3話 恵みの酒と魔物の脱走
陽も暮れて街にはオレンジ色の灯りが燈り始める。
この世界の照明はロウソクやランタンが用いられている。
要は火そのものだ。
営業中に捌ききれなかった注文は、なるべくその日の内に配達するようにしている。
そんな中、火の代わりとして照明に重宝する光の書がかなりの数量で発注されていた。
原価が羊皮紙とインク代しかかからないので、大量注文があったとしても日用魔術書は大した額にはならない。
日用品として役立ってもらうために、ほぼ原価で提供している。
エルザら従業員は、並行作業を終わらせると、地下にいるロイスへ報告に向かった。
「皆さんは屋敷に戻ってください。僕も配達が終わったら帰宅しますので」
「わざわざロイス様が行かなくてもわたしたちが届けますよ?」
主人を残して使用人だけ先に帰宅するのは心苦しいはずだ。
しかもロイスは学生なのだから、あまり遅い時間まで外にいては周りから何を言われるか不安にもなる。
そんな事を心配してエルザは申し出た訳だ。
「忙しい時は皆さんに頼むかもしれませんが、今日は僕に任せてください」
「せめてわたしだけでもお供させていただけないのですか?」
「大丈夫ですよ。そんな暇があるなら休憩に充ててください。父さんにはきちんと話をしてありますから」
そう言ってロイスは今日も懸命に働いてくれた3人の頭上に術式を展開させた。
魔術書を介さない直接な刻印術式による魔術だ。
「では行ってきます」
この後に気を遣させる言葉を予想して、そそくさと店を出ていった。
3人は優しい光に包まれると、身体に蓄積された疲労が消えていくのが分かった。
精神的な疲労とまではいかないが、この回復魔法はせめてもの気持ちを表したものだ。
「うわぁ何ですかねぇこれ、気持ちいいですね~」
初めての回復魔法に感動しているのはキール。
栗色のショートヘアーにクリッとした目をまん丸にして喜んでいる。
この中では最年少でありロイスとは同い年だ。使用人としてまだ未熟ではあるが、一生懸命な姿勢を買われてロイスに仕えるようになった。
「いつ見てもロイス様の魔導は早くて綺麗ね。術式展開も魔法そのものも」
ロイスの技術に感嘆しているのがエルザ。
少し紫の入った黒髪はこの国では珍しい。光に当たると紫がよく映える。
彼女はこの中でのリーダーを任されている。
エキゾチックな顔立ちは、誠実で明るいエルザの性格をよく表している。
ロイスよりも2つ年上だがその差以上に大人びて見え、平民としては珍しく魔導を扱う事が出来た。
と言うのも、エルザの両親ともに昔からハーケン家に仕えており、ロイスと共に成長してきた事が魔導を知るきっかけとなったのだ。
「エルザは魔導の知識があって羨ましいなぁ」
そしてそれを羨んでいるのがシャーレだ。
歳はロイスよりも1つ上。
お下げにしている髪は色が赤く、それに似合うように性格も明るい。
どちらかと言うとお転婆で底抜けな聡明さを持ち合わせている。
あまり深く考えていないと言ったら可哀想だが、常に前向きな思考にエルザもキールも励まされる事が多かった。
光の書を発注していったのはハーケネス随一の酒場『極上の恵み屋』だった。
商業区から歓楽街へ入ると、途端に喧噪に包まれる。
他と比べてハーケネスは娯楽施設が豊富にある。
王都に出向く際はかならずここを経由する事と、近場にダンジョンが多数存在する事もあって、様々な人種が様々な娯楽を生み出していた。
酒場など一般的なものから、魔物や冒険家が戦って観客がその勝敗を賭けるコロシアムまである。
通称を恵み屋と呼ばれているこの酒場は、ほとんどが冒険者の客で埋め尽くされている。
平民に対して上下関係を抱かない貴族も利用していたりするのがこの店の特徴だ。
それもそのはずで、ここで提供している酒類は店名にも冠されている通り、まさに極上の美味さと評判が立つほどだ。
この国では15歳から飲酒が可能なので、ロイスも暇な時は1杯飲んで帰る事もあった。
注文の品を持って中に入ると既に店内は満席になっており、酔っ払いたちの騒ぎは店の外にも響くほどだ。
見知った店員を探すように視線を彷徨わせていたら、後ろから女性の声がかかった。
「ロイスさんこんばんは。配達ですか?」
聞き覚えのある声に笑顔で振り向くと、そこには店主の一人娘がいた。
重そうに酒樽を担いでいる。
「こんばんはアイナさん。夕方にお母さまからいただいた注文の品をお届けにあがりました」
そう言いながらロイスはアイナから酒樽を奪った。
「あぁっ! 駄目ですよロイスさん。それはわたしの仕事ですから」
「いえ、それだと品物が渡せませんので」
またか、と言った感じでアイナは呆れている。
ロイスは酒樽を肩に乗せて片手で固定すると、鞄から器用に光の書数冊を取り出してアイナに手渡した。
ロイスの作る日用魔術書は、一冊に10枚の魔術刻印が描かれた紙が束ねてある。
紙の左上を蝋で糊付けしただけの魔術書だ。
「間違いはないと思いますが一応数の確認をお願いできますか?」
「はい。ちょっと待っててくださいね」
言ってしまえば、商品を手渡すだけならその場に酒樽を置けば済む事だ。
しかしロイスとすれば、忙しい時間に対応させる事への引け目を感じている。せめて仕事の邪魔にならぬように心がけている表れだった。
酒樽をカウンターの脇まで運ぶと、中にはアイナの父であり店主のダイナが酒を作っている。
「こんばんはダイナさん。アイナさんに用事を頼んでしまったので代わりに運ばせていただきました。ここでよろしいですか?」
ダイナは酒を作りつつも首だけで振り向いてすまなそうな顔をしている。
「あんまり気を遣わなくっていいんですよロイス様」
「そうはいきません。こちらの都合でお届けが今になってしまったのですから」
ちなみに、ロイスが人一倍気遣いの出来る少年なのはこの街で有名な話だ。それを止めてくれと言っても頑なに止めない事から、頑固な性格と言うオマケまで広まってしまった。
「ロイスさんは優しいけど頑固ですからねぇ~。えっと、はい数ぴったりでしたよ」
光の書を数えながらロイスの後を追いかけて来たアイナに茶化される。
「そう言われてしまうと返す言葉もないのですけどね……それよりもお買い上げありがとうございました……って、あれ?」
苦笑いを浮かべながら軽く会釈をしていると、アイナの背後から見知った女性が光の書を覗き込んでいる。
まさかこんな所で会うとは、と意外な顔で見つめてしまった。
「ふぅ~ん。これが君の店が繁盛している理由かぁ。ん? わたしがここにいるのがそんなにおかしいのかかい?」
「こんばんはアリス先生。おかしいと言いますか、宮廷魔導士として有名な方が人ごみに溶け込んでいるのが意外でしてね」
「それを言ったら君の方がよっぽど周囲に意外感を与えてると思うんだよねぇ~」
地位に固執しないと言う共通点があるにしろ、どちらも周囲に与える影響をあまり考えていない。
きっと今の両者は同じことを考えている事だろう。
――あなたに言われたくもないのですけどね。
――よくもヌケヌケと意外だなんて言えたものだよ、まったくぅ。
「ところで先生はお1人なのですか?」
「ま、まあそうだねぇ。天才は常に孤独と隣り合わせなのさ~」
ロイスはただ単純に連れがいないか確認しただけなのだが、アリスは1人でいる事に言い訳がましい台詞を返す。
「1人でお酒を嗜むのも結構ですけど、先生ほどの美女が1人でいたら酔っ払いに絡まれる事もあるでしょう。くれぐれもお気を付けくださいね」
この心配は生徒としてではなく、領主の息子としてのものだ。
だが、ロイスは知らなかった。
絡み酒が酷いのはアリスなのだと言う事を。
この店でそれは有名であるから、声を掛けるナンパ男すらいないのだ。
「そ、そうだねぇ。ご忠告ありがとう」
「いえいえ。それより、せっかくですので隣で1杯お付き合いしてもよろしいですか?」
「も、もももちろんだともぉ」
アリスは美女と言う言葉で赤面し、さらには実態を知らないロイスに、か弱い乙女のような扱いを受けて二重の恥ずかしさを抱えていた。
それに加えて、15歳らしからぬ紳士的な振る舞いに珍しく動揺するのであった。
「ダイナさん、オススメの果実酒をロックでください。お釣りは結構ですので」
アリスの隣に腰を降ろすとロイスはさっそく注文し、カウンターの仕切りに小銀貨を1枚置いた。
「ありがとうございます」
すまなそうに会釈をする店主にとって、ロイスとの釣りのやりとりは既に諦めている。
銅貨5枚の酒を小銀貨1枚で支払うと、銅貨5枚の釣銭が発生する。ロイスは今までこの釣りを受け取った事がない。
「釣りくらい受け取った方が可愛げがあると思うのだけどねぇ」
「そうですか? この国にはないシステムですが、あれは僕なりの席料みたいなものですよ」
「席料? 君はこの椅子に座る分も料金がかかっていいと言ってるのかい?」
近い将来国民が豊かになれば、席料を代金とは別にして会計をする店も出て来るだろう。
そしてその料金に対して客側から不平が出てはならないとロイスは思っている。もちろん、料金に対しての満足度が低ければ、不満が出たって仕方がないがそれはまた別の話だ。
そうなった時に領主の息子がその前例を作って置くべきだと考えているのだ。
多くの貴族が高級な店でチップを渡したりしている事もあるが、その趣旨はおおむね見栄を張っているだけである。
こういった大衆の店でその行動を起こすのが重要なのだ。
「この席に座って酒を飲み、物を食べる。銅貨5枚は飽くまでも酒に対する対価です。では、ここで飲み食いする場所代はどうしてるのでしょうか?」
少し回りくどい説明なのは、アリスの理解力がないからではなく、そう言った文化が発展していない為だった。
「そりゃ~酒や料理の代金に含まれているんじゃないのかい?」
「そうかもしれませんね。しかしそれでは1杯の酒で1時間いる客と、5杯の酒で1時間いる客では席料がずいぶんと違ってしまいます。ですから1杯しか飲まない時などはお釣りを受け取らない事にしているのですよ」
これを聞いたアリスと、遠目に聞こえていたダイナはお互いに目配せをして呆れの色を浮かべている。
「わたしの実家も末端とは言え貴族だけどねぇ、こう言ってはなんだけど貴族の考えはわからないよぉ」
「先生、これは貴族だからしている行いではないのです。領主の息子として出来る事をしているだけですから」
アリスとダイナの呆れが最高点に達した頃、遠くの席からロイスを見つけて大声で叫んでいる大男が接近してきた。
あまりの喧噪でその声に気付かなかったが、大きな手で肩を叩かれてやっとその存在を視界に入れる。
「久しいなロイスの坊ちゃん。最近はダンジョン潜ってるのか?」
「これはこれは、ガルシアさんではないですか。先日はありがとうございました。実は先日、魔術書店を開業したのと、学園に入学もしたのでダンジョンへは行っていないのです」
大男の正体はガルシアと言う。
この街では一目置かれている冒険者だ。
「おおっ、そうかそうか! それにしても相変わらず堅っ苦しい喋り方だな~。もっと気楽にいこうぜ気楽によ!」
「これでも充分に気楽にお話してるのですけどね……あははは」
ロイスは魔術書店を開業する数日前に、初めてダンジョンへと足を踏み入れた。とは言え、前世で何度となく訪れてはいたのだが、ロイスとしては初めてだったのだ。
ガルシアはその時に案内役を担当したA級冒険者だった。
「また潜ることがあったら呼んでくれよ。俺はあんたの魔術? 魔法か? あれに興味が湧いちまったよ。その魔術書店に行けば買えるのか?」
「あれは魔術ですね。魔法とは現象の発動までの過程が違うのですよ。先日お見せした魔術書は一通り店でお買い求めいただけますので、時間があればぜひ一度いらしてください」
「おうっ、ありゃあ便利だからな。仲間連れて今度行かせてもらうとするよ」
ダンジョンで野営するにあたり、ロイスは様々な日用魔術や結界魔術をガルシアに体験してもらった。
まだ店を開業する前だったので、庶民感覚を得るのにだいぶ貴重な意見を聞き出せた。
ガルシアはその時の魔術に興味を持ったのだろう。
この後、ガルシアはロイスと少しだけ思い出話をして元の席に戻ろうとした。
その時だった。
恵み屋の扉が乱暴に開かれると、汗だくの男が転がり込んでくる。右腕は流血で赤く染まり、所々に生傷が刻まれている。
ガルシアはその男を見知っているようだ。
「おいっ、お前どうした! どうしたんだよカザン! ダイナ水を1杯持ってきてくれ」
店内の喧噪は一気に鎮まって、傷だらけのカザンに視線が集中する。
カザンは水を一気に煽ると、やっと少し落ち着いた。かと思ったら次には大声で叫び出した。
「み、みんな逃げろっ! コロシアムの魔物が街に逃げたんだっ! 早くここから逃げるんだ!」
今日はこの後に、魔物同士の戦いがコロシアムで行われる予定だった。
「カザンさんと言いましたね。僕はハーケンと言います。逃げた魔物はまさかミノタウロスなのですか?」
「そうだっ! ミノタウロスだっ!」
すると、店内にも響くほどの地鳴りが伝わってくる。
ミノタウロスと言えば、A級の冒険者が10人いてやっと倒せるかどうかの狂暴な魔物だ。
――だからあれほど苦言を呈したと言うのに……。
ロイスは扉からそっと顔だけだして、その魔物の位置を確認する。
コロシアムからここの酒場までほとんど距離がない。
もしこのまま大量の人間が通りに出れば、何人かは標的にされて命を落とすかもしれない。
そう判断したロイスはアリスへ耳打ちする。
「この店に結界を張ります。僕が説明するよりも先生の権威で皆さんを鎮めてください」
「それはいいけど、それじゃあ外の住民が危険じゃないかぁ?」
ロイスはその問いへ返答をせずに扉から一歩外に出た。
代わりに、2つの術式を展開させる。1つはカザンに向けた回復魔術。そしてもう1つはこの店一帯に展開する結界魔術だった。
この結界は物理的な干渉を受け付けない。
仮にミノタウロスがこの酒場を襲撃したってびくともしないはずだ。しかし効果が継続している間、中からも外からも出入りが出来なくなる。
「あとは頼みましたよ先生」
アリスはそれに気付くのが遅れた事に後悔を滲ませる。
「何を言ってるのだ君はぁ! 1人であいつと戦おうっていうのかい? いいから早く逃げるのだぁ!」
そんなアリスの願いとは逆に、ロイスが向かったのはコロシアムの方角だった。