5話 伯爵家にて
魔力を持つ者がそれを枯渇させると気絶に至る。
これは高位の魔導士や、魔力制御に慣れている者ほど引き起こしやすい症状だった。
あって当たり前の要素が身体から失われるのだから当然だ。
ロイスはミノタウロスの首を飛ばした後その場に倒れ込んだ。
酒場の結界と身体強化魔法を維持し続け、要所で刻印魔術を使い続けた。それだけならまだ余力が残されているはずだった。
しかしこの日のロイスは、魔術書の作成に精霊クラリスの手を借りるくらい魔力を使っていたのだ。
魔力使用量を抑えるように術式を改良していなかったら、逆にロイスの首が飛んでいたかも知れなかった。
――起きて……ロイス。もう大丈夫でしょ?
倒れたロイスは団長ミゼルの指示の下、騎士団数名の手によってハーケン家の屋敷まで搬送された。
意識の中へと直接語り掛ける聞きなれた声がする。
――少しは魔力を回復できたでしょ? そろそろ起きないとお父様がどうにかなってしまうわよ。
薄っすらと意識が覚醒してくると、自身の中にいるクラリスの声に気付いた。
そしてその言葉の意味もすぐに察しが付く。
――ありがとうクラリス。魔力を分けてくれたんですね。
――ごめんなさいね。わたしが万全な姿であればこんな事にもならなかったでしょうに。
――そんな事言わないでください。君は既にこの世界へ充分過ぎる程尽くしたではないですか。
――この世界も大事だけど、わたしはあなたに尽くせればそれでいいの。これからもずっと。
精霊が精霊であるために、命より大事なものがある。核と言われている精霊の半身のような存在だった。
魔王封印で命を賭けた英雄よりも、もしかしたら核を捧げた精霊たちの方がよっぽど酷な思いをしているのかもしれない。
そんな大事な物を失ってすら、守りたかったのは世界でも平和でもない。元々はクラリスもそうだったはずだが、ロイス、いやシュルレはそれ以上に彼にとっての異世界を愛していた。
行動を共にするにつれ、その想いが胸を撃つ。
気付いたらロイスの願いを叶えたい、この人の力になりたい、と一途に思うようになったのだ。
――君は昔から変わらないですね。
――ほら、お父様が剣を抜いたわよ。そろそろいってらっしゃい。わたしはまた休ませてもらうわね。
クスクスと笑った後、別室にいる父マテウスの激昂を報せて再び眠りについた。
――さて、この件の収拾をどうつけましょうか。
安らかに眠っている。
この寝顔を表現するとしたら、そんな縁起でもない言葉が脳裏をよぎる。
騎士団に運ばれたロイスは自室のベッドで目を閉じ横になっている。
傍らに寄り添い懸命に祈っているエルザは、その形容を即座に搔き消した。
「神様どうかロイス様を無事にお戻しください」
一瞬でもそのような事を思ったのも無理はない。
元々色素が薄いロイスは、常日頃から真っ白な肌をしている。それが今の状況に拍車をかけて彼の病状が悪い方へ向いているのではないかと錯覚させるのだ。
しかし、そんな心配もどこ吹く風。
おもむろに体を起こしたロイスは、まるでさっきまで気絶していたのが嘘のようにベッドから降りた。
「ロイス様っ! 良かった……あっ、でもまだ無理をなさらないでください」
安堵も束の間、普通の寝起きの様にロイスは靴を履いて立ち上がろうとしている。
「ありがとうございますエルザさん。僕はもう大丈夫ですよ。魔力を失って倒れただけですから」
「それでも駄目ですっ! あなたにもしもの事があったら、わたしは……」
生きていけません。と、言う言葉は出せなかった。
これではまるで愛の告白ではないかと、口ごもる。
「大丈夫ですよ、僕を信じてください。これから応接間に向かいますが、何か軽い食事を用意しておいてくれませんか?」
本当に大丈夫なのだろうか? と、疑いの目でロイスを舐めるように観察するエルザ。
その視線が透き通った白銀色の目に行く着く。
まるで犯人捜しをしてるように覗き込んでいたエルザだったが、あまりにも真っ直ぐな視線で見つめ返してくるので、結局先に目を逸らしてしまった。
根負けしたと言うよりも、見惚れてしまいそうになったので正視できなかったのだ。
「だ、大丈夫ならいいです。お、お食事の支度をしてきます」
そんな照れを隠すように早口で捲し立て、足早に部屋を出ていった。
ハーケン伯爵の屋敷は歓楽街から南に進み、商業区を抜けた先にある。
元々は歓楽街から東に進んだ、王都との領境近くにあったのだが、数か月前にこの屋敷を新築して引っ越しをしている。
魔術書店を開業するにあたって、使用人が出来るだけ働きやすい環境をとロイスが父に願い出たのがきっかけだった。
当の本人は王都から遠ざかる事で登校が不便になるのだが、そんな事は気にも留めていなかった。
父マテウスも今では貴族街に住むよりも居心地が良いと満更でもない様子だった。
しかし今、マテウスは静かな怒りを胸に抱え、ロイスを運び込んだ騎士を睨みつけていた。
ソファに深く腰掛けたマテウスの斜め前には、騎士団長のミゼル、その後ろに控える団員2人が直立し、応接間を包む緊張感に背筋を凍らせていた。
「まずは息子をここまで運んでくれた事に感謝する」
「いえ、我々はむしろロイス様に助けられた身であります」
王国騎士団はドミニクの主導でコロシアムに配置されていた。
とは言え、マテウスの再三に渡る要請を受けてやっとそこまでに至った経緯がある。
しかもミノタウロスを扱う事にすら反対していたのを無理矢理推し通したのだから、今回の不祥事とも言える事件の責任はドミニクにあって然るべきである。
「何があったのか聞かせてもらおうか、ミゼル団長」
返事の代わりにミゼルは姿勢を改める。
「賊が侵入し、檻の鍵を破壊されました。我々が監視していたにも関わらず、このような事態を招いた事に申し開きの余地もございません」
マテウスは「ふむ」と一言呟いて、ゆっくりと立ち上がる。
ロイスよりも少し高い長身であるが、その体つきは正反対だった。必要最低限の筋肉しか持たないロイスに対して、マテウスのそれは皮膚がはちきれんばかりに膨れ上がっている。筋肉の塊と言っても過言ではない。
女性にしては高い身長のミゼルも、首を曲げて見上げる程だ。
後ろに控えている部下の騎士2人は、マテウスの威圧を前に緊張が最高点に達しているように見える。
騎士団長とは言え、ミゼルも気圧されている。
聞けば聞くほどにマテウスの怒りは上昇し続けていくばかりだ。
それを自制するように大きく深呼吸をするも、大事な領民だけでなく、愛息のロイスまで危険に晒された事の真実味が増していく。
結局、堰を切ったように怒気を拡散させた。
「だからあれほど言ったのだっ! ドミニク卿からは厳重に警備するようにと言われなかったのかっ? 王国騎士団の名が泣くとは思わないのかっ!」
甘んじて叱責を受ける目の前の騎士達に、全ての責任がないのはマテウスも重々承知の上だ。
賊の侵入を許した点は汚名とも言える失態ではあるが、大半の過失はドミニクにある。
この時のマテウスは、それが行き過ぎた八つ当たりである事も気付かないくらいに逆上していた。
気付いた時には、ソファに立てかけていた家宝の剣を抜いていたのだ。
ジャキッ! と音を立てて、鞘から鈍色の刃が露わになる。
それを新築の床に力一杯突き立てた。
部屋には金属音と、木板が貫通する鈍い音が重なって、それがミゼルの恐怖を掻き立てる。
「選ぶのだ黄金騎士よ。その恥を国王様に晒すか、今ここでその恥を償うか。さあ選べっ!」
剣を前に償えと言う台詞は、言外に自害して恥を返上してみせろ。と言う意味が込められている。
そしてミゼルはその意味を正確に理解し、全身から嫌な汗が噴き出して来たのを自覚した。
この要求はミゼルにも思う所はあるだろう。
その証拠に、答えを出せず煩悶している。
すると応接間の扉が開けられて、ロイスが入ってきた。。
「その辺にしませんか父さん」
状況を見るなり、ロイスは父が怒りに震えてそれをぶつけているのだと察した。
ミゼルを筆頭に王国の猛者たちがここまで追い詰められた表情を見せるとしたら、マテウスに糾弾されている意外にないはずだと判断したのだった。
しかしそんな緊迫した雰囲気は、ロイスの登場で一変する。
「おぉっ! ロイス無事だったか! まだ寝ていた方がいいのではないか?」
「大丈夫ですよ。それよりも少し騎士の皆様を責めすぎてはいませんか?」
愛する息子を見て、一時は柔和な顔を見せたマテウスだったが、この一言で思いだしたように険しい顔を取り戻した。
それに合わせるように、ミゼル達の安堵も束の間で終わる。
それでもロイスは騎士の側に立ってマテウスを説得する。
「少し冷静になってください父さん。ミゼルさんがいなかったら街は危なかったのですよ?」
「しかしだなロイス……」
「それに騎士団の中には命を落とした方もいたはずです」
突き立てられた剣をロイスは鞘に戻した。そのままマテウスの横に腰掛けて、ミゼルを向かいのソファーへ座る様に促した。
マテウスは騎士が殉職した事を今まで知らされていない。
元々が八つ当たりであると自覚をしていたこともあって、その事実を前にやっと頭に昇った血が引いて行く。
「すまなかったミゼルくん。どうかそこに座ってくれ」
ようやく生きた心地を取り戻したのだろう。
ミゼルは短く息を吐いて言われたように腰掛けた。
それから、ロイスの問いに答える形で事件の経緯と被害状況の把握に努める。
マテウスは反省してるのか、終始無言でそれを聞いているだけだった。
「では、ミノタウロスが脱走したのはその侵入者のせいなのですね?」
「はい。しかし侵入を許したのは我々の未熟さが招いた事です」
こうして、ようやく客観的な状況が判明してきた。
「騎士団の皆様が未熟なはずがありません。命がけで街を守ってくれたのですから。それと今は侵入した賊を探す事が最優先かと思います」
「うむ、ロイスの言う通りだな。こちらとしても協力は惜しまない。ロイスも出来得る限りでご協力してさしあげろ」
こうして、騎士団はハーケン家から無事に解放される。
酒場の状況も気になったので、ロイスはミゼル達と一緒に屋敷を出て、再度歓楽街へと向かう事にした。
「ロイス君には何と言ったらいいか……大きな借りが出来ちゃったわね」
「やめてくださいミゼルさん。僕が街の為に動くのは当然の事ですから」
「それに、君の活躍を全て秘匿にしてくれって言ってたけど、本当にそれでいいの?」
「ええ。賊に勘付かれて動きにくくなったら厄介ですから。それにミゼルさんも協力をお願いいたしますね」
「もちろんよ。まずはドミニク卿に心当たりがないか探っておくわね」
ロイスは知っている。
もし仮に、この件をそのまま国王に報告しようものなら、要りもしないしがらみに塗れるだけなのだと。
国はロイスを我が物にしようと縛り付ける様に監視するはずだ。
そんな生活は前世だけで充分なのだ。
それにしても、ロイスは今回の事件がただのイタズラではないような気がしていた。
――いったい誰が何の為にあんな事を。
様々な可能性を予測するが、結局現状で分っている事が少なすぎて狙いが絞り込めるはずもないのだ。
何としても犯人を突き止めると自分に強く言い聞かせる。
今はそれが精一杯だった。