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九 銀糸の願い、鬼への代価

 そのころ川辺の里では相変わらずの日照りが続いていた。里のおさが里のに住む三百余人を連れ、巫の屋敷を取り囲んでいる。

 いま屋敷には銀糸ぎんしというかんなぎが住んでいる。干魃に見舞われた里に雨をもたらし、灯桜ひざくらの後任として里の巫覡ふげきとなった若い男だ。

 屋敷は灯桜のものとは違い立派で長の家よりも大きい。この屋敷こそが巫の本来の住居だ。灯桜がボロの小屋に住んでいたのは半ば懲罰だった。


 里の巫覡が銀糸に代わった日からまだ雨は降っていない。銀糸と契った白銀の龍がもたらした雨は、夏至を過ぎた日差しで早くも干上がり、田の土は再び白くなった。都に納める租は稲から芋へ替わったとはいえども、これでは芋すらまともに育たない。もちろん里の民の糧もなく、飢餓の危機が迫りつつある。


「銀糸さま。どうか再び雨をもたらし、里を救ってくださいませ」


 長は砂の地面にひざまずき、銀糸に向かって深々と頭を下げた。その背後にはすきくわを持った男が並んでいる。みなそろって鉄の刃を太陽に向かい掲げ、その鈍い輝きを銀糸に見せつけていた。


「頼むからもう一度、雨を降らせてくれ。飢え死んじまう」

「覡さまならできるだろ」

「都には水が満ちているらしいじゃねぇか。都の巫にできるなら銀糸さまもできるだろ」

「とっとと降らせろ。俺んとこは井戸も涸れたんだ。殺す気か」


 本来、巫覡は里の長よりも上に立つ者。本来は最大の敬意でもって接せられる立場だが、もはや里の者にはそんな気持ちは見られない。彼らの語気は荒く、痩せた顔から血管が浮き上がっている。


「お気持ちはわかるのですが、天の一切は神が握っております。いまも私に宿る神に雨を乞うております。しばしお待ちを」


 顔面蒼白の銀糸はそう言って長に向かい頭を下げた。


「てめぇ、昨日もおんなじこと言ったろ。口だけなら俺でもいえる。結果を出せ! とっとと降らせろ!」


 井戸が涸れたと言っていた男が鍬を掲げ、銀糸に向かって走りだした。

 周りにいた男どもが「やめんか」と鍬を取り上げ、銀糸を殺さんばかりの勢いで走る身体を押さえ込んだ。


「銀糸さま。ご無礼をお許しください」

 里の長はまた深々と頭を下げる。


「いえ、しかたありません。民が苦しんでいる責任は私にあります。飲み水に事欠くなら私でも彼のように怒ります。どうか咎めないでください」


 銀糸は長に言った。


「仰せのままに」


 長が銀糸に向かって頭を下げている間、里の者は銀糸に襲いかかった男の家族を家路につかせていた。

 だが、里の民が持つ農具はまだ引き下げられていない。鈍い鉄の刃先はいまも銀糸を向いている。


「長、どうか民を連れて帰ってくださいませんか。これでは神に語りかけることはできません。さきほどの男が渇きに苦しまぬように。どうか今日はお引き取りを」


 銀糸は里の長に嘆願した。屋敷より出て、長と同じように膝を砂につけながら頭を下げた。


「仰せのままに。では、銀糸さま。雨乞いに努めてくださいませ」


 長は農具を持った里の民に指示して家路につかせた。


 散り散りになりゆく里の者は銀糸を横目でにらんでいる。もちろん一部の者ではあるものの、この眼差しは銀糸の置かれた立場を示していた。いまの銀糸は灯桜ほどひどい待遇ではない。まだ覡として守られている。しかし、灯桜の代に積み重なった巫覡への不信は銀糸にも向けられているようだった。


 長は鍬を持った男を制止しなかった。

 里の民が止めなければ銀糸の命はなかったかもしれない。



 銀糸は胸に掛けた青銅の鏡を手に取った。金属の鏡の中には白銀の龍が宿っている。

 鏡の龍が銀糸に顔を向けた。


「どうか里に雨をもたらしてください。里の覡として務めを果たさねばならないのです」


 銀糸は龍に訴えた。

 鏡の中に宿る龍はなに一つ表情を変えることなく銀糸の方を向いている。


「どうかお願いします。どうか、どうか……」


 銀糸の目から涙があふれ出す。青ざめた顔を濡らす雫は、若い銀糸の顔立ちをよりいっそう悲愴なものにした。龍に嘆願する声に力はなく、唇は震えている。

 いまの銀糸は目に見えて衰弱していた。里の者に顔を出していたときはただ堪えていただけ。銀糸の青ざめた顔を労る者は誰もいなかった。


「では、そなたはなにを差し出す?」


 白銀の龍が冷たく言い放つ。


「もう差し出しているではないですか。これ以上なにを捧げればよいのです?」


 銀糸の震えは唇にとどまらず、全身に伝播しつつある。

 だが、白銀の龍はそんな銀糸を見て笑った。嘲り、奈落へ突き落とさんばかりの鬼の笑いだった。


「哀れな若人わこうどよ。太神帝国たいしんていこくにおれば安寧の中におれたのに」


 白銀の龍はまだ笑っている。

 高貴な見た目からは想像しがたい。きっと飢えた獣の方がまだ情がある。


「ち、違う……。あの地に安寧など、ない」


「属国の者ならそうであろう。だが、そなたは本国の出。属国の者を使えば己が苦しまなくて済む」

 銀糸は白銀の龍に向かって首を横に振った。その目は虚ろで、首の動きにつられて全身が揺れている。


「そなたはまだ己の精気のみで済ますつもりか。その程度では帝国に勝てぬ。雨を降らせられんぞ」

 巫の屋敷に卑しい笑いがこだまする。


「では、なにが欲しい?」

 銀糸は鬼に問うた。


「肉だ。人の生肉だ」

 龍はさぞ当然という口調で言った。


「それは、なりません。人を供物にするなど、太神帝国と同じ……」

 そう反論する銀糸の息は荒く、絶え絶えとなっている。


「そのような身でなにをぬかす? 『人喰いになりたくない』と青い正義を振りかざし、糧も住居も保証された巫覡の地位を捨てた。後先考えず五稜国に流れたものの、自らの力で糧を得られず我に泣きついた。そして里を救うという名目で我の力を使い、姫神を追い出して里の頂に就いた。

 神と結ばれる力を持たぬ紛い者の巫覡になにができる? 自業自得ぞ」


 銀糸は床に座り込んだ。全身の精気を失い、もはや立つことすらできなくなっていた。鏡に宿る龍に向かって口を動かしているが、まったく声が出ていない。


「生きたいか? 里の巫覡として、なにもかも与えられて暮らしたいか?」


 龍が銀糸に向かってささやく。

 しかし、銀糸は口を震わすばかりで答えられない。


「別に己を差し出す必要はない。里の者を捧げればよいのだ。鍬で襲いかかったあの男はどうだ? あの男はそなたを殺そうとした。あれなら死んでもよかろう」


 銀糸は小刻みに首を横に振った。


「まったく哀れな若人よ。見ず知らずの里を救う必要がどこにある? どうしてただの民を守る必要がある?

 そなたの考えなど見えておる。誰も傷つけたくないからだ。青い、青すぎるぞ」


 白銀の龍は耳をつんざくような声をあげた。

 その声は神と結ばれた巫覡と鬼と契った呪師じゅしにしか聞こえない。里の者は誰一人穢らわしい鬼の嘲りに気づかない。ただ銀糸だけが顔を歪ませながら震える手で耳を塞いでいる。


「苦しいか。苦しいならその耳を差し出すがよい。耳さえあれば精気はいらぬ。我はそなたの願いを聞き入れ里を水で満たそうぞ。さすれば里の者は喜び、限りある糧でもって宴を開くであろう。そなたは若いのだ。一日もあれば青ざめた顔も元に戻ろう」


 龍は幾度と耳を差し出すよう銀糸に要求した。

 この龍は鬼だ。供物を与えればどんな願いも叶えてくれる。言っていることに嘘偽りはない。

 しかし相手は冷酷な鬼、耳といえば片方なわけがない。要求をのめばすべての音を失う可能性が高い。そうなれば銀糸は巫覡の職務に就くことはおろか生活すら困難になる。とても払える代価ではない。


 屋敷に龍の声が反響する中、銀糸は耳に当てた手を離し、天井に向かって伸ばした。底をついた気を振り絞って重い腕を支え続けた。


「よいだろう。ただし、結果はそれ相応のものだ」


 銀糸は小さくうなずいた。



 青銅の鏡より白銀の龍が飛び出した。

 龍は銀糸の左手をかすめ、空高くへと身体を伸ばしていく。太陽を喰らわんばかりに高度をあげた白銀の身体は、地上からは銀の糸に見えた。その糸はやがて空に溶けて黒い雲を生んだ。


 その間、わずか十六分の半刻。里を焼き尽くす日差しは雲に隠れ、代わりに大粒の雨が落ちてきた。

 里の者は身体が濡れることお構いなしに、老若男女問わず外へくり出て欣喜雀躍きんきじゃくやくした。


「雨だ。雨だぞ!」

「我らが里の覡、銀糸さまのお力ぞ」

「さすがは銀糸さま! ありがたや、ありがたや」


 巫の屋敷に里の民が押し寄せた。その一番前には長がいる。

 背後にいる男どもが持っているのは鉄の農具ではない。片手に一枚、里では稀少な銅銭を持っていた。


「銀糸さま。我が里に恵みをもたらしてくださり、長として心より感謝いたします」

 長はひざまずき、服を濡れた土に汚しながら言った。


「つきましては、長雨を祈願して宴を行いたく存じます。その前に銀糸さまのご神意を伺いたく」


 長がそう尋ねたが、屋敷からはなんの返事もなかった。

 いくら巫の屋敷が大きいとはいえ、ここは人口三百余人の小さな里。資力はなく、外からの声が通らぬほどの屋敷はこさえていない。長の声は銀糸に届くはずだった。


 長の後ろで里の民のどよめきが始まった。

 銀糸はいま神と交流している。里の者に構っている暇などないのかもしれない。

 しかし、里の民にそのような意識は希薄だった。長に向かって様子を見に行くよう求める声があがりはじめる。

 長ははじめこそは断ったものの、ついには押し切られて屋敷の中へと入った。


 長は屋敷に入ると神殿へと向かった。その足取りはまるで自分の家であるかのよう。長という立場上、巫の屋敷の構造は頭に入っていた。神殿にいても外からの声が十分届くと知っていたし、いまも銀糸を心配する声がわずかではあるが聞き取れる。


 長は屋敷の一番奥、神殿の扉を開けた。

 そこには銀糸が顔面蒼白になり倒れていた。


「銀糸さま! 銀糸さま。お気を確かに。どうか、どうか目を覚ましてください!」


 長はひたすら銀糸の身体を叩き、起こそうとした。

 そのとき長の手がどろりとした液体に触れた。水とは違うなにか。おそるおそる手を見ると、長の右手は紅に染まっていた。


 血痕は銀糸の左腕に集中している。

 長はその源を追う。

 出血しているのは左手。


 その指は四本しかなかった。

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