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真実

午前8時14分。

モハメドは操縦席に座った。強い動悸を抑えるので精一杯だ。操縦の仕方なら頭には入っている。しかし訓練と本番ではまるで緊張が違う。彼は震える手で操縦桿を握った。機体にはおよそ90人の人間が居る。副操縦席に座るワリードは言った。

「モハメド、アナウンスを」

「あぁ。・・・アナウンスのスイッチを頼む」

「・・・あぁ」

モハメドは深呼吸した。コックピットには少しの血の臭いが漂っていた。何故ならワリードの背後には2人の男の死体が横たわっていたからだ。

その時、ボストン航空交通管制センターに通信が入った。

「我々はこの機体をハイジャックした。静かにしていればお前達の安全は保証される。これからローガン国際空港に戻る。このまま誰も動くな、騒げばお前達の命が危険に晒される事になる。大人しく座っていろ」

管制官は頭が真っ白になっていた。しかしその“機内向けアナウンス”はスピーカーから流れていた為、その一瞬でその場は緊迫感で凍り付いた。

ハイジャックされた旅客機はゆっくりと旋回し始める。目的地はこの旅客機が離陸した空港。ボストンのローガン国際空港だ。モハメドは頭の中で、犯行計画を復唱する。空港に戻ったら乗員乗客を下ろす。すべての乗員乗客を下ろしたいが、人質を残さなければ逃げる事は不可能だろう。それから再び離陸し――。

「あっ!!」

突然のワリードの声に、モハメドは肩をびくつかせる。

「何だっ」

「おい、まずいぞ」

「何がだよ」

「間違えた」

「えっ・・・何を!?」

「スイッチ」

「何のだよ」

「アナウンスのだ。さっきのお前のアナウンス、機内に向けてじゃなく、管制に話してた」

「・・・・・・はあっ!?おいっ何だよそれ!じゃあ何だ、俺は、管制にハイジャックを丁寧に自白したってのか!?」

「そう、なったな。これじゃ、空港に戻る頃には警察が待ち構えてる」

「くっそ!・・・仕方ない、このまま、目的を果たすしかない」

「・・・そうだな」

心配ない。我々は、“神”に守られてる。

午前8時23分。

ハイジャックされた旅客機は南に進路を取った。モハメドは“とある声”を思い出していた。ふとではなく、それは信仰心の表れであり、常に犯行計画、行動理念を心に刻み込む為でもある。もしかしたら、アメリカならハイジャックされた旅客機にミサイルを撃ち兼ねない。ましてや、堂々とハイジャックを宣言してしまっている。とは言え、我々の目的までは知らないから、撃墜まではしないだろう。

「見えてきた」

ワリードが呟く。そう、やがてモハメド達は目的地を捕捉した。あともうすぐだ。最早、恐怖などない。ただ純粋に嬉しい。“役に立てる”その時が近付いてくる。ここまで来ればもう“安全”だと、強い動悸を抑えるので精一杯だ。もうすぐ。体が震える。――もうすぐ。行くぞ。

「行くぞ、行くぞ行くぞっ」

近付いてくる。近付いてくる。――主よ。モハメドの頭にはもう“あの声”だけが渦巻いている。そして、目的を目の前に、モハメドは叫んだ。

「主は怒っている!!」

午前8時46分。

ハイジャックされたアメリカン航空11便の旅客機が、ニューヨークに建つワールドトレードセンターのノースタワーに突撃した。旅客機はすっぽりとビルに突っ込み、噴煙と爆炎を吹いた。その瞬間、人々はただ、“呆然としていた”。それは当然だろうと、ワールドトレードセンターが見えるビルの屋上で、サタンは眺めていた。あんな事が突然起こっても、すぐに事態は飲み込めない。だがしかし――。

午前9時3分。

ハイジャックされたユナイテッド航空175便の旅客機が、今度はワールドトレードセンターのサウスタワーに突撃した。集まっていた観衆は皆、その瞬間に悲鳴を上げた。2機目の旅客機はより衝撃は強く、爆炎も大きく吹き出た。2機目ともなれば、人々はそれをようやくテロだと認識するだろう。だがしかし、これはテロじゃない。


そうこれは、〈平和を願う地球(ぬし)からの警告〉


するとすぐにサウスタワーが崩壊した。高層ビルはポッキリと折れて落ち、凄まじい轟音、粉塵、地響きを引き起こした。それから多くの人間が死んだ。その悲劇を、サタンは見下ろしていた。同時に思い出していた。ヴィマラとシロウを。この同時多発テロを、人間達は自分達への警告だとは知らない。だから、これを機に平和を考える事は出来ない。それが人間だ。かと言って、事前にこれが平和を考える為の事象だと聞いていたとしても、人間は平和を考えるだろうか。我にはその答えは分からない。ならばせめて、“こういう事”を起こし続ける事しか、我に出来る事はない。

サタンはカフェでコーヒーを飲んでいた。サタンとテーブルを挟んでいるのは、女の魔王だ。彼女は最近転生したばかりで、“同時多発テロ”の事を知ってどんな魔王の仕業だと思い、サタンに会いに来たのだそうだ。

「カプチーノなんて美味しいものがあるなんて。これは人間の世界の中でも守るべきものに認定するわ」

「そうか」

「私を滅した女は、どうしてるかしら」

「人間に殺された」

「あらそう。深意を聞けなくて残念ね」

「深意?」

「ずっと考えてたのよ。人間を観察する事に、どんな意味があるのか。代わりに貴方が答えてくれるかしら」

「あまり、勧められないな」

「あら、それは何故?」

「我は、人間を深く知りすぎた。だから魔王ではなくなった。主が望んでいるのは魔王の変化ではなく、純粋な魔王の存在だ」

「でも、それなら何故、魔王に意思があるのかしら。それなら魔王に意思なんて無い方がよくなくて?」

「あぁ、我もそう思う。だが魔王が純粋な魔王でなくなれば、良いか悪いか関係なく、主は新しく純粋な魔王を作り出す」

「自由は自由なのよね?でも変化すればするだけ、主は修正するって事かしら」

「そうだな」

「でも、魔王が増える事って、良い事しかないわよね?時代が進めば、魔王も多い方が良い」

「それはそうだな」

「分かったわ。なら私も、貴方みたいになるわ」

「・・・そうか」

「それじゃあ、先ずは、名前から決めようかしら」

ニューヨークに建つとあるマンション。その一室にサタンの子孫が住んでいた。彼女の名はベロニカ。駆け出しのダンサーだ。幸いベロニカの部屋にまではテロの被害は届いてないが、気が気でないのは当然の事だろう。夕食の時も、テレビでは常にテロを報道している。

「ラーディンっていう人が、テロの首謀者なんでしょ?」

「あぁ」

「私、踊ってる場合じゃないのかな」

「決めるのはベロニカだ。だが、芸術は常に磨いておくべきものだ」

「うん。でも、同じスクールの子がね、テロで家を無くしちゃって、何かしてあげたくて」

「ダンサーは金にもなるのだろう?ならその友達にはダンサーを続けられるようにすればいいのではないのか?」

「どうやって?」

「家が無いならここに居させればいい」

「ここ・・・3人は無理だよ」

「なら我が出ていこう」

「それは・・・寂しい。それにサタンが居ないとパパが心配するし」

「ベロニカは我の子孫だろ?力を研ぎ澄ませ、使えるようにしろ。それにプラーナは人を魅了させる。ダンサーには必要だ」

「・・・うん。そっか、分かった」

街の人間からひしひしと感じる。悲しみ、怒り、そして憎しみが。街の人間は、皆一様に犯人を捜していた。飛び交うニュースを見てみると、どうやらアメリカはビン=ラーディンという人間をこのテロの首謀者だとしたらしい。それから有志連合を作り、“殺し合い”を始めるそうだ。更に街では市民によるヘイトクライム、つまり“仕返し”が行われ始めた。ビン=ラーディンとは関係なくとも、彼と同じ国の人間という理由で、彼と同じ宗教を信仰しているという理由で、街では同時多発テロとは“全く関係の無い”悪意が蠢く。


〈誰も、平和を考えない〉


主は、悲しそうだ。募金活動や炊き出し、祈り、正の感情に目覚める人達がこんなにも少ない。この同時多発テロは、主の平和への願いが込められたもの。だからこそ、我はビン=ラーディンに接触し、神と名乗り、組織を作らせ、そしてテロをさせたのだ。自分達の領域が犯された時、“剣を作るか”“盾を作るか”、そこが“人としての分かれ道”だろう。剣を作り、やり返し、殺し返し、また敵意の芽を芽吹かせるのか。盾を作り、平和を訴え、敵意だけを喪失させるのか。さて、アメリカはどっちだ。

「不朽の自由作戦」。それが、アメリカの出した答えだった。法律的にはそれは軍事行動ではなく、あくまで自衛だそうだ。しかし名目などどうでもよく、アメリカは人を殺したいのだ。だがとある勇ましい者は言っていた。善い人間だけにする、その為の殺しだと。やはり人間は“人を殺す”という事から離れられないらしい。

サタンは見上げていた。編隊を組み、轟音を尾に引く戦闘機を。これから人を殺しに行く。それは一体何の為なのだろう。そこには、どういった大義名分があるのだろう。そしてその大義名分は、どれほどの価値があるのだろう。そして、空爆が始まった。しかし死んでいくのは“関係の無い市民達”だった。サタンはアフガニスタンに住む子孫を連れ、落ちていくミサイルを眺めていた。たった2つのビルを破壊されたその仕返しが、“街を壊滅させる”。これが、人間なのだろう。今に始まった事でもないし、驚く事でも何でもない。人間は本当に“相変わらず”だ。それから世界中ではアメリカの掲げる考え方についての議論が交錯した。“主義のぶつかり合い”、これも人間が殺し合いを止められない理由の1つなのだ。人によって考え方が違うのは当然で、それらがぶつかり合うのもまた当然。しかし、その先にある殺し合いは、決して当然な事ではない。殺しを選択する理由は、“頑固さ”と“知能の低さ”だ。自分の考え方を“疑う”事が出来れば、人間はどれほど争いを無くせるかを、未だに理解出来ていない。問題はこじれ、2年後、アメリカはイラク戦争を起こした。まったく、知能の低い人間共だ。

「随分と歳を取ったな」

「もう30年だからな」

そう応え、ルスエルは笑った。ルスエルにとってはあれからもう30年だ。先進国を離れたルスエルはずっと発展途上国を転々としていたそうだ。イラク戦争によって“巻き添え”を食らった街や、そこに住む人達の為に働いていたルスエルに、サタンはばったり出会ったのだった。ルスエルは現在53歳。あの若いルスエルは見る影もない。ルスエルはトラックから物資を運び出す。その車には赤十字の標章が描かれていた。

「あのテロは、魔王の誰かの仕業なんだろ?」

「我だ」

「ここまで見据えてたのか?」

「いや。我が関わったのは、テロだけだ。これは全て、人間の選択だ」

「・・・だろうな」

そう険しくシワを寄せたかと思えば子供が近付くとルスエルは目線を合わせ、笑顔を見せて物資を手渡す。

「赤十字か、勇者らしいな。もう戦う事はしないのか?」

「いや。知らないだろうが、こういう無国籍の組織は格好の的なんだよ。法的には守られてるが、敵味方関係なく支援する俺達をアメリカでさえも攻撃してくる。アメリカは好戦主義だからな、あのテロはその報いだと言っていい」

「そうだな」

「しかしだ。アメリカはその報いを受け入れないどころか、その報いよりも遥かに越えた破壊活動で反発した。まったくアメリカ人として恥ずかしいよ。ただの“駄々をこねる子供”と同じだ」

「他の勇者に会った事はあるか?」

「1人会った。スウィス人だ。行ったことあるか?」

「我にはもう行ったことのない国はない」

「ハハハ。そうだろうな」

ルスエルは怪我人や子供達を診察していく。満足な医療施設ではない、ただのテントの下で。傍目には聴診器を当て、目や舌を診ているだけだ。だがルスエルは子供達にだけ、プラーナを注いでいた。それをサタンは眺めていた。その行為は、未来に希望を抱いている表れなのだと。

とある日、サタンは青年の魔王の居る森に居た。青年の魔王は人間の街は厭だと、ずっと世界中の森を転々としている。青年の魔王は洞窟に入ると、そこに棲むコウモリに瘴気を注いだ。何故その生物なのかを尋ねると、彼は今日に限った事じゃないと応えた。転々とする度、生物に瘴気を注いでいるそうだ。これもまた、主の意思なのだと。サタンは眺めていた。瘴気を注がれたコウモリを。その結末に興味を抱いていた。コウモリの群れは食糧を探しに洞窟を出ていった。その数匹は人間の住む街へ向かった。その街では露店商が盛んだ。人の数も多く、賑やかな街だ。しかしそれは同時に、衛生上での問題が出るという事だ。野晒しの食べ物、飛び交う小さな虫、様々な国籍の通行人。そのチュングァという国のとある街に、1匹のコウモリは居た。一角ではそんなコウモリの肉を売る店もある中、そのコウモリは小さな虫を捕まえ、食べていく。しかしそんなコウモリ1匹の狩りの情景などまったく誰も関せず、人々は行き交う。そんな日々が続いた。それから数ヵ月後の事だ。人々が病に伏していったのは。それは人から人へと感染した。日に日に感染者は増えていき、遂には死者まで発生した。チュングァから始まった感染はアジアを飛び越え、アメリカやヨーロッパにまで及んだ。人々はそれを、サーズと呼んだ。

それからサタンは、森に戻った。青年の魔王はあれからずっと、森に居た。しかし彼は瘴気を注いだ生物を介して物事を視れる。世界中の生物に瘴気を注いでいたのはその為でもある。彼はその場に居ながらにして、世界中を視ていたのだ。

「感染範囲は広かったが、人間の医療知識は進歩しているな」

「知ってる?人間は、魔王の存在にも、主の意思にも関係なく、自ら滅びの道を歩んでるんだ」

「なら何故、感染を広げたのだ」

「それは、それが魔王の役割だから。人間の中では温暖化って言って、そのせいで海面が下がったり、土が干からびたり、その上人間の手で森が減っていく。あと・・・そうだな、1000年くらい経ったら、人間は減り始めるだろうね」

「なら、魔王は最早必要ないのか?」

そう尋ねると、現時点で“1番魔王のスタンスを逸していない”彼は、微笑みを浮かべた。

「さあね。全ての人間が低俗じゃないから、滅びない可能性だって大いにある。その可能性を高める為にも、やっぱり魔王は常に役割を果たしてないと」

「そうか」

「イブには会った?」

「それは誰だ」

「ほらあの女の魔王だよ。自分でそう名前を付けて、人間の暮らしに深く関わろうとしてる」

「会っていない」

「現状は気になる?」

「・・・危惧はしている。悲しみや絶望を知るのは、決して楽な事ではない」

「あなたは何故、そもそも負の感情以外を知ろうとしたの?」

「魔王は人間を滅ぼす為の存在だ。だが滅ぼそうとしている人間がどういう存在かを、同時に人間を滅ぼす魔王とはどういう存在かを、我は何となく知りたくなった。と言うか、知るべきではないだろうかと、疑問を持ったのだ。人間の本質を知ることが、我が何かを知る道標になると思ったのだ。だから、人間の暮らしに、深く関わろうとした」

「そうなんだ。もしかしたら主は、そもそも最初からこうなる事を望んでいたのかもね。だからあなたには声を掛けなかった」

「そうかも知れないな」

我が人間を知り、魔王でなくなるのもまた、主の意思だったのだろうか。なら主は、純粋な魔王を作ると同時に魔王が変化するのも望んでいる。つまり女の魔王が望む事もまた、魔王の役割なのか。

「お前は直接人間を殺そうとはしないのか?」

「まあ、そうだね。殺し合う方が人間らしいからね。今回だって、ただ感染を広げただけじゃないよ。その先にも、まだあるんだ」

「何がある」

「まあそれは今に始まった事じゃないけど。感染で生活が脅かされた時、困るのはやっぱり食べ物だ。食べ物を求める為に人間はすぐに争う。要は追い詰められたら人間は争うって事。感染は追い詰める為に考えたんだよ」

「そうか。チュングァを選んだ理由は何だ」

「あなたは、チュングァをどう思う?」

「先進国の中で、1番不潔で愚劣だ。だがそれは近代まで他国からの支配を受けていた為に“反発”が概念レベルで国民性に根付いているからだ。愚劣になるべくしてなった訳ではない、つまりは1番不幸な国と言ってもいいだろう」

「確かにそうだね。チュングァはその“反発”で環境破壊を始め、不潔さを世界に知らしめてる。だから感染も、今のチュングァにはお似合いかなってね。自分は、チュングァは世界に向けて見本になる存在だと思ってる」

「見本?」

「あそこまで愚劣だと、それはそれで見本になるでしょ?」

「そうだな」

しかし一方で、国籍など関係なく人々はその志を1つに合わせる試みを発案している。本当に数え切れないほどの“比較的平和な”人々がそこに集まる。今回もそうだ。祭典という名目で、“争うのに殺し合わない”。人々はそれをスポーツと呼び、この祭典をオリンピックと呼ぶ。人間が絶対に無くせないもの“闘争心”。しかしそれを、殺し合わないように制御出来るスポーツというもの。芸術と並び、それは実に平和的だ。今回はアスィーナという都市でその祭典は行われる。とあるホテルの高層階にあるカフェから、サタンは眺めていた。祭典が行われる会場、そしてそこに集まる人々を。

「何しに来たの?」

サタンは振り返る。そう声を掛けてきたのは20歳そこそこの女だった。そもそも勇者が近付いてきたのは分かっていた。だからサタンは、ああ女かと、ただそう思ったのだ。しかし同時にその服装にサタンは目を見開いた。その“過剰な華やかさ”は初めて見るものだった。確かに日本語を話したが。

「どこの国の人間だ」

「日本だよ。あたし明日香(あすか)。まさかテロでも起こしに来たんじゃないでしょうね」

「スポーツは、平和の種に値する。それにテロを起こすのはいつだって人間だろ」

「あたしの服、そんなに好き?一目惚れ?」

「いや、見たことないだけだ。そんなニヤニヤするな。最近は日本には行っていない。その間にまた新しい文化でも出来たんだな」

「ロリータっていうの、可愛いでしょ?」

「さあな」

「魔王ってセンス無いんだね」

「お前は何しに来た、観光か?」

「だってオリンピックだよ?」

「そうか」

「日本だとアテネっていうけど、ギリシャ人には通じないんだね」

「アスィーナなら通じる」

「へー」

「テレポートで来たのか?」

「まさか、ちゃんとビザ通したよ。今の時代はそういうの厳しいんだから。でもま、エレベーターは乗らずに30階まで来たけどね」

その祭典には実に色々な人間が集まる。と言っても中には人間ではない者も居た。流石に青年の魔王は居ないが、そこにはイブの姿もあった。その隣にはイブと同年代くらいの男が居て、イブは女の幼児を抱いていた。イブの姿を見ると明日香は驚き、微笑み、そして何故か駆け寄った。明日香は以前にもイブに会っていたそうだ。イブの夫の名は泰弘(やすひろ)、そして娘の名は瑠璃(るり)だそうだ。

「貴方も意外とオリンピックとか興味あるのね」

「オリンピックには興味はない。祭典というもの、そしてそれに集まる人間の心理に興味がある」

「・・・そういう研究をしてるんですか?」

泰弘が尋ねる。がたいは良く、短髪だが控えめな物腰と口調の柔らかさは典型的な日本人っぽさがある。

「いや。我は学者ではない」

「じゃあ、お仕事は何を」

「・・・地球の保護だ」

「はい?ああ、なるほど。自然保護団体の方。イブ、どういう関係なんだ?」

「その、この人も、魔族なのよ」

「なっ・・・んだって、そう、なのか」

「まさかお前は、人間ではないと知った上で、イブと結婚したのか?」

「・・・・・・はい」

「そうか」

そういえば、我が結婚したのは今まで勇者だけだった。勇者は勿論魔王を知っている。だからその関係が成立したのだと思っていた。普通の人間が、魔王という存在を受け入れられるのか?。

「人間を滅ぼす存在だと知っていて、何故深く関わろうとする事が出来るのだ」

「それは・・・関係ないと思いました」

「関係ない?」

「ただ守りたいと思った、それだけです」

「・・・そうか」

夜も更けたカフェに、サタンは居た。昼間とは違って静かなそこでは、コーヒーの香りにさえも集中出来る。サタンは泰弘を思い出していた。あの男はいわゆる、正の感情に目覚めた人間だろうか。しかしその後、我でさえ予想外の出来事が起きたのだった。日本語でいうアテネオリンピックが始まってから2ヶ月後の事だ。

2004年10月、サタンは日本に居た。とある日、青年の魔王の使者である渡り鳥がサタンを訪ね、魔王の意思を伝えに来た。それを聞いて、サタンは日本に行ったのだった。新潟県にイブが居るというのだ。サタンは川口町にあるアパートの一室のドアをノックした。反応はない。しかし瘴気の気配で分かる。その部屋にイブが居るという事が。その瞬間、地面が軋む音がした。瞬時に足に伝わる震動。――地震だ。そこそこ大きなものだ。建物さえギシギシと悲鳴を上げる。それは隣の部屋からも人の悲鳴が聞こえるほどだ。しかしそれは数十秒で収まった。サタンは辺りを見渡す。それから仕方なくサタンはドアを開けた。その部屋にはイブだけが居た。イブはうずくまり、静かに泣いていた。

「青年の魔王から聞いた。お前が、地震を起こしているのだろう?」

サタンは思い出していた。初めてイブが出現したあの時、イブが地震を起こした事を。

「何があった」

「泰弘が・・・うぅっ」

「大方、人間にでも殺されたのだろう?何にしろ、初めて感情を知るという事は、楽な事ではない」

「違うわよ」

「ん?」

「逃げたの。瑠璃を連れて」

「・・・逃げた?」

「近くで火事が起こって、私が・・・風を起こして、でもちょっとやり過ぎて。それで泰弘が。ずっとね、心で思ってたって。私が怖いって。泰弘は、仕方ないわ。でも、でも・・・瑠璃・・・瑠璃まで連れてくなんて!!」

イブは床を叩いた。轟音が鳴った。――地震だ。強い揺れにサタンは不意に転んだ。壁に亀裂が走る。アパートが悲鳴を上げ、隣人が叫ぶ。地震が収まるとイブは鼻をかんだ。

「あの男・・・酷いわ!」

――地震だ。

「分かった落ち着けっ」

「瑠璃の居場所なら分かる。絶対取り返してやるんだから!」

それは新潟県中越地震と名付けられた。最大震度は7。震源地はイブだが、人々は中越地方とした。外に出ると、あちこちで地割れが起きていた。そして至る所で建物は半壊、又は全壊していた。まったくはた迷惑な女だ。サタンはそう歪んだ街を眺めていた。

「どうせ、人間と結婚した私を愚かだと思ってるんでしょ?」

「いや。我だって勇者の女と結婚し、子を作った。けどそれは、やはり魔王と勇者だから成立したのだと思う」

「・・・最初はね、泰弘から声を掛けてきたの。貴方みたいになるって言ってもどうすればいいか分からなかった私に、泰弘は優しく接してくれたの。その時は魔王だなんて知らなかったからそうしてくれたのだろうけど、私、嬉しいっていうか、安心して」

「そうか」

青年の魔王は、何故イブの事を我に教えたのだろうか。このまま地震が続けば、主の意思である人間の減少はより多くなったはずだ。ましてや青年の魔王は人間の減少に力を入れているのに。それからサタン達は新潟空港に居た。地震の影響で新幹線が不通になり、空港には臨時便が運航され、そこは熱気さえ感じるほどだった。しかしそんな人混みでも、イブは真っ直ぐ進んでいった。

「瑠璃!」

「な、何だよ・・・何で、こ、ここに」

「瑠璃は返して」

「は?何だよ」

「私の娘だもの」

「お前の傍になんか居たら、瑠璃はいつか危険に晒される。やっぱり、人間でもない奴に子育てなんか無理なんだよ」

イブが黙り込む。サタンは思い出していた、いつかのイブを。貴方みたいになると決めた、あの希望に満ちた微笑みを。しかしイブの横顔からは、悲しみではなく怒りが伺えていた。

「何よ!瑠璃だって・・・いつか私みたいになるのよ?泰弘1人で、どうにか出来るの?私から逃げた泰弘はいつか必ず、瑠璃からも逃げるわ!」

瑠璃は母の腕に抱かれながら、サタンを見上げていた。イブの隣で、サタンは瑠璃を見下ろす。瘴気を感じるその幼児の目にはどんな未来が見えているのかと、サタンはふと昔を思い出していた。

「泰弘は正の感情に目覚めた訳ではなかったのか」

「目覚めたとしても、また負の感情が勝つ時もある。人間の心なんてそんなものよ。こうなったのも、貴方のせいよ。責任とって一緒に瑠璃を育ててよね」

「・・・何故そうなる?」

「何故って貴方が魔王じゃなくなるから私が生まれて、貴方を見本にしたのよ?」

「まったく・・・・・・仕方ない」

「子育てなんて慣れっこよね?」

「・・・まあ」

我は、正の感情に目覚めた者としか愛し合わなかった。もしかしたらそれでは、本当に愛を知ったとは言えないのだろうか。イブのように普通の人間と愛し合っていたら、得たものも違ったのだろうか。最近になって、世界ではインターネットというものがより活発になってきた。それはその場に居ない者同士で、自由にコミュニケーションが取れるもの。しかしその一方、インターネットは今までに無かった、新しい悪意を生み出した。“匿名での陰口”という形を成した悪意。

とある日、サタンは東京タワーから街を見下ろしていた。何だか、街全体にうっすらとモヤが掛かったように見える。モヤの正体は無論瘴気なのだが、まるでその瘴気が見えないインターネットの網の具現としているようだ。これが、人間が内に秘めるもの。一度深呼吸すれば、体中に瘴気が巡り、力がみなぎる。まるで今すぐにでも、核爆発以上の威力で街を滅ぼせそうだ。

「ねぇ、何で黒い霧がかかってるの?」

「あれは、霧じゃないのよ?人間の負の感情よ?」

「負の感情・・・」

瑠璃は現在3歳。しかしその口調、物腰、まるで小さな魔王だ。純粋な魔王から産まれた、瘴気だけを持つ子。勇者と魔王の間に産まれた訳ではないその子は、今までとは違うまた別の存在なのだろうかと、サタンは瑠璃を見下ろしていた。

「どうして、負の感情が生まれるの?」

「えっと・・・」

「負の感情自体は防衛本能であり、生物の基本だ。だが知能の高いヒトという動物は“理論と感情”という本能から逸したものを持つ。それ故に防衛本能は本能でなくなり、防衛は“過剰な攻撃”となる。不必要な攻撃は恨みを生み出す。その恨みが、人間の負の感情の源だ。恨みは攻撃を生み、また恨みを生む」

「じゃあ、恨みはずっと消えないの?」

「恨みを消す方法は、自分というものに執着しない事だ。人間は皆、自分が大事だ。それは防衛本能だから仕方ないが、自分よりも他人の事を考える事で、過剰な防衛は必要なくなり、敵意と攻撃性が消える」

「自分よりも、他人・・・」

「人間はそれを、愛と呼ぶ」

「愛があれば、負の感情は無くなるの?」

「我はそう思う」

「でも、何であんなに負の感情が出てるの?」

「それは皆、知らないからだ」

「何を?」

「愛をだ。負の感情は悪人だから出す訳ではない。ただ愛を知らないだけだ」

「誰も教えないの?」

「教えられないのだ。愛を知らない人間が子供を作っても、愛を教えられないだろう?その子供が大人になり、子供を作る。しかしその大人は愛を知らないから、子供に愛を教えられない。人間は、その連鎖の中で今を生きているのだ」

「そっか。だからそんな人間達は、殺した方が良いの?」

「それが、主の意思だ」

サタンは街を見下ろす。愛を知らないのは、何も罪な事ではない。ただその為に殺し合い、自ら滅びる。それだけだ。そもそも何故、こんなにも愛を知らない人間が多いのだろう。そもそも人間には、愛など必要なのだろうか。いや、勇者の存在も主の意思なら、主は愛を望んでいるはずか。

「2つで宜しいんですか?」

「我に食事など必要ない」

「あ、この人は気にしないでいいわ?」

「は、はい・・・」

サタンは眺めていた。お子さまランチを食べる瑠璃を。確かに瑠璃には食事は必要なのだろう。

「お待たせ致しましたカルボナーラです」

「えぇ」

店員の女は再びサタンを一瞥する。その40歳ほどのおじさんは、まったく微笑みも浮かべずに子供を見つめている。服も汚なくないし、どうやらホームレスとかでもなさそうだと。

「何故イブも食事しているのだ?」

「美味しいからよ」

「そうか」

そんな頃にとあるニュースが世間で沸いた。何でも、巨大な動物が人間を襲ったそうだ。それからサタンは動物園に居た。マスコミの人間も少なからず居るようだ。動物園の動物が脱走、飼育員、そして観客を襲ったそうだ。青年の魔王の仕業なのだろう。動物の気持ちなど誰も分からない。そう、操られているかどうかさえ。しかし、こんな小さな事件で一体どれほどの主の役に立つのか。カラスがサタンの足元に降り立った。カラスは真っ直ぐ、サタンを見上げた。

「(あなたは、動物園って何だと思う?)」

「・・・支配欲の具現だろう」

「カラス喋ったぁ」

瑠璃がカラスを持ち上げる。カラスは瑠璃とサタンに交互に顔を向ける。それはそのまま、青年の魔王の動きなのだろう。

「(知識を得る為という名目だけどさ、動物園とか水族館ってさ、戦争の精神だと思うんだよね)」

「ママとは違う魔王、今どこに居るの?」

「(アマゾン。知ってる?)」

「勉強する」

「人間は、動物を支配出来るほど偉くないという主張か?」

「(そんな感じかな。動物の筋力に比べたら人間なんて簡単に死ぬくせに、知能が高いってだけで支配する。愚か以外の何でもないよ)」

「そうだな」

「バイバイ」

正気に戻ったカラスが飛び立った。それからニュースではよく、クマに襲われて死亡だの、サメに襲われて死亡などの話題が見られた。森を減らし海を減らし、“先に動物の領域に侵略したのは人間”だ。なのに人間は襲い掛かってくる動物を敵だと、悪だと位置付ける。主が怒るのも当然だ。人間よ――。


〈もし悪い事などしていないお前が殴られたのに、殴った奴が謝る事を頑なに拒絶したら〉


お前は嬉しいのか?。人間はそんな事ばかりだ。恐らく、支配欲というのは知能が低いからこそ生まれるものなのだ。本当に知能が高い者は、無駄な敵意など持たない、つまり戦争などしないのだ。

とある日、サタンは瑠璃に行きたいと頼まれ、スマトラという島に居た。日本ほど都会ではない街。それは正に、自然との共存が出来る“理想への扉が開かれている”という事だ。扉は開かれているが、その道を進むかどうかは人間次第だが。何故こんな島にと尋ねると、瑠璃は微笑み、主の意思だと応えた。

「ママ、瑠璃にやらせて」

「良いけど、大丈夫かしら。貴女まだ3歳なのよ?」

「瑠璃も、魔王になる」

そして2004年12月、“突然”激しい揺れが島を襲った。長く強い揺れだ。人々は当然恐怖する。地面はグラグラと軋み、簡易に作られた建物は音を立てて崩れ落ちる。都会とは違い、簡易な建物が多いその街では地震だけでも被害は大きい。しかし、それだけでは終わらなかった。恐怖に落ち込んだ人々を次に襲ったのは、津波だった。突き上げられた海が波を起こし、街を、人々を飲み込んだのだった。スマトラ島沖地震、人々はそう呼んだ。複数の国々に渡って、多くの死者が出た。そんなニュースを、瑠璃は真顔で眺めていた。

「瑠璃、ご飯出来たわよ」

「はーい」

それからニュースでは海外でのテロの話題が流れ始める。そんなニュースも瑠璃は真顔で眺める。自爆テロと位置付けられ、死者は数十人だそうだ。

「どうして自爆したの?」

「それは我には分からない。その人間なりに目的があるのだろう」

「テロって何?」

「防衛本能は過剰な攻撃に変化すると言っただろう?戦争やテロ、人を殺すという事はそういう、本来は必要の無いものだ」

「瑠璃、もっと人間減らしたい。それが人間の為になるんでしょ?」

「だが目立ち過ぎれば――」

その時、インターホンが鳴った。サタンが玄関を開けると、そこには2人の制服警官が居た。とある通報を受けて訪ねてきたのだそうだ。食卓に居るイブの方に顔を向けた途端、2人の顔色が変わった。サタンが用を尋ねると、2人はイブに話を聞きたいと応えた。

「まだ食事中なのよ?」

「食べながらで結構です。まあその、実は、奥さんが人殺しだという、通報を受けましてですね。まあ冗談とは思ってますが、こちらとしては放っておく訳にもいかないので、少しお邪魔したという事なんですが」

「誰が・・・そんな事、まさか、泰弘じゃないわよね?」

「ヤスヒロさんという方は、奥さんとはどんなご関係ですか」

「夫、だった人よ。ついこの間別れたばかり」

「何故、その泰弘さんだと?」

「心当たりが、それしかないから」

「そうですか。実はですね、通報を受けたのは、その泰弘さんからなんですよ。まあ、泰弘さんと貴女の関係は分かりましたが、人殺しだという証言については、まさか事実なんかじゃないですよね?」

「・・・あら、人を殺すのが私の存在理由なのよ?泰弘から聞いてないのかしら」

「・・・・・・は?」

サタンは眺めていた。人間のように“戸惑い、嘘をつくという概念がない”魔王であるイブを。そして凍り付いた2人の警官を。

「泰弘から聞いてきたんでしょ?私が人を殺す存在だって」

「え、え、え、え?つまり、えっと、貴女は人を殺した事があるという」

「えぇそうよ?」

2人の警官は顔を見合わせる。それから1人は生唾を飲み、もう1人は顔色を変える。それは警官として正義感をたぎらせるような、ごく自然なものだろう。

「では、お聞きしますが、誰を、殺したんですか」

「あら、何故そんな事を聞くのかしら」

「ただ人殺しだというだけでは逮捕は出来ません。いつどこで、誰を殺したか、その証拠を確かめないといけません」

「証拠って、何かしら」

「えーと、例えば、殺した人のご遺体の場所や、殺した時の凶器などがあれば、正直にお話しして頂けますか」

「あの時の事を言うのであれば、誰を殺したかは分からないわね。ニュースでは68人が死んだって言ってたけど」

「・・・は?」

サタンは眺めていた。再び凍り付く2人の警官、そして黙々と食事している瑠璃を。瑠璃はミルクを飲むと、ミルクのヒゲを付けてにんまりと微笑んだ。

「新潟の、中越地震、知ってるわよね?」

「あー、あ、はい」

「あの地震を起こしたのは、私よ?」

「・・・・・・はい?」

「だから、そうね、凶器は無いわね」

「いや、あの、奥さん、冗談は止めて下さい」

「もしかしてあなた達、地震を起こした証拠が見たいとでも言うのかしら。それなら良いわよ?」

「ちょ、ちょっとちょっと待って下さい。えっと・・・あの、こちらは旦那様ですか」

「うふふ、違うわよ。まあ、兄と言っても間違いはないわよね?」

「あぁ」

「・・・そうですか。えっと、お兄さん、あの、冗談、ですよね?」

「確かに証拠として容認する事はお前達人間には難しいだろう。だが、新潟の中越地震の発生原因はこのイブで間違いない」

それから静かにパトカーがアパートの前に停まった。パトカーから出てきたのは制服警官ではなく、スーツを着た刑事だ。男は笠間(かさま)、女は真下(ました)と名乗り、自分達は更に詳しく話を聞く為に来たと言った。そして帰った制服警官と入れ替わり、今度は2人の男女の刑事がダイニングチェアに腰掛けた。

「では、先ずお名前を教えて下さい」

「戸籍の事を言えば良いのかしら」

「えぇ」

原科(はらしな)イブ。この子は瑠璃」

サタンは眺める。メモを取りながら、微笑む瑠璃に微笑み返す真下を。

「こちらもご家族の方ですか」

「そうなるわね。関係を言うなら、兄かしらね」

「そうですか。ではお兄さんのお名前もお願いします」

「我には名前など必要ない」

「はい?」

「だが一応、サタンという名を付けている」

「・・・は、はあ。どこの国籍の方ですか」

「そもそも国籍など無い」

「えっと・・・じゃあ取り敢えず一先ずは原科さんの事を伺います。お仕事は」

「してないわ」

「原科泰弘さんと別れたのはいつ頃ですか」

「10月よ」

「2ヶ月前ですね。それで、泰弘さんは、何故あなたを人殺しだなんて通報したのか、心当たりはありますか」

「それは、私が結果的に人を殺したのを見たからでしょうね」

「結果的に、とは」

「家の近くで火事があったのよ。それで私は火を消そうとして、逆に大事になって、それで泰弘は怖くなって私から逃げたのよ」

「火事ですか。それは、今お住まいのこの地域で」

「違うわ、新潟よ」

「そうですか。なるほど。泰弘さんの事に関しては分かりましたが、先程の警察官に話した、新潟の中越地震はイブさんがやったという話なんですが、それはどういう意味ですか」

「意味って、そのままよ。私が地震を起こしたのよ」

「どうやって」

「見たいなら見せるわよ?その代わり、どれだけの人間が死ぬかしらね」

「その、人が死なない程度の地震を見せて下さい」

「んー、それじゃ意味無いわ?私は人を殺す為の存在よ?小さな地震を起こす理由なんて無いわよ」

「人を殺す為の存在・・・」

「瑠璃もいっぱい人間殺したぁ」

サタンは眺める。凍り付く2人の刑事を。確かに普通の人間が、“魔王”を理解しろという方が無理があるが。それにしても、まったく人間達は“危機感”が無さすぎる。

「おにいさんは何で、人間を殺さないの?」

見るからに、笠間の頭は真っ白且つ、混乱状態なのだろう。3歳児が饒舌なだけでも驚くのに、その3歳児が口にした言葉が、そんな質問なのだから。

「何でって、そりゃあ、法律があるからだよ」


〈悪い人間は殺さないと、人間は平和にならないんだよ?〉


笠間は真っ直ぐな眼差しの瑠璃から、その母親に目を逸らす。どんな教育をしているのかと、そんな眼差しで。

「でも、ね、瑠璃ちゃん。人を殺すって、とても悪い事なんだよ」

「じゃあどうやって悪い人間を減らすの?」

「それはお兄さんみたいな警察官が捕まえて、もう悪い事をしないように約束させるんだよ」

「それで、今は平和なの?」

「え・・・・・・いや、今は平和じゃないけど」

「それで、悪い人間を捕まえれば、罪の無い死んだ人間は帰ってくるの?」

「いや、それは・・・帰って、来ないけど」


〈罪の無い人間は死ぬのに、悪い人間は死なないの?〉


「それは・・・悪い事をしたとしても、人は、必ずやり直せる。生きてるからこそ罪を償えるし、そうするべきだからだよ」

「じゃあ何で、今は平和じゃないの?」

「それは・・・悪い人が、沢山いるから」

「ちがうよ」

「・・・え?」

「みんな、愛をしらないからだよ」

「・・・愛?」

「でも愛を知る知らないより前に、人間は数が多すぎるの。煩いって主も言ってる。だから先ずは数を減らさなきゃいけないの。って、ママも魔王も言ってるよ。だから瑠璃、これからも人間をいっぱい殺すの」

2人の刑事はイブを見る。その眼差しはまるで、人ではないものを見るようだ。それはふと、泰弘がイブに見せた眼差しと重なった。

「スマトラ島の地震だって、瑠璃がやったんだよ?」

「・・・スマトラ島、あんた達、一体、何者なんだ」

「私達は、魔族よ」

「魔族・・・」

「人間には理解し難いだろう。だが、我々が人間でない事は確かだ。我々は、人間を殺す為に生まれた存在。お前達は、警察官なのだろう?」

「・・・はい」

「ならば、正義とは何か、平和とは何か、当然理解しているのだろう?」

しかし2人の刑事は固まった。それは見るからに戸惑い、頭が真っ白になっている様子だ。

「この2人は生まれてまだ日が浅い。だが我は、紀元前からずっと人間を見てきた。お前は何故、争いが無くならないと思う。警察官などという仕事をしていて、考えた事ない訳ないだろう?」

「それは・・・・・・」

警察官である男は、そんな質問に黙り込む。しかしそれは恐らく不思議な事ではないのだろう。正義の真理を理解して警察官になった人間が、今の世界に果たしてどれほど居るのだろうか。

「まさかそれが、愛を知らないからという、事ですか」

「そうだ。それに、お前達人間は、正義を知らない、そして何より、心から平和を願っていない」

「そんな、そんな事ありません!確かに戦争は無くなってませんけど、ちゃんと正義の為に生きてる人は沢山います」

「あぁ。問題なのは、正の感情に目覚める人間が、少なすぎるという事だ」

「・・・それは、そうですけど」

「1番愚かなのは政治家だ。どの国の政治家も同じ、この日本の政治家もだ。本当の正義とは何か、お前に分かるか」

「え、それは・・・悪は必ず裁く事、ですが、でもその中で大切なのは、人を裁くのではなく悪を裁くという事です。これは警察官として言ってはいけないのかも知れませんが、自分は場合によっては情状酌量もありだと思ってます。それがきっと、本当の正義だと思います」

「悪くはないが、それは表面的なだけだ。そもそも犯罪がまったく起こらない為に、本当の正義とは何かが問題なのだ。お前の言葉は、犯罪を否定していない」

「・・・それは、その・・・」


〈本当の正義とは、他人を否定しない事だ〉


「・・・そんなの、無理じゃないですか」

「無理か、人間らしいな。それは何故だ」

「何故って、それは・・・皆が皆、同じ意見を持たないから」

「意見がぶつかるのは、どちらも正しいからだ。しかし人間は自分以外を否定し、間違いと見なす。だがもし相手を否定しなければ、例え正反対の価値観でもぶつからずに、和解する。


〈お前達は皆同じ人間だ。“本気にさえなれば”分かり合えないという事は“絶対”にない〉


それを1番理解していないのが政治家だ。どの国のも、この日本のもだ。良い法律を作る為には意見をぶつける事はむしろ必要だ。だが“政治に派閥など必要ない”。派閥は無用な防衛本能を生み出し、それはやがて無駄な敵意になる。そして無駄な敵意は枷となり、“争わなければならない”という雰囲気に自我を潰される。だが本当の正義を持っていれば、“正反対の意見を取り込み、新しいものを生み出せる”。だからそもそも、自民や民主という時点で、茶番なのだ」

「・・・は、はあ」

「警察官なら答えてみろ。すべての争いが無くなる為に、必要な“たった1つの事”は何だ」

「えっと・・・えー、か、完璧な法律を作る、ですかね」

「それは間違いだ」

「・・・は、はあ」

「答えは簡単だ。


〈法律など忘れる事だ〉


法律というのは防衛策だ。つまりそもそも、法律など無くても人間は生きていけるのだ」

「・・・はい?どういう、意味ですか」

「お前は、警察官の前に人間なのだろう?」

「あ、はい」

「それなら、警察官が持つべき信念よりも、人間として必要な事を前面に掲げて生きるべきではないのか?」

「・・・は、はあ。それは、一体」

「法律だからではなく、愛と正義の下で生きるのだ。法律があるから人を殺さないのではなく、人として人を殺さない。人として人を傷付けない。人として人を尊重する。それだけだ、それだけで、戦争など簡単に消えてなくなる」

「・・・流石です。ですが、それだけじゃ、きれい事だけじゃ、解決しない事もあります」

「そう思うなら考えろ。


〈きれい事以上に、きれいなものはあるか〉


きれい事を否定するのは、それがきれい事だと認識しているからこそだ。お前達人間は、きれい事が理想だと、確実に認識しているのだろう?“理想は答え”だ。つまりきれい事が、すべてに置いて答えなのだ。人間が、“良識のある動物”として存在する為に、きれい事だけが、答えだ」

そして笠間と真下はパトカーに戻った。運転席のドアを開け、ふと空を見上げる。何だか気分が晴れたようで、逆にモヤモヤしたようで。バタンとドアを閉め、席に座り、シートベルトを閉める。

「あれ、俺ら、何しに来たんだっけ」

とある日、サタンは野良猫と肩を並べ、海を眺めていた。野良猫には瘴気が宿っている。そう、その野良猫は青年の魔王だ。波の音がサーサーと響き、潮風の匂いが優しく鼻につく。

「(日本って住みやすい?)」

「治安は良いからな。瑠璃が小さい内は日本暮らしだ」

「(その方が良いかもね)」

「アメリカはどうだ。まだイラクに八つ当たりしてるのか?」

「(八つ当たりっていうか、もう泥沼ってやつだね。誰が正しいのかも分からない。まあ全員愚かなんだろうけど)」

「そろそろ、“変わらせる”か」

イラク戦争が始まってからまだたった7年だが、移り変わりの激しい現代にとっては丁度良いのだろう。

「(何で、瑠璃は主に“認められた”のに、弟達は魔王じゃないのか、ちょっと気になるんだよね)」

「イブの新しい夫の影響だろう。何度か会ってるが、あの男は人間として正の感情に目覚めている。イブでさえも性格が変わるほどだ」

「(へぇ、ちょっと自分も見に行ってみようかな)」

「お前今どこにいる」

「(日本語で言えばロシア)」

「近いな」

「サタン」

瘴気の気配が瞬時に近付いた。9歳の瑠璃はテレポートを習得し、日や世界情勢を実視で勉強しているらしい。

「仙人も元気そうね」

「(まあね。ハイチ、チリときて次はどこに地震を起こすのかな)」

「まだ決めてないわ。仙人も、そろそろ大きな事しないと、主に嫌われちゃうわよ?そういうの、巷じゃニートっていうらしいわよ?」

「(んー、自分は人間よりも、動物の保護に尽力したいからねぇ。人間は瑠璃に任せるよ。そう言えばイブが変わったって本当?)」

「そうなのよ。ママったらすっかり骨抜きにされちゃって、多分瑠璃が居るから、安心してるのかもね」

「我に用なのか?」

「あら、育ての親に会いに行くのに、理由が要るのかしら」

「かつての子孫から、聞いた事があるようなセリフだ」

「一緒にイタリア行って欲しいの。子供1人じゃ不便だもの」

「それはそうだな」

「美味しいティラミスが食べたいのよねぇ。仙人も来る?犬とかで」

「(別に、良いけど?)」

父娘と1匹が街を歩く。やはり瑠璃はもう、立派な魔王なのだろう。巷の9歳とは、精神年齢がまるで違う。口調はイブそのもの。しかし再婚した母を持つ子供として何かを抱えているのか、弟が出来てからはイブよりも我と居る事が多くなった。それにしても青年の魔王は引き込もっているクセに人懐っこい。瑠璃に仙人というあだ名を付けられてもむしろ嬉しそうだし。動物に乗り移っては、よく世間話をしに来る。

「んーっ。やっぱり本場のティラミスは違うわよねぇ。仙人って、本当に今まで人間の食事をやった事無いの?」

「(無いね。興味ない)」

「勿体ないわねぇ。敵情視察みたいな事だと思えばよくないかしら」

「(自分はきっと、人間の為の魔王じゃないんだと思う。動物や自然を保護するのを重視するのも、立派な魔王の仕事だよ)」

「そうね」

店先に出ている客席故に、雑音は仕方ない。むしろこの雑音や外気も、カフェの醍醐味だという人間も居る。しかしこの時の雑音は、平穏なものではない。女性の逼迫した声だ。殆どの人間が、同じ方を見る。それは瑠璃も、青年の魔王も。それから直後に女性が叫んだ。「誰か捕まえて」と。強盗だ。向こうの歩道を右から左へと、女物のバッグを抱えた男が走る。その時、瑠璃は指を鳴らした。小さなパチンという音の直後に、男は倒れ込んだ。

「心臓を潰してやったわ」

そう一言呟き、瑠璃はティラミスを頬張った。そしてまた一言。

「本当は脳みそを頭蓋骨ごと破裂させたかったけど」

「(地震以外にも、力が目覚めたの?)」

「出来る事は念動力だけよ。頭を使ってるだけ」

「(ふーん。そう言えばサタン、さっきの話だけど。アメリカに何かするの?)」

「あぁ。バラクという大統領にな。そろそろイラク戦争を終わらせようと思う」

「新しく何かを仕掛けるのね?」

「そうだな」

「じゃあ瑠璃もついて行くわ?無骨なステーキ食べたくなってきた」

2010年8月、バラク・オバマ大統領は「戦闘終結宣言」を行い、「イラクの自由作戦」の終了を宣言した。当然の如く、世界中が注目したが、“綺麗に”終わる事が出来ないのはやはり人間らしいところなのだろう。イラクの「新しい夜明け作戦」という名目の中、イラクの人間達は燃え残った薪の如く、パチパチと紛争を続けていく。田舎町のステーキハウスで、そんなニュースを流すテレビを瑠璃は見上げる。

「終わってないわよね?」

「その内終わるだろう。ここからは人間の問題だ」

「甘いわ?どうせなら植民地にさせればいいのに」

「我がやるのは導く事だけだ。それからどうなるかは人間次第」

「それが、長生きした魔王だからこそのやり方って事かしら」

「そうだな」

「良いわね。瑠璃は人間の体だから、長生き出来ないのよね。だからそんなのんびり出来ないのよ」

「そうだな」

それから年が明けた頃、サタンはオーストラリアに居た。そこでは“異常気象”が原因とされた大雨が降っていた。しかもその大雨は水害を引き起こすほどのもので、更にはそのニュースは世界各地で起こっていた。そんな雨を眺めながら、瑠璃はエスプレッソを一口飲み込む。

「苦っ・・・これ返すわ」

「この苦味はまだ子供には早いだろう」

「雨すごいわね。それよりサタンってほんと気紛れよね。導くだけだとか言いながら、ラニーニャ現象を起こして水浸しなんて」

「自然災害というのは、気紛れなものだ」

「あら、上手いこと言うわね。瑠璃も何かしたいわ」

それからというもの、世界では同じような事が繰り返されていく。政治での争い、それに絡んだテロ。宗教の下に起こされるテロ。そして、その愚かさを自覚させる為の“自然災害”。これが、人間の限界というものだろうか。我は答えなら知っている、だが何故、こんなにも政治家達は平穏を望まないのだろう。

「んー、何でってねぇ。瑠璃はきっと、人間は最初からこうなるって決まってたんだと思うわ?」

「人間は絶滅に向かうという事が、か?」

「絶滅するとは決まってないのかも知れないけど、争うって事がよ。人間は、思ってるほど賢くないのよ」

「・・・そうだな」

晴れた空の下のカフェ。そのテラス席に居たサタンと瑠璃の前に、見知らぬ男がやって来た。“視た”ところ、その男はただの人間だ。だが明らかに敵意と殺気を伺わせるその男は、真っ直ぐサタンを睨んでいた。

「お前らが、悪魔の使いか?」

男はフランス語で口を開いた。ここはパリだから当然なのだが、サタンは頭を巡らせていた。ただの人間が、人間ではない者をどうやって特定したのかという事を。

「何故そう思う」

「知らないのか?インターネットの中では、悪魔の使いが人間の社会に潜んでると知れ渡っている」

そう言うと男は携帯電話の画面を見せてきた。その画面にはどこかのカフェで佇むサタンと瑠璃が映っていた。

「人目も憚らずに地震を起こしただの雨を降らしただの、お前らがそんな話をしているのを皆知ってるんだ。もう、お前らは隠れられないぞ」

「隠れようと思った事は1度も無い。そもそも、我々に気付くのが遅すぎるくらいだ」

「・・・悪魔の使いである、証拠を見せろ」

「何だと?」

「そんな恐ろしい事を話していたというだけで断定は出来ない。どうせ人間ではない姿に変身出来るんだろ?見せてみろ」

「いや、変身は出来ない。アニメの観すぎだ」

「嘘をつけ!」

首を傾げ、溜め息を吐き、サタンは一旦コーヒーを一口飲み込む。面倒な人間だとそう思った時、男から悲鳴が上がった。サタンは何事かと男を見る。男は自身の胸ぐらを押さえながら宙に浮いていた。そしてその瞬間に勢いよく回転し、地面に落ちた。

「ふふっ」

「瑠璃か」

「あら、証拠を見せろと言われたからよ」

「いってぇ・・・くそ、おい!」

男が呼び掛けた方にサタンは振り返る。落ちた男に、携帯電話で動画を撮っている男が駆け寄ってきた。

「撮ったか?」

「あぁ。はっはっは、バッチリだぜ!」

「それで証拠は十分であろう?」

「クックック、これでお前らは抹消されるぞ!」

「そんな動画、どうせインチキだって疑われるだけよ」

「うるさい!子供は黙ってろ。行くぞっ」

「いやっほー!これでいくら稼げるかな」

賑やかな人間共だった。それにしても、実際に魔王という存在を容認してくれた方が、我々にとっては好都合なのだが。

「何なの?あの男達」

「それより、インターネットに我々の事が書かれているという事の方が気になる。それは魔王にとって、良い結果だ」

「そうね。でも、ああいう男達はムカつく。もっと痛めつければ良かった」

サタンはふと、周りを見渡す。同じテラス席で過ごしていた人間達は皆、2人の魔王を見ていた。一瞬、空気が止まった。その直後、悲鳴が沸いた。一斉に席を立つ人間達。店内に逃げ込む人もいれば、そのままどこかへいなくなる人もいれば、少しだけ離れ、物陰に隠れる人もいる始末。

「魔王が認識されて良かったわね」

「そうだな」

そして次に、“撮影会”が始まった。カシャカシャと、どこからともなく携帯電話が鳴り出した。人間というのは不思議なものだ。得体の知れないものを“見ていたい”という欲求を抑えられない。

それから小一時間が経過した頃。その場は歓声と拍手に包まれていた。瑠璃がコーヒーカップを宙に舞わせ、コーヒーという液体ですら自在に操るという芸を人間達に見せていた。コーヒーを宙に舞わせ、コーヒーカップに戻し、一口飲み込む。そしてポーズを取る。拍手と歓声、並びに撮影会。先程とはまるで違う雰囲気。瑠璃が子供だからだろうか。それにしても、やはり人間は不思議なものだ。良い意味で、バカだ。

「君達は、本当に悪魔なのかい?」

中年男性が陽気に問いかける。

「我々が悪魔かどうかは、人間が決める事だ。我々はただ、人間に警告する為に生まれたのだ」

「警告って?」

女性が明るく問いかける。

「人間は常に争い、殺し合う。このままでは、人間は絶滅するだろう。そして何より、お前達の煩わしさを我々の主、この惑星が嘆いている。自然を破壊し、街を発展させ、戦争をより激化させるその愚かさを――」

1分も経たない内に、サタンから人間達は離れていった。それも何やら、気怠そうに。波が引くようにサーッとサタンは1人になり、そして人々は席に戻っていった。

「サタンの授業って、ほんと堅いのよねぇ」

「堅い、か。以前にもそんな事を言われた」

まったく人間は不思議なものだ。良い意味ではなく、バカだ。それからというもの、街を歩けば瑠璃は指を差されるようになり、声を掛けられるようになり、終いには記者に囲まれるようになった。そして時には襲われるようにも。するとその“襲い掛かってきた人間を返り討ちにした”映像が世界に広がると、今まで気安く話し掛けてきた人間達は瑠璃を恐れるようになり、更には人殺し、悪魔、侵略してきた宇宙人などと位置付けるようになった。記者というものは未だに追いかけてくる。しかしこの数週間で、人間は“魔王”を慕い、期待し、落胆し、恐怖し、嫌った。人間とは何とも、愚かなのだろう。

「静かにコーヒーを飲めるようになって良かったではないか」

「そうだけど、悪い人間を殺してあげたのに感謝しないって、おかしいわよ」

「それは違うよ、お嬢ちゃん」

2人のテーブルにやって来た、サタンの子孫。そのモーニングコートを着こなした老人はシルクハットを上げてサタンに挨拶すると、そのまま同じテーブルの席に座った。

「何よ、それに瑠璃はやるべき事しただけよ」

「それはそれでいいだろう。でもね、人間はとてもとても臆病なのだよ。例え見た目は可愛らしくても、大衆の前で人間の体をバラバラに引きちぎってしまっては、台無しというものだ。ホッホッホ」

「犯罪者なのよ?なのに関係ないの?」

「それが、人間というものだ。ホッホッホ」

「まあいいわ。好かれるより、畏れられる方が魔王らしいもの」

パリでの悪魔騒ぎの後、2人は日本に戻った。瑠璃は海を遠く眺めている。そんな背中を、サタンは眺める。何故ここを選んだかを尋ねると、瑠璃はこう応えた。


〈手頃な晒し者を前に、人間は正義を考えられるのか。それを試すのよ〉


長閑な港町。そこは日本の中では田舎に位置付けられる場所。街が発展する度、人間の心は反対に荒んでいく。心が追いついていないにも拘わらず、人間は何故技術だけを極めようとしているのか。自然との共存という理想への扉が開かれたこの場所が“流される”のは少し惜しい気もするが仕方ない。これも主の意思なのだ。そして瑠璃は目一杯息を吸い込み、一気に吐き出した。

2011年、3月11日。14時46分18秒。

“突然”の大地震が日本を襲った。震源地は福島第一原子力発電所の近くに居た瑠璃だが、地震は首都圏にまで及んだ。瑠璃は地震を知り尽くしている。これまで何度も地震を起こしてきた。地震はあくまで、始まりの合図だと。地震でもって呼び起こされる、本当の目的。――そして、津波がやって来た。


〈さあ日本人よ、地球(ぬし)からの試練だ〉


人間は煩い。自然を破壊し、戦争を止めない。更には例え戦争を起こさないと決意したこの日本の中でも、人間達は殺し合い、傷付け合う。それに瑠璃が言うには、日本人は現在調子に乗っているそうだ。だから試練が必要なのだと。津波は街を飲み込んでいく。津波を眺めながら、誰かが呟いた。――何もかも終わったと。確かに街は無くなり、大勢の人間が死んだ。しかし死んだ者達が“無駄死に”するかどうかは、お前達日本人次第なのだ。

瑠璃の目的は津波だけではない。手頃な晒し者、それもまた大事な目的なのだ。それから日本を始め、世界中に駆け巡ったのは、原子力発電所の破損というニュースだった。過度に浴びれば生体に影響がある放射線。それが大量に、そして広範囲に垂れ流されるその事故は、最早津波を差し置くほどのニュースになった。テレビの前で、のんびりとコーヒーを飲みながら瑠璃は言った。

「正義を忘れ、ただ原発に怒りをぶつけるようなら、瑠璃の思ってる通り日本人は愚かだわ」

「原発も紛れもない同じ被災者。しかしそれを忘れて“手頃な晒し者”に対してどう扱うか、それがお前の考えた試練なのだな」

「そうね。でも主の意思よ」

「あぁ」

建物というものは完璧ではない、ましてや人間の行う管理に、完璧なものなどありはしない。例え完璧を求めていたとしてもだ。どんなに頑丈な原発とやらでも、“人間の想像を越えた天災”の前には成す術などありはしないのだ。

しかし日本人の出した答えは「人災」だった。日本人は確実に愚かだという事だ。手頃な晒し者を前に、人間はやはり正義を忘れるのだろう。それに加えて、日本人が調子に乗っている事も愚かになった理由の1つなのだろう。


〈津波で死んだ者達は無駄死にになったな〉


「そうね。誰かを恨まないと気が収まらないなんて、戦争放棄国が聞いて呆れるわね。やっぱり調子に乗ってるからよ」

「どう調子に乗っているのだ?」

「おもてなしってあるじゃない?」

「あぁ」

「日本人じゃない人間達は殆ど、その精神を讃えるのよ。けど、当の日本人はね、素晴らしいと言われると、そんなの当たり前だと応えるのよ。まあそういう風に育ったから、主観を捨てる事が出来ないのはしょうがないわ?でも、おもてなしっていうのは、善意よね?」

「あぁ」

「当たり前の善意なんて、無いわよ。でも日本人はその素晴らしいおもてなしを善意ではなく、当たり前だと思ってる。世界中で1番、日本人が善意を善意だと思ってないのよね。だから調子に乗ってるっていうのよ」

「確かにそうだな」

それから日本人は東京電力に八つ当たりし、政治家に八つ当たりし、原子力発電所に八つ当たりした。自分達で作ったものだという事を差し置いて。それを愚かだと言わずに何と言うのだ。何より、お前達日本人も原発の恩恵を受け、今まで生きてきたのだろう。なのにいざ事故が起これば悪と見なす。人間はやはり、愛を知らない。風習を持て囃される日本人ですら、この様なのだから。本当に、津波で死んだ者達は無駄死にだった。しかしそれでも、いつかはまた新しく街が作られ、死んだ者達は歴史に葬り去られる。そして忘れていくのだ。あの時の絶望、それから絶望の中だからこそ芽生えた希望や、大切な事を。ここでもし人間が我の話を聞いていたとして、我の言葉に反感を買うとしたら、それは我の言葉が正論だと認識しているからこそだ。我の言葉を聞いて反感を買うのも愚か、何も知らないままなのも愚か。本当に人間達は、呑気なものだな。

時が過ぎ、瑠璃は12歳。1人旅をしては話し相手が居ないから寂しいと、相変わらずサタンについて回ったり、サタンをついて回らせたり。イブは相変わらず骨抜きだそうだ。だが長い時間をかけて愛や家族、その大切さを知る事もまた主の意思だと、瑠璃は微笑んだ。その頃、世界ではとある組織のニュースが駆け巡っていた。各国はその組織を過激派組織と位置付け、ISILと呼んだ。自らの利益だけを考え、自分達以外の全てを否定し、支配領土を広げ、そして各国でテロを起こす、そんな組織だ。しかしそんな“概念”は決して、戦争の歴史を作ってきた人間にとって特別なものではない。

「サタンが“作らせた”組織、すごい話題ね。ただのテロ組織じゃないって、一体どれだけの人間が気付くかしらね」

「もしかしたら、誰も気付かないかも知れないが」

「それならそれで、人間はバカだって話よ。今度はサタンからの試練ね」

「あぁ」

「瑠璃はね、アメリカとロシアが仲良く出来たら、世界は良い方に大きく変わると思うのよねぇ」

争いが無くなる理由は2つ。1つは一方の勢力が消滅する事。もう1つは“利害の一致”が発生する事。ISILは、我が人間の為にこしらえてやった利害の一致の種だ。しかし、手を取り合うかどうかはお前達次第だが。これからお前達が、お前達の手で戦争を無くせるか、自然の破壊を止められるか。あるいは自ら滅びの道を歩むのか。その様子をじっくり見させて貰おう。そして必要な時が来れば、いつでもお前達を殺しにかかろう。しかしそれはすべて、人間を絶滅させる為のものではない。何故なら地球(ぬし)は常に人間を観察し、魔王は常に人間の為に存在しているのだから。



THE END

ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。

フィクションとノンフィクションの垣根を越えてはいますが、この小説を通して伝えたい本当の事は、「平和」と「正義」です。確かに個人的見解を押し付けてるだけではありますが、“誰かが勝手に言ってた”事として、頭の隅にでも置いておいて頂けたら誠に嬉しい限りです。

――ですが、ここでサタンの言葉を今一度。

「我の言葉に反感を買うとしたら、それは我の言葉が正論だと認識しているからこそだ」

ちょっと卑怯なセリフですいません(笑)。

ありがとうございました。

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