人間（ひと）一人が、やっと通れるほどの広さしかない。バブル期の遺産。雑居ビルの立ち並ぶこの辺りには、スナックやバー、キャバクラやホストクラブが消防法や公序良俗法などお構いなしに店を構えていた。それがいまではみる影もない。おおくの店が淘汰され、それどころかビルそのものがなくなった。それらのおおくは、コインパーキングへとかわった。

　カラオケボックスやネットカフェ、ラーメン屋、昔ながらの場末のバーは、まだ残っている幾つかのビルでほそぼそとやっている。

　物騒なものを振りまわす男は、いわゆるオタクだ。そしてニートでもある。現代社会の象徴ともいえるだろう。それがいきつけのネットカフェの女性店員に、一方的な愛情を抱いた。不健康きわまりなく育まれたその愛情のゆきつくさきは、一つしかない。

　ストーカー行為。

　女性店員は、幾度となく最寄の警察に相談した。が、お役所というところはそういう犯罪性のないものにたいしては一個人の悩み事程度にしか扱わない。

「パトロールを強化しましょう。つきまとわれたらスマホで撮影するといいでしょう」

　玄関先で、けんもほろろに追い返したろう。

　そんなこと、ちいさな子どもでも働く知恵だ。

　よくあることと済ませるには、理不尽であろう。

　男は、この夜ついにエスカレートした。そこでやっと、警察が重い腰を上げたわけだ。

　虐めをしっていて、みてみぬふりきこえぬふりをする学校とおなじである。

　警察も学校も、犯罪が起こってから、虐められた生徒が自殺してから、はじめて動きだす。

　ネットカフェが入っているビルの路地。おれたちは、いまそこにいる。

　男は、惚れた女を誘拐した。が、逃走手段を手配しなかった男は、女をネットカフェが入っているおなじビルの空き部屋に連れ込み、そこに隠れていた。

　そして、この始末というわけだ。

　おれは、不法投棄されている冷蔵庫のうしろに身を潜めている。

　女性店員の捜索にあたっている所轄署の警官が、交渉（ネゴシエイト）を試みている。

　幸運にもその警官は、沈着で名高いベテランの巡査長である。そして、かれはおれたち（・・・・）のことをしっている。

　巡査長の時間稼ぎともいえる単調な説得が、狭い路地裏にやけにおおきく響く。

　相棒は、おれの姿がよくみえていない。相棒の種族が、近眼だからである。が、おれたちには一種独特の意思疎通方法が確立している。そして、相棒には野生の勘がある。気配を感じることに長けている。

　むしろおれのほうが、こういう明かりの乏しいところにおいてハンデがある。

　掌を下に向け、ゆっくりとおいでおいでの仕種（ジェスチャー）をする。

　巡査長との睨みあいと、不毛ともいえる説得のお蔭であろう。男の注意力が散漫になってきている。

　女性店員の唇は、もう動かない。若いのに、気丈な娘（こ）だと、感心する。

　親指を立て、それを下へ向ける。刹那、その気配を感じた相棒が、伏せの姿勢から動く。猫よりもすばやく力強い動きは、瞬時にして男との間合いを詰める。すかさず跳躍し、アーミーナイフを握る男の手首に噛みつく。

「ぎゃっ！」

　男の口から短い悲鳴が上がるよりもはやく、巡査長が飛び込んで女性店員を自分の方にひきよせたた。

　おれもまた、そのうしろから一足飛びに飛び込み間合いを詰める。男が取り落としたアーミーナイフを、蹴り飛ばす。

　それは暗闇のどこかに飛んでゆく。

「カツッ」

　それがビルの壁に、ぶつかる音がした。

「まて」

　一言だけ発する。同時に、男の傷ついた手首と襟首を掴み、そのまま背負い投げの要領で投げ飛ばす。

　男は、空宙できれいな放物線を描く。そして、どさりと地面に叩きつけられる。

　ささやかな人質救出劇が終焉を迎え、現場はその後始末でおおわらわである。

　いくつものライトが、灯されている。それらは、暗がりに慣れた瞳（め）には明るすぎる。

「よくやった、相棒」

　相棒の長い鼻面を撫でてやる。それから、もふもふとはほどとおい、黒い短毛のしなやかな肢体を抱きしめる。

「ふんっ！」

　相棒は、返事がわりに一つ鼻を鳴らす。

　相棒は、いつもクールなのである。

　おれの名は、相馬肇（そうまはじめ）。

　京都府警刑事部鑑識課に属する、鑑識課員である。

　そして、おれの相棒は、京都府警直轄犬のジャーマン・シェパードの兼定（かねさだ）号。

　おれたちは、最高のコンビってわけだ。

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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ぽんた