人喰いの家
渺渺とした風が吹き荒れる。
古ぼけた一軒家はそれだけで飛ばされてしまいそうだ。
折しも昨日から霙が降ってきている。一軒家の近くの池は今朝方凍りついた。
家の中の座敷には長い黒髪の少女が、鶴の描かれた赤い長襦袢のままで、市松人形の頭を撫でている。そこには匂やかで、且つ退廃を思わせる美がある。
少女はぶつぶつ何か言うかと思えば、突然にくすくすけらけらと笑い出す。一度笑い出すとそれは止めどなく続く。
この寒い中、少女の呼気は白くもならない。
そもそも火鉢も暖房もない部屋で長襦袢のみ纏い、寒くはないのか。
「待っててね。もうすぐ来るからね…」
少女は不自然なくらいに赤い唇でそう人形に呟いた。
赤い唇と青ざめたかと見紛うほどの白い肌の対比が鮮やかだ。そこに漆黒の黒髪が加わり、原色の妙がその座敷に体現されていた。
少女の座る座敷には、大小様々な人形でびっしりと埋め尽くされている。
*
「本当にそんな家があるんですか?」
作家の島原開はいい加減、雪のちらつく中、篠林を歩くのに疲れてきた。
食事も新幹線車内で食べた駅弁だけで、もう数時間は経っている。山中の暮れは早いと言うし、早く編集部が手配したという宿の温泉で温まりたい。もちろんそれからすぐに夕食を食べるのだ。
「うーん。聴いた話だとこのあたりにある筈なんですよねえ、〝人喰いの家〟!次回の先生の作品、ホラーでしょう。参考になると思ったんだけどなあ」
「かと言って本当に喰われちゃ話になりませんがね」
「あはは。それもそうだ」
島原は編集部内でも若手の鹿島崎優を信用しかねていた。
髪は赤味を帯びた茶色にブリーチし、気さくで朗らか、旅の同行者としては向いているが、いかんせん頼りにならないという致命的欠点がある。
今回の企画も彼が持ち込んだものだが、編集長は「まあ、島原先生さえ良いと言うなら」と渋面で許可したと聴く。
揚句に今、あわや遭難という立場にある島原は大層不機嫌であった。
「こっちの方向で間違いないのは確かですって。ほら、獣道も続いてますし」
獣道と人道は違うだろう、お前は俺に獣道を歩かせたいのか、という台詞が開の喉元まで出かかった。おまけに雪は霙となり、風は荒れ狂うばかりだ。
これでは本当に遭難してしまうのではないか。霙では衣服も早々に濡れ、体温を奪われ風邪をひいてしまう。
と、島原は行く手はるか前方に一軒の和風家屋を発見した。
「おい、鹿島崎君、あれじゃないのか?君の言う家は」
ところが振り向いた先には誰もいない。この吹雪に近い状況の中、はぐれてしまったのかもしれない。島原はとにかく家に向かって強風の中を一歩一歩進んで行った。
家までの距離が実際よりはるかに長く感じられた。
「ごめんください」
チャイムを鳴らして声を上げ、玄関の扉を叩くと、中から、はあい、という返事が聴こえ、若い女性が引き戸を開けた。
その牧歌的とも思える返事の声と、引き戸が開く音に島崎の心は緩んだ。
出てきたのはハイネックセーターにカーディガンを羽織り、髪を緩く巻いた色白の女性だ。
島原は柄にもなく照れながら、こんな子の住む家が〝人喰いの家〟な筈がないと思った。
やはり鹿島崎は道を間違えていたのだ。
「あのー、すみません。道に迷ってしまって。よろしければ天候が落ち着くまでお邪魔させてはいただけないでしょうか。厚かましいお願いなのは重々承知ですが…」
何せこちらは大の男である。うら若い女性が自己防衛の為に拒否しても致し方ない状況だ。しかし女性はそんな島原の危惧を払拭する、同情に溢れた声を出した。
「それはお困りですね。どうぞ、うちで良かったらお上がりください」
女性は警戒心なく島原を屋内に迎え入れた。
〝ほうら、来た〟
「え?」
島原は少女の声を聴いた気がしたが、リビングへと先導する女性はそんな島原をきょとんとした目で見ている。
「どうかされましたか?」
「いいえ、ははは。幻聴かな」
その幻聴はまるで氷柱のような冷やかさだった。
しかし島原が通されたリビングは、氷柱をも溶かす温もりに満ちていた。
毛足の長い電気カーペットが敷かれ、暖房がよく効いている。
「大したものは出せませんけど」
そう言って女性はホットココアを島原に出してくれた。
長く寒中を歩いてきた身には痺れるほど美味に感じた。
「ここにお一人でお住まいなんですか?」
そろり、と尋ねてみる。
「いえ、家族はおります」
「じゃあ今、外出されてるんですね。僕と同じように遭難しかけなければ良いけど」
女性は困ったように曖昧に微笑んだ。
「家族はいるんですよ」
「は」
「いるんですよ、たくさん」
「はあ」
女性は不自然に繰り返した。それもどこか陶器を思わせる硬質な声音で。
何か事情があるのかもしれない。
島原は深く詮索することを良しとしなかった。何せ恩人にも等しい相手である。
自分が人心地ついて温まると、急に鹿島崎のことが心配になった。
「あの、失礼して電話をかけさせてもらって良いですか」
「ええ、もちろん」
島原はスマホを取り出すと、鹿島崎の番号にかけた。だが出ない。それどころかその番号は使われていないと機械音声が言う。
首を捻り、次に編集部にかけた。
「もしもし?島原です。例の企画の件で鹿島崎君と取材中にはぐれてしまったんですが。電話にかけても彼、出ないんですよ」
電話の向こうから不自然な沈黙があった。
『鹿島崎?誰ですか、それ。島原先生の担当は刈谷でしょう。鹿島崎なんて名前、うちにはいませんよ。それより先生、今、どこにおられるんですか。例の企画って何の話ですか』
自分は聴いてませんよ。
とにかく早く原稿仕上げてくださいね。刈谷も待ってますんで。この寒い中出歩く元気がおありなら、直にうちに持ってきてくださっても良いんですよ。
そう言って切れた電話に島原は混乱した。
文芸編集長の溝口は島原の文壇デビュー以来、いつまで経っても島原を軽輩扱いする悪癖がある。自分が発掘した作家という意識があるからだろう。
しかし度を越した冗談は言わない。
鹿島崎は確かにいた。この春、自分の担当になったと挨拶に来て、時々飲みながらの打ち合わせも楽しくて――――――――いつも明るい性格が付き合いやすい奴だと思っていた―――――――――――。
島原は新幹線内で鹿島崎に貰ったキャラメルの包み紙をポケットから取り出そうとした。
ポケットには何もない。
うーん。聴いた話だとこのあたりにある筈なんですよねえ、〝人喰いの家〟!次回の先生の作品、ホラーですよね?参考になると思ったんだけどなあ。
唐突に鹿島崎の台詞が蘇り、島原はうすら寒くなった。
まるで鹿島崎が、自分をここまで導く役割を果たした人外であったかのような錯覚に陥ったのだ。
記憶の海を探れば探るほど、鹿島崎という男の存在は曖昧にぼやけ、やがては溶けて消えてしまう。
鹿島崎優などという男は最初から存在しなかった。
「どうかされましたか?」
女性の声にはっと我に帰り、島原は編集長は何か勘違いしているのだと思った。思おうとした。その矢先。
「見知った人が実はいなかったとか。そんなことでもおありでしたか?」
女性の言葉にぎくりとする。まるで島原の心を読んだようなタイミングだ。
女性の唇は弧を描いているが、大きな瞳は無表情だ。
よく見ればハイネックセーターの裾から赤い布地がはみ出ている。
赤い。
血のように赤い。
女性の唇も濡れた血のように赤く、その濡れた血がゆっくりと動く。
「人喰いの家。そう聴いて来たんでしょう?」
「………」
島原は状況についてゆけない。
女性が一歩、また一歩と島原に歩み寄ってくる。
その洋装は、幻のごとく和装へとゆらゆら変化しつつある。
これまでカーペットと感じていたところに傷んだ畳がある。
女性の髪は巻いておらず、真っ直ぐとして艶やかな黒髪だ。
何より顔立ちが数歳、若返った。
何だこれは?
何が起こっている?
風の音が聴こえる。
自分を威嚇する唸り声のように聴こえる。
寒い。
とてもとても寒い。
まるで身体から体温がすっかりと失われていくようだ。
徐々に、指先から生の証である血の温もりが消失していくような。
集約されたそれらはやがて女性の唇を彩る紅となるのか。
女性の、いや、嫣然と笑う少女の手が、島原へと伸びた―――――――。
「さあ、これからあなたも私の家族よ」
*
「ほらまた一人、お人形さんが来たよ。嬉しいね、皆」
鶴の描かれた赤い長襦袢を着た少女ははしゃいだ声で、座敷を埋め尽くす人形たちに声をかけた。鶴の羽がちろりと銀色に光った。
「鹿島崎、戻りましたー」
溝口が顔を上げると、ダークブラウンのコートのあちこちに雪を乗せた鹿島崎が立っていた。犬のようにぶるるっ、と頭を震わせ、髪についた雪を飛ばして近くにいた女性社員に嫌な顔をされている。だが「仕方ないわね」と言わんばかりの苦笑混じりであるところが、この鹿島崎という男の人となりを物語っている。基本的に人好きのする性質なのだ。
「おう、戻ったか」
「もう、外は吹雪っすよ、編集長」
「そうか。帰るのが億劫だな。通行止めにならなきゃ良いが……」
「どうしました?」
「いや。何か忘れているような気がして…。気のせいか」
鹿島崎がにやりと笑う。
「年ですねえ」
「うるさい」
本当に、年かもしれないと溝口は思った。
ふと、鹿島崎の他に誰か編集部に来るべき人間がいたように感じたのだ。
少なくとも苛立ち紛れに誰かにそう談判したような。
「まだまだ降り続きそうですね」
窓の外を見る鹿島崎に釣られ、溝口も外を見た。
窓から見える外界は白く白く凍りついている。
今、横に立つ筈の鹿島崎の姿が窓ガラスに映って見えないのは、きっと雪の反射か何かの作用のせいだろうと溝口は思った。