愛
172回目。
人々はもう、魔王という存在を忘れている。それは確かに我が蒔いた種でもあるが、何故なら人々の中には“魔王と言われるような者達が居る”からだ。そういった人間達は他にも、悪魔、鬼神とも呼ばれたりする。文明の発達に比例し、瘴気も我ながら驚く効果を発揮するようになった。
あれは確か69回目辺りの事だ。人間の戦争の為に我が利用されるなど面倒だと、ひざまづいていた男に“瘴気を注いだ果実”をやった。去っていったその男がどうなったかは分からない。しかしそれからというもの、度々その男のように我を訪ねてくる者が現れ始めた。そんな話を嗅ぎ付けてか勇ましい者も来るようになったが、そんな人間達を見る度、その人間達の末路が気になり始めた。何度目かの転生を経てから、魔王は久し振りに人間の街へと足を向かせた。
魔王は見下ろしていた。兵隊の中に紛れる“人間ではないもの”を。その魔獣は鎧を着込み、人間と共に、敵国の兵隊を蹴散らしていた。やがて敵国の兵隊は逃げ帰り、その国はまた少し領土を広げた。満足げに帰ってきた兵隊が、魔王を通り過ぎていく。魔王は眺めていた。人間がそのまま大きく、禍々しくなったような姿の魔獣を。戦争の為に、人間は人間である事すら捨てる。いやもしかしたら、あれが人間の“本当の姿”なのかも知れない。魔獣がふと、魔王に振り返る。すると何かを感じたのか、途端に魔獣はひざまづいた。人間達がそんな構図に何事かと目を向けていく。
「邪神様、決心がつかれましたか」
「まさか、お前だったのか。だがその気はないと言っただろう。我は末路を観に来ただけだ」
「隊長?まさか・・・その人」
「あぁ、この方が、魔獣という姿をお与え下さった、邪神様だ」
人間達はどよめいていた。しかし魔獣の姿をした隊長とやらのその姿勢に、人間達の中にも隊長に続く者さえ現れた。
「邪神様、お願いします。あと100個、“魔の実”をお与え下さい」
「人間として、人間を殺すのが人間だろ?魔獣である必要はない」
「あの時は力をお与え下さったではないですか」
「あまりにもしつこかったからに過ぎない」
「今夜も洞窟に参ります」
「何度来られても気は変わらない」
周りからは魔人と呼ばれているその隊長、グランク。魔獣となった人間、単純な考え方で自然とそう呼ばれるようになった。しかしそれ以前に隊長として勇猛、残虐で名高く、隊長の中でも人望の厚さでは誰もが認めるところだ。そんな彼は“洞窟に居る神”という話を聞きつけ、更なる力を求めに魔王の下へとやってきた。一旦グランクから姿を消したものの、魔王は城に帰っていくグランク一行を人々に紛れて眺めていた。彼の特徴は正に“しつこさ”。力の為に、人間をもっと殺す為に“邪神”に通う。しかしそれが、彼にとっての最大の武器とも言える。
“あの女”の事があってから、魔王は洞窟を出ていなかった。やった事と言えば訪ねてきた人間に“瘴気を与えた”事だけ。なのに勇ましい者は現れた。必ず引き寄せ合う存在だから、というだけではどうにも納得出来ないほど、勇ましい者はいつも現れる。勇ましい者によっては、勇ましいというだけあって「ずっと洞窟に居る」と言えば魔王を殺さずに去っていく者も居た。しかし160回目辺りの頃から、答えが1つ出たのだ。自分でも気付かないほど、すでに瘴気はどこまでも果てしなく広がっていくほど強くなっていた。居るだけで嗅ぎ付けられるほどの瘴気が生まれる世界、それはつまり、魔王が居なくても世界は破壊と再生を繰り返していたのだ。
「そこで何してるの?」
王城の塀の傍に立つ木に登っていた魔王が振り返る。木の下から魔王を見上げていたのは若い女だった。色々な果実がいっぱいに積まれた籠を抱えた農民風の女だが、一目見て、魔王は悟った。
「あんた、負の化身でしょ?何?城を狙って悪巧みしてんの?」
「・・・人間を、観ているだけだ。我など居なくても、人間は常に殺し合う」
「ここの兵隊の隊長さんをあんなのにしたの、あんたなんでしょ?」
「しつこくせがまれた、我の意思ではない。人間を殺す為だけに、人間である事すら捨てる、そんな人間が、どんな人間か、観てみたくなった」
「で?答えは?」
「まだ分からない」
「これ食べる?」
脈絡のない唐突な問い。魔王は思わず下を見る。勇ましい者であるその女は、緑色の小さな果実を自分に差し出して見せていた。そして彼女は、何やら企んだようにニヤついた。
「プラーナを込めた果実。あんたが食べたらどうなるかな、死ぬかな?」
すると女は果実を投げた。魔王はとっさにそれを受け取る。
「あたしはファラ、変な事したらすぐ駆けつけちゃうからね?じゃっ」
まるで突風のような女だ。そう思いながら、魔王は果実を見つめる。聖剣の力が込められた果実。何となく、いい艶をしている。そういえば、瘴気を込めた果実を自分が食べた試しがない。しかしながら、“魔の実”を食べた人間が魔獣になるなら、これを食べた人間は?。魔王は街を見渡していた。見ない間に、随分と変わったものだ。だが一方、人間というものはやはり変わらない。魔王はふと足を止めた。木陰に座る、小汚ない子供を目に留めていた。子供も魔王を見上げ、そして虚ろな眼差しで果実を見つめた。
「食いたいなら食えばいい」
子供の膝の上に果実を投げた。すると子供はゆっくりとそれを持ち、ゆっくりとかぶりついた。それから魔王はただ眺めていた。すっかりと顔色がよくなって去っていく子供を。果実を食べたとは言え、あれ1つで腹は満たされないはず。
「やあ」
背後からの呼びかけに魔王は振り返る。そこに居たのはファラだった。籠には相変わらず果実を積んでいる。
「まさか子供を助けるなんてね」
「試したのか」
「まあね。プラーナを込めた果実を食べるとね、傷とか病気の治りが早まるんだよねー。あんた、負の化身なんじゃないの?」
「そうだ。だが、ある女に、優しさを教わった」
「優しさ・・・負の化身のくせに?」
「お前は、殺し合うのと愛し合うのと、どちらが人間の本質だと思う」
「そりゃあ愛し合う事なんじゃないの?動物にとっての子孫繁栄を、人にとっては愛って言うし」
「なら何故、我は生まれるのだ。何故、人間は殺し合うのだ。2つの内どちらかが本質なら、先ずはどちら共を知るべきだろ?・・・おい」
「ふがっ!・・・へ?」
「何故立ったまま寝ていた」
「あごめん、あたし難しい話されると3秒で寝れる自信あるから」
「・・・そうか」
「じゃあ・・・ウチ来る?」
「・・・何故そうなる?」
「ウチ教会でさ、炊き出しやってんの。スープでも飲んで一休みすれば?たまには考えないで居る事も大事だよ」
「考えないで居る事・・・」
魔王は座っていた。草原にポツリと。その手にはパンとスープが握られていて、その目には小汚ない子供達が映っていた。戦争で親を無くした孤児達だそうだ。
「あんた、本当に負の化身?」
「そうだと言ってるだろ。お前だって分かるんじゃないのか」
「なら予想が外れただけか。そのパンも、スープも、いつもプラーナを込めながら作るから」
「何!?」
「けど別に死ぬ訳じゃないんだね」
プラーナを込めて作られたもの。それを、食った・・・。つまり、聖剣の力を、取り込んだ?・・・。
「おや?苦しくなった?」
「いや」
「美味しくない?」
「いや。聖剣の力は、我を殺すはずだ」
「んー、でもプラーナって、命の輝きそのものだって神父から聞いたし。そもそも命を奪う為のものじゃないし」
「ますます解せなくなった。我は、一体何なんだ」
「・・・グゥ」
「寝るな」
魔王は見下ろしていた。行進する兵隊を。人間を殺しに行く為の行進。行き先は獲得したばかりの領土だ。魔王は歩いていた。兵隊の足跡の上を。兵隊はまっさらな地にテントを設営していき、自国の旗を立てていく。そしてそこから更に敵国に近付き、敵国の兵隊と対峙した。およそ1000人と1000人の殺し合い。怒号、鉄同士がぶつかる音、吹き出す鮮血。その中で、やはりグランクは異様だった。人間を虫のように払い、潰し、恐怖させる。躊躇なく人間を殺す魔人を前に、またもや敵国の兵隊は敗北し、逃げ出していく。
その夜、魔王はグランクの自宅の前に居た。家に帰ってきたグランクを眺めていた。グランクは魔王を見ると、やはりすぐさまひざまづいた。
「・・・邪神様」
「それはもういい。お前の、人間を殺す理由が知りたい」
「それは勿論、国王の為、そして、妻と子を守る為です」
魔王は眺めていた。小窓の外から見える、帰ってきた兵士に子供が駆け寄る光景を。人間の姿からでは、あの魔人を誰が想像出来ようかというほどの家族の光景を。
魔王を通り過ぎていく1人の少年。魔王は振り返り、少年の背中を追った。その少年、サイザンは何も持たず、朝市の露店通りを進んでいく。魔王は少し離れて、少年をつけていった。少年は特に何かを買う事もなく露店通りを抜けていき、やがて住宅の少ない、子供達の遊び場にもなっている広場に入った。
「来たぞ。悪魔だ!」
サイザンと同年代くらいの少年達が、何やらそう言ってサイザンに指を差した。すると少年達は一様に小石を拾い始める。魔王は眺めていた。少年達がサイザンに小石を投げるのを。サイザンは顔を背け、背中を丸める。カランカランと小石が転がる。
「うわあっ」
小石を投げ始めた最初の少年、サイザンを悪魔だと罵ったその張本人が、宙に浮いた。バタバタと暴れてもまるで空を切る手足。その手足を、他の少年達が必死に捕まえる。
「死ね悪魔!!ぁあっ!」
宙に浮いた少年が吹き飛んだ。道連れとなるように少年を掴んでいた者達も一緒に飛んでいく。魔王は眺めていた。サイザンが、少年達に手をかざすのを。そして感じていた。サイザンからユラユラと滲み出る見えない“瘴気”を。まるでそれは、魔獣を見るような感覚だった。そんな少年は悪魔と呼ばれていた。
「おじさんも、魔の実を食べたの?」
「・・・我にはそれを食べる必要はない。我が魔の実を作っていたからだ」
噴水の縁に肩を並べて座るサイザンは、空を見上げた。
「じゃあ、悪魔の王様だ」
「そうだな。どこで、魔の実を食った」
「分かんない。小さい頃から、悪魔の力を持ってた。魔の実の事も最近知ったんだ。知らずに食べてたのかも」
「あれ?サイザンじゃーん」
「あ、教会のお姉ちゃん」
「お前は、我に付きまとっているのか」
「人聞きが悪いねぇ。監視だよ、カ・ン・シ。サイザン、最近炊き出し来てないじゃん、来ればいいのに」
「ボクは、みんなの傍に居ない方がいいし」
「そんな事ないよ?サイザンが悪い子って訳じゃないの、あたしちゃんと知ってるからね?」
噴水の縁で肩を並べて2人きり。するとファラは籠の果物を当然のように差し出してきた。
「それでは殺せないと分かったんだろ?」
「え?殺そうなんて思ってないけど?」
「そもそも、我は食事など必要ない」
「えっ嘘でしょ!?」
「そもそも人間ではない」
「じゃあ・・・こっち食べる?」
「話を聞け」
「でもさぁ、誰かと一緒に食事してると、みんな笑顔になるから」
噴水の縁で肩を並べて2人きり。魔王は果物にかぶりついた。聖剣の力を取り入れている事など最早どうでもいい。ファラの言葉の意味を考えていた。
「お前の仕事は何だ」
「今は、畑と炊き出し、それから今みたいに、プラーナを込めた果物をみんなに配ってる。あたし、美味しいもの食べて人が笑顔になるのを見るのが好きなんだよね」
魔王は眺めていた。痛そうに顔を歪め、倒れ込んでいる少年達を。そんな少年達の前に立つ、サイザンを。この前よりも傷を負った少年達の中には泣き出す者も居るが、サイザンは冷たい表情で動けない少年達の1人に歩み寄り、木の棒を振りかざした。少し鈍い音が鳴った。
「あぁああ!!」
木の棒が折れるほどの強さ。サイザンを悪魔と罵った少年はこの前の強気さが微塵にも感じないほど、女々しく悲鳴を上げる。やがて駆けつけてきたファラは慌てたようにサイザンを制止する。大きな木が立つ丘の上、サイザンを罵る少年はこれ見よがしに指を差し伸ばした。
「あいつが、いきなり悪魔の力で苛めてきた。俺ら何もしてないのに」
「ふざけるな!お前らの方がよっぽど悪魔だ」
「は、はぁ?何の話だよ」
「ボク、見たぞ?」
サイザンを罵る少年、レーバの顔が一瞬ひきつるのをファラは見た。しかしそうかと思えばサイザンを睨みつけながら、強気と余裕の伺えるふてぶてしい笑みをうっすらと浮かべる。何とも分かりやすく、愚かな態度だ。サイザンは手をかざす。丘に立つ大きな木に。直後に地面が小さく揺れた。そして木のすぐ下の土が盛り上がり、何かが土から浮き上がる。ボタボタと土を落とし、宙に浮いたそれがゆっくりと移動し、レーバ達の前に静かに置かれる。しかしそれでもレーバは、首に木の枝が刺さった、血まみれの親子のウサギの亡骸を前に、何も知らないような顔を見せる。
「レーバがやってたの、見た」
「はっ悪魔の言う事なんて誰が信じるんだよ」
「あたしは信じる」
「くっ・・・何だよ!見てもないのに信じられる訳ないだろ!」
「レーバ、あんた分かってないの?そもそもみんな見てるよ?レーバがサイザンを苛めてるの。そんなあんたと、あたしの言う事、みんなどっちを信じると思う?」
魔王は見下ろしていた。教会の近くの木のすぐ下に刺さった、木の枝で出来た2つの十字架を。そしてその十字架の前でひざまづくサイザンを。
それから魔王はダイニングチェアに座っていた。同じテーブルを囲むサイザンとその母親。魔王は2人と夕食を取っていた。市場で買ってきた鶏肉と野菜を和えたサラダ、その一人一皿がいつもの形だが、小さな家で2人暮らしの親子にはそれで十分なのだそう。父親の事を尋ねると母親は慣れきったように表情を曇らせた。そしてたった一言、父親は居ないと応えた。
魔王は歩いていた。サイザンの母親、クシャスと共に。クシャスはその朝、木の皮で作った籠を3つ4つ露店に持ち込んだ。数日に1度、籠を卸売りする男性に籠を売る為だ。銀貨を用心深く服の中にしまうとクシャスは次に、酒場に入った。何も酒を飲む訳ではない。魔王はカウンターの前に立ち、モップで床を掃除しているクシャスを眺めていた。そこに、酒場の主人がモップを持ってやって来た。
「飲まねぇならあんたもやりな」
酒場の掃除が終わればクシャスは教会に、サイザンを迎えに行く。それも毎日の日課だと、クシャスは笑ってみせる。教会への道すがら、突如路地から現れた3人の男にクシャスは囲まれた。クシャスの表情が凍りつく。
「待ってたぜ、久し振りだな」
「もう、関わらないって約束」
「いやあ分かってる分かってる。けどさぁ、ちょっと問題が起きちまってなあ。女が1人、欠けちまってな、なあ?また頼むよ、いいだろ?」
「いや、もう関わらないで」
「お前は変わらずいい女だ、まだまだいける。これでいいだろ?」
「いやっ!」
強引に何かを握らされたクシャスの手から何かが落ちる。カンカンと高い音を小さく鳴らしたそれは3枚の金貨だった。男達はいやらしく笑っていた。
「騒ぐなよ、今度は客に孕ませないようちゃんと言っとくから、な?」
「いやっ!放して!」
その最中にクシャスは魔王を見た。必死に助けを求める眼差し。3人の男に掴まれ、抵抗などまったく出来ずに路地に連れていかれるクシャスを、魔王は見ていた。魔王は思い出していた。父親は居ないという言葉を、そしてサイザンと話している時のクシャスの笑顔を。
クシャスは俯いていた。意気消沈したようにグッタリと。路地に置いてある木箱に座っていた。魔王が手を伸ばすと、クシャスはそれを取り、立ち上がり、そして抑えていた恐怖が弾けたように魔王に抱きついた。歩き出した2人の近くには、3人の男の死体があった。
「サイザンは、金貨渡されて、強引に犯されて、それで出来たの。世の中は女をそういう、犯すモノとしか見てないの」
「だがそれは、人間が栄える為には必要な本能ではないのか?」
「それは、そうだけど。だったら、女は不幸になる為に生まれるっての?ねえ!」
「い、いや・・・」
「何よ!どうせあんたも女を犯す事しか頭にないんでしょ」
「いや、女を犯した事はない」
「は?そんなの、嘘」
「初めて抱こうと思った女を、抱く前に別の男に犯されて殺された。それからは、女とは親しくしてない」
「・・・そう。世の中そんなものよ」
「お前は、人間の本質は何だと思う」
「そんなの、どうでもいい」
「なら何の為に生きてる」
「それは、やっぱりサイザンを育てる為に。父親も居ないし変な力を持ってるけど、やっぱり自分の子供だし。人間ってそんなものでしょ」
「ファラが言っていた。サイザンは悪い子供ではないと。それは我もそう思う。お前は、良い母親だ」
教会の敷地内の草原で過ごしていたサイザンに、クシャスが呼びかける。母親の声に子供が駆け寄る。それと同時に、ファラが魔王に駆け寄る。
「何か用か」
「いや、呼んだから」
「クシャスがサイザンを呼んだのだ」
「これ食べる?」
「・・・まったく」
この時代の人間達は、もう我が魔王だという事を知らない。魔王の存在が書き残された古い書物などもう無いほど、時代は進んだのだ。しかし、“我ではない魔王”が居る。とある人々はその人間を英雄と呼び、とある人々は魔王と呼ぶ。その名はガルバ。サイザンのように人間として瘴気を持つ、今現在最強の兵士。
魔王は見上げていた。円く巨大な闘技場「フラウィウス」を。闘技場では無敗記録を持ち、戦争でも多大な功績を持つガルバ。その彼が現在も闘技場で、殺し合いに参加している。
「お前まで来なくていいだろ」
「心配なら早めに帰ってよね?あたし忙しいんだから」
「なら帰れ」
「あんたを監視するのも仕事なのっ。それにあんただってクシャスさんが寂しがってるんでしょ」
「そこまで親しくしてない」
「いいから早くっガルバって人を観るんでしょ?」
「・・・まったく」
魔王はファラと共に闘技場へと入っていく。そこは凄まじい歓声でうるさい場所だ。歓声と衝撃音、ほのかな血の臭いと転がる死体。当然ファラは表情を曇らせた。聖剣の力を持つファラはともかく、殺し合いを好んで観る、やはりこれが人間なのだろう。
「どれ?ガルバ」
「あれだ、お前は感じないのか」
「あれ?・・・えちょっと待って。あんた感じないの?」
「ん」
円い盾と1本の剣。同じ条件の男達。しかしその1人だけは、盾から見えない風を起こし、剣を微かに光らせた。光った剣は容易く相手の剣を弾き飛ばし、時には砕いた。2人は共に固まっていた。その男、ガルバは瘴気とプラーナを持ち合わせていた。
「そりゃあ、プラーナを持つ人間はあたしだけじゃないのは当然、だけど、さ」
「人ならざる魔王という話から、てっきりサイザンのような人間だと思っていた」
「お、こっち見た、おーい。・・・きっとあっちも感じてるはず」
100人の見せ物が10人となり、一頻り歓声を浴びて闘技場は一時の静寂を迎えた。それから魔王とファラは観客が入れない通路の入口の前に居た。その向こうから、1人の人影。見るからに強靭、屈強な筋肉。そしてガルバは2人の前にやって来ると、不思議そうに首を傾げた。
「何故、負の化身と勇者が共に居る」
「そりゃああたしはプラーナを持つ人間としてこの人を監視してんの」
「ほう?何故殺さない」
「そりゃああたしは殺す事しか頭にないあんたみたいな筋肉人間とは違うから。あたし教会生まれでね、命あるものを尊ぶ者としてはやっぱり、見極めないと。優しさを知ったみたいで、今のところ殺す必要はないと思ってるよ?」
「教会生まれか。なら負の化身はお前に任せる。私はそんな暇ではないのでね。で、お前は、何故私に会いに来た」
「人ならざる魔王がどんな人間かを、ただ観たいと思った。どこで、瘴気を手に入れた。魔の実を食ったのか?」
「どこで食ったかは定かではない。物心ついた時からプラーナと瘴気を持っているのが当たり前だった。私を観察したいだけか?聞きたい事がないならもう行くが」
「ならば、殺し合うのと愛し合うのと、人間の本質はどちらだと思う」
「んん・・・そうだな・・・私は、殺し合う方が本質だと思うがね」
「えー何よそれー」
「動物だって、生きる為に他を殺す。肉を食うのも草を食うのも、生きるという事はその命を頂くという事に他ならない。つまり生きるという事は命を奪うという事であり、命を与えるという事だ。それはどちらか一方は、命を失うのが絶対という事。人間も動物も等しく、すべての生けるものはそれが前提だ、そうだろ?」
「えーやだ、あたしは愛が命の本質だと信じるもん!」
「ふん、それならそれでいいだろう」
これまで、殺し合う事が本質だと言った勇ましい者は居なかった。魔王は去っていくガルバの背中を追っていた。確かにずっと戦ってきた者が、口では愛が大事だと言うのも疑わしくなる。プラーナを持っているからといって必ずしも考えが同じという訳ではないのか。いや、ガルバは瘴気も持っている。プラーナは我を殺す。プラーナは我と相対するものだと思っていたが、そうではないのだろうか。実際、我はプラーナを“食える”。そしてガルバという人間がいる。ますます解せなくなった。聖剣の力とは何だ。瘴気とは何だ。勇者とは何だ。――我は、一体何だ。
「同じプラーナの使者なのに、あんなに違うなんて。そもそもプラーナを持ってるのにどうして兵士になったのかな」
「聞けば良かっただろ」
「今思ったの」
「なら明日聞けば良い」
「え!明日も行くの!?」
「我は行く。もう少し観たい」
「でも明日旅商人が来て小さなお祭りをやるのに」
「我は行く」
「・・・変な事、絶対しないでよ?・・・あたし・・・あんたを殺したくない」
「観て話をするだけだ。街や人々を滅ぼすつもりは毛頭ない」
魔王は見つめていた。サイザンや他の子供達から少し離れて、独り座り込むレーバを。とある子供達は教会の敷地内を駆け回り、とある子供達はファラと本を読んでいる。サイザンは草を食べているヤギの背中を優しく撫で、そんな景色からはぐれるようにレーバは木陰に座り込んでいる。それから小腹が空く時間だと、ファラは小さな果物を子供達に配り始める。子供達は嬉しそうにファラに集まっていくが、誰もレーバに駆け寄らないのを見ているサイザンを、魔王は眺めていた。
「マオさん」
クシャスが魔王の下にやって来た。仕事を終え、夕食の買い物の終わりにサイザンを迎えに来たのだ。クシャスはサイザンを呼ぶ。サイザンは、果物をレーバに手渡していた。
「明日も行くの?」
「あぁ、まだ観たいんだ」
「夕食までには帰って来てよね」
「あぁ」
笑顔で頷き返すクシャス。魔王は思い出していた。優しさを教えてくれたあの女の姿を。もう名前も覚えていないし、顔もぼんやりとしか分からない。しかしその女から教わったものは根付いている。
魔王は眺めていた。どうやらこれから領土を広げる為の侵略をしに行くらしい。屈強な男達は鎧を纏い、城前広場に集まっていく。その中から、魔王は感じ取った。まだ不思議な感覚だ。瘴気を持った勇ましい者を見るこの感覚が。食料や木材、それらをまとめて馬車の荷台に積んでいる男達に近付く。それだけでも、ガルバも魔王が来た事を感じ取っていた。
「また来たのか。お前も来るか?その力があれば侵略に役立つ」
「いや、そうなれば我はファラに滅される。ファラが気にしていた。プラーナの使者でありながら、何故兵士になったのかと」
「何故か・・・私は城下町の生まれでな。父が兵士だった。だからプラーナを授かろうが関係なく兵士になる道しかなかったのだ」
「お前も、家族が居るのか」
「あぁ居るさ、妻と娘がな。死ぬ前には息子も欲しい。お前は?」
「我はそもそも人間ではない。家族を持つ必要はない。だが、我を生む人間を知る為には殺し合う事だけではなく愛を知る事も必要だと思った」
「ほう?なら居るのか?女が」
「まだそこまで親しくない。だが、一緒に住み始めた。お前は、自分がどんな存在か理解しているか?」
「どんな存在、か?」
「我は確かに負の化身だ。だが、プラーナを込めた果物を食っても死なないし、何より我が負の化身として人間を滅ぼすという使命を果たさなくても、人間は常に殺し合う。我は、分からないんだ。我は何の為の存在かが」
「ほう、なるほど。まったく人間よりも人間らしく悩んでいるのか。それで今は愛を知ろうとしていると。そうだな、私は、国を守る事がつまり人々を守る事であり、それがプラーナの使者としての役目であると思っている。しかし確かにそれは他の国を滅ぼす事であり、その国の光を奪う事にもなる。しかし人間は万能ではない。たまたまこの国に生まれたから、この国の人々の為に戦う。私にはそれしか出来ないし、それが私の使命だと思う」
「やはり、人間は殺し合うのが前提だという事か」
「そんなものだ、人間など。参考になるか分からないが、お前はそのままその女を愛してみればいいと思うぞ?何も、殺し合う人間の真似をする必要はなかろう」
「真似、か・・・」
「女はいいぞ?ハハハ」
また1つ、答えを見出だせた気がした。我は人間から生まれる、だからこそ、人間が成そうとしている事をするべきだと思っていた。しかし、そうでなくてもいいと、勇ましい者は言った。確かに我は人間ではない。人間が成そうとしている事を、必ずしもする必要はない。だがしかし、負の化身が、負の感情以外を知ってもいいのだろうか。
その日、教会はいつもより賑やかだった。敷地内の草原には旅商人だけではなく旅芸人などもやって来ていて、子供達だけではなく大人達も皆幸せそうに過ごしていた。
「あれぇ、もう戻ってきたの?まさかまた明日行くとか?」
「いや。腑に落ちた。だが1つだけ、気にかかる事が出来た」
「スープ飲む?」
「・・・あぁ」
子供達も、サイザンもレーバも含めて皆踊り子を観ている、そんな景色を眺めながら、ファラと肩を並べてスープを一口。
「へぇ、城下町生まれで、父が兵士かぁ。じゃあこれからは、クシャスさん達と暮らしていくの?」
「我は、ずっと前にも愛を知ろうとした。だが負の化身である我が、負の感情とは反対の感情を知ってもいいのか、分からない」
「いいじゃん!何も問題ないじゃん、誰にも迷惑かからないし。あたしは、前のあんたを知らないけど、あんたきっともう純粋な負の化身じゃないんだよ。自分が変わり続けてる事、あんた自身も気付いてないんじゃない?」
「純粋な負の化身ではない、か」
「それにそもそももうプラーナを込めたもの食べちゃってるし。きっと神様もあんたが愛を知る事を許してるんだよ」
「許してる・・・」
やがて教会に、クシャスがやって来た。しかしその隣に見知らぬ男が居るのを、魔王は見ていた。クシャスはサイザンを呼び、そして魔王を呼んだ。男は初めて見るほどの小綺麗な服を着ていて、肩が触れ合うほどクシャスに密着していた。
「ママ?誰それ」
「サイザン、これから・・・城下町の向こうに引っ越すの」
「え?何で?」
「やあサイザン。私はマットゥス。これから、君のママと君は、私と共に暮らすんだ、いいね?」
「・・・おじさんは?」
「・・・マオさん・・・ごめんね。その・・・」
マットゥスは魔王に小さな箱を差し出した。それは木箱ではない。見るからに高貴そうな色使いのものだった。
「親しくもない君には関係ないだろうが、これはせめてものお礼だ」
「どういう、意味だ」
「私は一目惚れしたのだ、クシャスに。だから私はクシャスを妻にする。もちろんサイザンも一緒に連れていく。君はクシャスにとって、何者でもないのだろう?だが勝手に連れていくのは流石に申し訳ない。だからこその、お礼だ」
「・・・・・・そうか」
そこには相変わらず、踊り子を踊らす陽気な音楽が流れていた。去っていく3人を前に、魔王はただ戸惑っていた。そこにファラが手を伸ばし、両手で覆えば隠せるほどの大きさの箱を開けた。
「どぅわっ」
入っていたのは、溢れんばかりの金貨と銀貨だった。それをふと見下ろしても、魔王はただ戸惑っていた。
「どういう、事だ?」
「こりゃきっと、皇族だ。こんな大金、箱も高価だよ絶対」
「クシャスとは、もう会えないのか」
「悲しいけど、そうなっちゃったね。あたしだってサイザンと会えなくなって淋しい。ねえ、好きな人取られたからって、暴れないでよね?」
「クシャスを・・・取られる筋合いはない」
「だめだよっ・・・確かにクシャスさんすごい美人だったけど、美人の女の人なんていっぱい居るから、ね?一先ずスープ飲も?ほら!スープ飲まないと滅しちゃうよ?」
それから魔王は小山の上の小屋に居た。ファラの居る教会がある街の中にはあるが、緑が生い茂る人の立ち入らない小山。魔王は思い出していた。洞窟から出ずに長い間生きていた事を。クシャスが去ってから、2年の月日が経っていた。しかし小屋は、静かな場所ではなかった。毎晩のように小屋の扉を叩く者がいたのだった。
「魔王様」
火の点いた1本のロウソクを1人ずつ持ち寄り、小屋に入って来る3人の男女。3人は床に“勝手に描かれた”魔方陣を囲むように座り込み、祈りを捧げた。そんな3人を、ベッドの上から眺める魔王。何を祈っているかと言うと、“常連客”から教えられた日頃の怨み事。確かにそれは少なからず魔王を強くする。そして祈りを捧げた対価として、瘴気の込められた木の実を貰える。そんな話が広まったのは、1人の若い女がきっかけだった。
それは1年前の事、自殺しようとしていた女は小山に登り、偶然に魔王と出会った。魔王は女の話を聞き、怨みを晴らす為に力を望んだ女に瘴気の込められた木の実を渡した。それから街では、“呪い”というものが広まった。それから呪いの話を聞きつけ、呪いの力を求めて小屋に人が来るようになった。そんな日常の朝方、扉が叩かれた。普段はそんな時間帯に人が来る事などない。しかし魔王は分かっていた。扉の向こうから感じる、聖剣の力を。
「やあ元気ー?」
「見ない間に女らしくなったな」
「え、もー何よー。あんたにそんな事言われたって、うう嬉しくないんだから。・・・うわあ、質素だねー、あ、これが噂の魔方陣か、ふーん」
「まさか、呪いの源を滅しに来たか」
「んー、最初はちょっとそう思ったけど、でも呪いの力を使った人、みんな可哀想な人だし、しょうがないなあって思うんだよね」
「なら、何しに来た」
「別にその、どうしてるかなって。もう、愛は諦めたの?」
「クシャスの事が運命なら、やはり我は愛を知るのを許されてないのではないかと思う」
「そんな事、ないよ。その、例えばさ、ここに来る人、あんたの信者だし、あんたが望めば言う通りにするんじゃないかな」
「だが、ただ女を孕ませればいいという事ではないとも教わった」
「じゃあ・・・ウチ来る?」
「何故そうなる?」
「この前、言われたんだよね神父に。そろそろプラーナを受け継ぐ者を産みなさいってさ」
「お前こそ、そういう男ぐらい居るだろ」
「それがさ、神父が紹介してくれた人、気が合わなくてさ、神父とケンカしちゃって、それで自分で連れてくるって言っちゃって・・・で、来ちゃった」
「・・・お前は、自分が何を望んでいるか理解しているのか」
「でも何だかんだ言って、あんた以上に親しくしてた人、居なかったし」
「本当に、我の子供が欲しいのか?」
「何かさ、反対に、どうなるのかなってちょっと楽しみだったりもするのね」
魔王は礼拝堂に居た。魔王とファラを前に、神父は怒っていた。説教はファラに向けられていた。ファラは身を縮み込ませる。神父はファラの育ての親だ、そして、プラーナの使者でもあった。その昔、神父は身寄りのない妊婦を保護し、お腹の中の赤ん坊にプラーナを込めた。プラーナを込められて産まれた赤ん坊はファラと名付けられ、今に至る。つまり、神父は魔王が“どんな存在か”理解していた。その上で、ファラと魔王を観察していたらしい。しかしそれがどうだ、そんなファラが、事もあろうに魔王の子供を産みたいと言ったのだ。当然、神父は怒っていた。
「でもさ、このまま優しい人で居てくれれば、世界も、あたしも幸せだし」
「ならん!どうなるか楽しみだと?そんな理由を認められるものか!」
「でも神父が言ったんじゃん、どんな人にも慈悲の心をって」
「それは相手が人間だったらの話だまったく。お前も、男だったらちゃんと断りなさい」
「そういえば、我は何故、男なんだ」
「それは・・・そうだな、男は力の象徴だからであろう」
「ならば、人間と同じ姿である理由は何だ」
「それは・・・」
「きっと女と結婚するのを神様に許されてるんだよ」
「ファラは黙ってなさい」
「神父が変な男の人紹介するからでしょー?」
「変なとは失礼な!近隣の人からの評判をしっかりと聞いた上で連れてきたのだ」
「でもそれが運命ならとっくにアージと結婚してるはずじゃない?」
「むう・・・だが、光と影は決して交わる事は出来ぬ」
「えー、お願いだからぁ、ね?お父さぁ~ん」
それから教会には、訪ねてくる人が増えた。“癒しの果実”だけではなく、“呪いの木の実”を求める魔王の信者もそのまま教会に来るようになったからだ。それでも神父は甘える娘に逆らえず、呪いを求める人達も分け隔てなく教会に迎え入れたのだ。身籠ったファラのお腹がすっかり大きくなった頃、街には呪いだけでなく“魔術”と呼ばれるものも広まっていた。魔術は“病気や怪我に遭わせる呪い”よりも強力で、時には人を殺す事もあった。その頃魔王はすっかり忘れていた。“何かが広まれば、それを嗅ぎ付ける者が居る”という事を。
「これが、運命か」
「そうだな。お前ちょっと、やり過ぎだな、流石に」
「呪いや魔術を望んだのは、人間だ」
旅人と名乗った小麦色の青年。魔王が知っている3人とはまた別の、プラーナの使者だ。眩しいくらいにギラついた眼差しと微笑みで、彼は例の如く“嗅ぎ付けてきた”。教会へ帰る道すがら、森の中、彼の持つ聖剣を前に、魔王はファラの顔を思い浮かべていた。
何度目かの転生。
もう数えるのはやめた。数える事に意味は無いと思えてきた。どうせ、我は滅されるのだから。そしてどうせ、また“知らない世界”に生まれるのだから。魔王は見下ろしていた。知っている名前が彫られた墓石を。生まれる場所はいつも違う。しかし幸運にも今回は同じ国には生まれた。だから探した、ファラを。そして見つけたのだ、ファラの墓を。あれから何年経ったかは分からない。ファラと作った子供もどうしているか分からない。教会はまだあったが、果物を積んだ篭を抱えて歩く女は居なかった。まるで、自分だけ取り残されたようだった。
街並みはそこまで変わっていなかった。どうやら魔術もまだあるらしい。しかし人々は魔王という存在に見向きもしない。何故なら魔術を使って人の頼み事を聞く者が“すでに”居るからだ。瘴気を持つ者が随分と増えたようだ。最早我という存在が必要かも分からない。ただ1つ分かるのは、生まれる度、そして今回も、これまでにないほどに力がみなぎっているという事だけ。
魔王は眺めていた。1体の石像を。闘技場の手前に立つ、ガルバの石像だ。ポーズを取り、とても猛々しい立ち姿をしている。
「その人知ってるのか?」
ふっと現れ、隣に肩を並べてきた青年。彼は不気味な微笑みを浮かべ、同じようにガルバ像を見上げる。
「お前と同じ、プラーナの使者だ」
「へぇ~、そうだったのかぁ。なあ、今じゃお前が居なくても、魔術とやらを使うお前みたいなのが居るんだ。なのに何で存在してるんだ?」
「我は、人間に負の感情がある限り生まれ続ける、それだけだ。それに魔術は人間が自ら望み、作り出したものだ、我に関係はない」
「魔術者とはいえ人間だしさ、手を出しにくくてさ。何とかしてくれない?」
「我に関係はない」
「じゃあ何しに来たんだよ」
「もう用は済んだ。これからは街を離れて生きる」
「お前の孫なんだってよ」
「・・・何の話だ」
「魔女って呼ばれる人が居て、その人は周りとは明らかに瘴気の質が違うんだ。話を聞いたら、その人は教会生まれで、何でも自分の親は魔王の子だって言ってた。つまり、お前の孫だろ?関係なくないだろ」
魔王は1人、路地裏に建つ占いを生業にしているという店を見上げていた。木造が当たり前の建物の中で、そこは黒い布で覆われていて少し異質な印象だ。そこから出てきた人とすれ違う。肩から黒い布を掛けているその女は、まるで何かを抱えているような陰気さがあった。
建物に入ると、目の前には黒い布の天蓋に包まれた空間があった。そこには1つのテーブルと、1人の女の姿。一目見ただけで、魔王はその女が強い瘴気を宿しているのを理解した。
「あら・・・」
「ファラ・・・」
思わず口にしてしまうほど、ファラの面影がその中年の女にはあった。ファラが年を取ったらこんな風なるのかと、魔王は立ち尽くしていた。
「似てますか?まぁそれは当然ですけどね、ふふ。どうぞ奥へ」
「その肩から掛ける黒い布は何の意味がある」
「信仰の証、かしらね」
黒い布で覆われた空間の先は普通に生活感が溢れていた。花瓶が置かれたテーブルを挟み、女に出された水を飲む。女はクアラと名乗った。それからクアラは魔王が居なくなった後の事を応え始めた。あれからファラは双子を産んだ。男の方はプラーナを持つアラン。女の方は瘴気を持つヘレナ。クアラはヘレナの娘で、ヘレナはすでに寿命を全うしたのだそう。それはアランも同じだが、アランの娘、フレアはその力でもって現在女帝に即位しているそうだ。一方クアラは瘴気を使い、占いをしたり魔術を売ったりして静かに暮らしていると、クアラは微笑んで言った。
「先程会ったプラーナの使者は、お前の瘴気の質が周りと違うと言っていたが」
「瘴気を込めたものを食べた人も瘴気を持つようになりますが、それはあくまで食べ物に宿った瘴気を受け継いだに過ぎません。ですが、母はあなたの、私は母の瘴気を受け継いでます。つまり私もあなたの瘴気を薄める事なく受け継いでいる事になるのです。それが違いとして見えるのでは」
「なるほど。お前も、子供は居るのか」
「えぇ2人。可愛いですよ?今は夫と畑に出てます」
「2人共瘴気を持っているのか」
「えぇ」
魔王はただ、城下町を歩いていた。目的は無い。思い出を振り返っていた。勇ましい者は、いつも本当に答えをくれる。我とは何か。人間が殺し合う理由。そして、ファラは愛し合うという事を教えてくれた。我にはもう、目的が見当たらない。
「だから田舎街で静かに暮らすって?」
「あぁ」
プラーナの使者の青年、レシルスは魔王と肩を並べ、具材を挟んだパンにかぶりつく。2人は石造りの塀に座り込み、街行く人々を眺める。
「どうせ不死身なんだろ?何か目的くらい作れよ。じゃなきゃ本当に何の為に生きてるか分からないじゃん」
「お前は、何の為に生きている」
「魔術者の中には、そら悪い奴も居るんだ。クアラさんみたいな人ばかりじゃない。悪い奴らを見極め、殺す事も俺の役目だからな。プラーナを持とうが瘴気を持とうが、悪い奴を殺すって事くらい出来るんじゃないか?」
「悪い奴を殺す、か。しかしそれは何の為だ」
「え、んーまあ、人間は、どうせ殺し合うだろ?それなら、どうせ殺すなら悪い奴の方がいいだろ?」
「あ、居た居た」
2人の下にやってきたのはクアラだった。黙って顔を向ける魔王、黙ってパンにかぶりつくレシルス。クアラはどこか、慌てたような表情だった。
「災いが、見えたのよ」
「へ?どんな?」
「街が、燃え盛る炎で赤く染まる。すぐに逃げなくては」
「え?どこの街?」
「城下町、だと思うの。レシルス、街の人を逃がすの、お願いしていいかしら」
「そんな、いきなり街が燃えるなんて・・・みんな信じてくれるかな」
「私が言ったと言えば、きっと。私は夫達の所に行くからね?」
「あ、うん」
去っていくクアラの背中を眺め、レシルスは最後の一口を頬張る。魔王は戸惑っていた。しかし胸騒ぎも感じていた。まったく信じられないとは言えないこの胸騒ぎは一体何なのかと。
「クアラは何故あんな事を言っていたのだ」
「言ったろ?クアラさん占いもやるって。それも瘴気の力なのかは分からないけど、クアラさんの予知はいつも当たるんだ」
「予知、か」
「でも街が燃えるなんて大きな事聞いたのは初めてだな」
それから大した時間もかからなかった。街から悲鳴が上がったのは。レシルスの叫びに人々が逃げていく。街の端に建つ幾つかの建物はすでに燃えていた。炎と黒煙が上がる場所を、魔王は眺めていた。とある建物には、矢が刺さっていた。それからまたすぐに街の向こうから火の点いた矢が飛んできた。それも1本2本ではない。それはまるで雨のようだった。慌てて兵隊が街の向こうに消えていく。しかしすでに、街は赤く染まっていた。燃えて倒壊する家屋に潰されていく若い親子。矢が刺さった丸焦げの人間。泣き叫ぶ子供と、水を運んでいく大人達。幸いこの国は大きく、兵士も多く、火の雨は時間もかからず止んでいた。しかし冷静になってからようやく、人々はその惨劇と絶望、怒りや憎しみを噛みしめていた。
「これから、戦争が始まるだろうな」
「そうか」
「お前、行ってみれば?敵ならいくら殺しても許してやるけど?」
「人間の問題だろ?我に関係はない」
魔王は眺めていた。燃えた場所へと去っていくレシルスを。そして魔王はレシルスに背を向けた。人間はやはり、殺し合うのだ。しかし人間から生まれたからといって、人間の殺し合いに加わる必要はない。そう、勇ましい者も言っていた。
魔王は眺めていた。港町、そして海を。活気が溢れる街の隣街であるそこは対照的に穏やかさが程よく漂っていて、まるであの火の雨が夢だったかのよう。あの街から放浪し、ようやく辿り着いたこの町。しかし我は、どこまで行っても“魔王”だった。2ヶ月もすれば“信者”が集まり、街には魔術が根付いていた。しかしそこには不審死や復讐さえもなく、やがてそこは小さな港町という名の、魔王の国となったのだった。魔王が住む、空き家だった旧町長邸。気が付けば、朝には魔王邸の庭で祈りの会が催されるようになっていた。魔王が庭先に出ると、集まっていた何十人は一様にひざまづき、そして各々静かに立ち去っていく。魔王は眺めていた。魔王を慕う人々を。“魔王”は人間の負の感情から生まれるもの。そもそも“魔王が慕われる”事自体、根本的な矛盾である。魔王とは何の為に存在するものか、また分からなくなっていた。
「魔王様、お客様です」
掃除中の召し使いが魔王を呼んだ。魔王の下にやって来たのは、クアラだった。傍には2人の子供が寄り添っていた。夫の事を聞くと、クアラは首を横に振り、「徴兵され、戦死した」と応えた。
「レシルスは」
「同じく戦地に。けれどレシルスはガルバの再来と言われて、今も活躍している頃でしょう」
「ここへは何しに来た」
「あら、お祖父様に会いに来るのに理由が要りますか?」
「その荷物は」
「ふふ、お祖父様と一緒に住むのに、理由は要りませんでしょ?ラビーとケレラです。ほら、ご挨拶しなさい」
まるで、今までとは世界が違うようだ。負の感情は人間を傷付けるもの。殺し合い、傷付け合い、そうして生まれる感情が、また人間を傷付け合わせる。しかし負の感情から生まれる瘴気を持つ人間同士が、傷付け合わないこの小さな国。瘴気を持つ人間という仲間意識だけが原因ではないと、クアラは応える。魔王という存在が、信仰の心が人々を繋ぎ合わせているという事らしい。つまり、負の感情がこの町から争い事を無くしたのだ。クアラの話では、火の雨が降ったあの街は今や戦地の中心地となり、敵国はその街から城の反対である西側を少しずつ占拠しているそうだ。
魔王は見つめていた。クアラが見つめる水晶玉を。水晶玉には自分が映り込むだけ、何も“分からない”。しかしそれをクアラは見つめ、そしてこう言った。「今日は海が時化る」と。それから魔王は港に居た。そして眺めていた。波が高いから無理だと漁に出ない男達を。クアラが「嵐が来る」と言えば魔王は畑を守り、クアラが「盗賊が来る」と言えば魔王がそれを撃退する。そんな事が続いていると、いつの日か魔王邸の庭に集まる人々はクアラを拝んでいた。そんなクアラの背中を、魔王はただ眺めていた。何だか不思議な感覚だ。濃い瘴気を持つ人間だからなのか、クアラやラビー達を見る感覚と、普通の女を見る感覚がどこか違う。
「ファラを見る感覚と、お前を見る感覚が違うのは何故だ」
「ふふ、それはそうですよ。自分の子供や孫を見る感覚はみんな同じです。それが家族というものです」
「家族、か」
人間が栄える為に必要なもの、その家族というものを、魔王は見る。子供達は庭で遊び、クアラは椅子に腰掛けそれを眺める。これが、家族というものか。この、“ふと何となく守りたいと思う気持ち”が、家族というものなのか。
とある朝、魔王は眺めていた。水晶玉を見つめるクアラが口を押さえるのを。それは正に“驚く”という表情。何が起こるのかと魔王が尋ねる。それからその町に、隣街から人がやって来た。その人からの話が人から人へと、瞬く間に広がっていく。
「お祖父様、その、何とか出来ないの?お祖父様の力で」
「人間の戦争に加わる気はない」
「けど、このままじゃ、近い内にこの町にも兵隊が来るわ?そしたら、私も、子供達も殺される」
「瘴気を持っているのは我だけではないだろう?お前こそ、魔術とやらで何か出来るだろう」
「戦争じゃなく、家族を守る為に戦うのよ?」
「クアラ様!」
庭には信者達が集まっていた。庭先に出るクアラを眺め、魔王は思い出していた。魔人と呼ばれた男を。同じように家族を持つ人間を、自分の家族を守る為に殺す。そうやって殺し合うのが人間だ。本当に、人間はそれしか出来ないのか?。ガルバも言っていた。「それが人間だ」と。しかし我にはそんな事は関係ない。何故なら我は人間ではないからだ。しかし、クアラを、ファラと作った子供が産んだクアラを、そしてそのクアラが産んだ子供達を、やはり守りたい。それから信者達が瘴気を武器に隣街へと向かった。明くる日、信者達は数を減らして帰ってきた。傷だらけの信者達を前に、クアラは泣いていた。
「お祖父様が行かないなら、私が行きます」
「クアラ様」
「・・・いや、お前達は逃げろ。出来るだけ大人数でだ」
まだ分からない、人間は何故殺し合うのか。守る為に殺す、そんな矛盾を、本当にこのまま永遠に抱えていくのか。それが人間なのか。魔王は対峙していた。数人の兵隊と。先頭の兵士は項垂れている女を捕まえていた。兵士は女に至近距離で怒鳴り付ける。「負の化身はどこだ」と。髪を握り締められている女は泥だらけの顔と人差し指を、魔王に向ける。
「魔王様、申し訳ございま――」
兵士は女の首に剣を突き刺した。血が噴き出す音と、兵士の号令。女は瞬時に事切れて、ゴミのように投げ捨てられた。その女の顔を、魔王は覚えていた。庭に集まる信者の1人だった女だ。泣いているクアラを思い出し、魔王は怒りを感じていた。そして魔王は、瘴気の突風を起こしていた。兵隊が塵のように舞い上がる。その騒ぎに駆けつけてくる兵隊。その度に瘴気が吹き荒れる。怒りをぶつけ、ふと落ち着いた魔王はその有り様に目を見張った。そして思わず自分の手を見下ろした。これほどにまで、瘴気の力が増しているとは。
「お祖父様!」
魔王邸から少し離れた空き家にクアラ達は居た。信者や町の人を含め、100人ほどの人間達は皆当然の如く怯えていた。
「お祖父様、このまま南の方へ行きましょう。それから回り道してまだ襲われてない街から国に戻るのです」
「それは、お前達だけで行け。我が敵の足を止めておく」
「・・・お祖父様」
クアラは魔王に抱きついた。魔王はファラを思い出していた。守る為に殺す。これが人間なら、これしかない。しかしもしここにファラが居たら、何と言うだろうか。我を止めるだろうか、クアラのように見送るだろうか。
兵隊と対峙した場所にはすでに別の兵隊が居た。瘴気に息の根を止められた兵士達を運んでいた。魔王の姿に、兵士達が目を留めていく。地面が捲れ、家屋も崩れているそこはまるで嵐が過ぎ去った跡かのよう。兵士達は男を見つめる。町の人間にしてはその佇まいには何か人の目線を集める異様さがある。するとその直後、男の右手には黒煙が立ち込めた。男は右手を振りかぶる。そしてその手が振り下ろされた瞬間、兵士達は瘴気に呑まれた。それはまるで氾濫する濁流が頭上から落ちてきたかのようだった。成す術もなく舞い上がる兵士達。風のような爆音が町に響き渡る。
「・・・悪魔、悪魔だあ!!」
兵士の号令が響く。しかし兵士達は魔王を前に怖じ気付き、歩き出す魔王をただ眺めていく。怯むなという号令とは裏腹に腰が引ける兵隊。それでも向かっていった1人の兵士の首を、魔王は掴み上げる。兵隊は眺めていた。黒煙にまみれ、砲丸のように家屋に激突していった兵士を。
「デシド!」
兵隊の向こうからそんな掛け声が聞こえた。それからすぐに1人の男が現れ、先頭の兵士と肩を並べた。その男は、勇ましい者だった。
「そっちから出てきたのは都合がいい。これ以上、瘴気に犯された人間は増やさせない。瘴気に犯されたこの国を、俺が救ってやる」
「その為に、街に火の雨を降らせたというのか。瘴気を持たない人間の方が多く死んだ」
「放っておけば瘴気を持つ人間が増えるだろ!」
勇ましい者、デシドは走り出す。その手には輝く光を纏っていた。殴りかかってくる勇ましい者に、魔王はふと疑問を感じる。そして光の拳と、瘴気の手がぶつかった。光と瘴気が交わり合い、弾け合って消えていく。
「聖剣はどうした」
「そんなものはない」
手と手がバチンとぶつかる音と、弾けゆく光と瘴気。魔王はこんなにも殴り合うのは初めてだと、優越感と疑問を募らせた。家屋に激突する魔王。瘴気に吹き飛ばされる勇ましい者。それから2人は掴み合い、崩れる家屋もお構いなしに投げ飛ばし合う。
「瘴気を望んだのは、人間だ」
「そいつらは悪魔だ!平和の為に殺すべき人間だ」
「殺すべき人間・・・」
「人間が殺し合う理由は、1つだ」
「何?・・・」
油断したところで魔王は殴り飛ばされる。何にぶつかり、何が崩れたなどどうでもいい。木屑を振り払い、歩み寄る勇ましい者を、魔王は見つめる。
「・・・選定だ」
「どういう意味だ」
「他の生物よりも賢く、圧倒的に数を増やす、その理由は、神による選定だ」
「神が、選ぶだと?何の為に」
「人間が殺し合うのは定められた事。人間同士の手で、穢れを落とし合い、より善く、強く、賢い者達だけを残す為に」
「だから、人間は殺し合いを止めないのか」
「だが、それを俺が終わらせる。瘴気を持つ人間を殲滅し、瘴気を持たざるとも悪魔に心を蝕まれた人間を滅ぼし続ける。そうすれば、必ず、やがて世が平和になる」
「だが、殺し合うから負の感情が生まれ、負の感情があるから殺し合う。殺し合いの末に、本当に平和があるのか?」
「殺し合うのは人間だからじゃない。心が穢れているからだ。心が清らかな人間だけになれば、争いなど無くなる」
「・・・確かに、一理ある。ならお前は、どの人間が穢れているか分かるんだな?」
「・・・・・・いや。それは、分からない」
「それは、ただ殺し合う人間と同じではないのか?」
「違う!少なくとも、魔術で溢れているこの国は滅びるべきだ。そして、お前も!」
聖剣を持たない勇ましい者は初めてだ。魔王はそう、拳を受け止める。殺し合うのは心が穢れているから。それなら、この勇ましい者の心は穢れているのだろうか。
「お前の心は、穢れているのか?」
「そうだな。でも、未来の平和の為になるなら、永遠の穢れさえも受け入れる覚悟だ」
気が付けば兵隊の数が増えていた。魔王の目線を追うように、デシドも一瞬振り返る。
「瘴気を持つ人間を殺す為なら、我が国はこの町さえも滅ぼす。焼いた街から逃げたあの魔女と呼ばれる女も、必ず捜し出す」
「同じプラーナの使者同士で戦争するとはな。この国の女帝は、プラーナの使者だ」
「・・・例え国が違えど、俺がしている事を理解してくれる。そしてすぐに停戦出来る。だからこその、プラーナの使者だ」
魔王はふと、クアラを思い出していた。クアラの温もり、そして自分を見送るクアラの眼差しを。勇ましい者の眼差しは真っ直ぐだ。その鋭く、強い眼差しは、きっと目的を果たす為なら、立ち止まる事はしない。魔王はデシドを蹴り飛ばした。瘴気のしぶきが弾けて消える。それから魔王は目一杯息を吸い込んだ。空を仰いで、気迫を込めた一声。周囲の地面から瘴気が噴き出す。強風に煽られる木々が、その全ての葉を解き放したような壮観さ。そして巨大な黒い渦が兵隊を呑み込むその様は、最早天災の域にまで達するほどだ。光に包まれ、辛うじて無傷のデシドが振り返る。立ち上がり、遠くを見渡しても、兵隊の跡形すらない、“何もない一本道”。
「お前の“答え”は理解した。だが我は、お前を生かして置く訳にはいかない」
「ここまでの、力を持っているとはな、でも――」
振り返ると、魔王は剣を持っていた。ただ黒く、黒煙がパチパチ弾ける大きな剣だ。思わず言葉を呑み込んでしまうほどの殺気が、魔王の眼差しに迸っていた。後退りする擦れた足音。それを追いかけ、魔王は剣を振り上げた。風を切る音だけが鳴り、そして血しぶきが舞った。
やはり我は、魔王なのだ。この力は、人間を殺す為にある。魔王は眺めていた。何もない一本道を。その近くには絶命したデシドが倒れていた。もしデシドが目的を果たし、世の中が善い人間だけになったら、我は生まれるのだろうか。
城下町は活気に沸いていた。“敵国の英雄”が死に、この国の英雄が敵国を鎮めたからだ。侵略を退けたと、そしてまた貿易の幅が広がったと。大勢の観衆から賛美を一身に受けるのは当然レシルス。しかし人の話が広がるのは、本当に早い。魔王はレシルスと肩を並べ、女帝フレアの前に居た。魔王はフレアの顔にも、ファラの面影を重ねていた。
「レシルス、また勲章が増えますね」
「いえまあ、俺にとってはやるべき事をやっただけなんで」
魔王を見ると、フレアは微笑んだ。女帝たる上品さに溢れ、その目尻はファラを思い出させる。
「お初にお目にかかります、お祖父様」
「あぁ。目が、ファラによく似ている」
「ふふ。もし良ければ、このままレシルスと共に戦って頂けませんか」
「敵国の英雄が言っていた。善い人間だけにすれば平和になると。その為の殺しだと。だが我は、クアラを守る為にその平和な未来を無にした。我は、正しかったのだろうか」
「安心して下さい。私も、私のやり方で平和を実現します。やり方も考え方も1つではないのです」
「そうか。だが我は、クアラ達と静かに暮らす」
「そうですか。分かりました」
勇ましい者がどれほど居るかは分からない。もしかしたら、今にも勇ましい者が現れ我を殺しに来るかも知れない。デシドが来たのは、元はと言えば我が居たからだ。我が居て、“魔女”が居て、魔術があったからだ。ただ“嗅ぎ付けた”デシドに、恐らく罪はないのだろう。
「もしこれからも魔術が広がり続けるなら、プラーナを持つ人間が、また必ず殺しに来る」
「それが、瘴気を持つ人間の運命なのね。だからお祖父様、私の所に来てくれたんでしょ?」
「そう、だな。だがこちらの方が静かに暮らせると思っただけだ」
「ふふ、お祖父様、案外照れ屋なのね」
信者は相変わらずやって来る。しかし魔女は“魔の実”を配る事はしなくなった。するといつしか魔女は占い師と呼ばれるようになり、魔王でさえも勇ましい者の来訪を忘れていた。そんな日々の中、今更気付いた事が1つあった。我は歳を取らないらしいという事だ。ラビーとケレラはすっかり大人になり、稀に占い師は魔王の母親かと聞かれる事もあった。
「お祖父様、私が、眠るまで、手を握って」
魔王はクアラの手をそっと握る。痩せたシワだらけの手と、枯れた声。医者の話では、最早クアラはいつ“安らかに逝ってもおかしくない”のだそう。そして今日、占い師を継いだケレラが母の死を予知した。嗅ぎ付けてくるはずの勇ましい者は未だに音沙汰がない。我はこんなにも、1つの人生を生きたのは初めてだ。クアラの墓を見下ろす魔王。ファラは愛を、クアラは“生きる”という事を教えてくれた。魔王の隣にはケレラとその夫と子供達。そしてアレッサ。アレッサはようやく訪ねてきた勇ましい者。しかしその女はふらっと現れてはすんなりと“占い師の”同居人となった。そして、魔王の妻となった。
「相対する為だけの存在ではないなら、最早我は我の役目すら分からなくなる。我だけじゃない、プラーナの存在理由さえも分からなくなる。我は、一体何なのだ」
「羨ましいな」
「何がだ」
「あなたはいくら死んでも生まれ変わる。いつかきっと、その答えにも辿り着けるでしょ。私は答えを見つけるまで生きていられるかは分からないから、信じたいものを信じるだけだし」
「だから、ファラに憧れたのか?」
「それだけじゃないよ。私、思うの。あなたには使命があるって。それはあなたが最初にやってた事じゃない、別のもの」
「使命、か。しかし、負の化身の使命など、知れてると思うが」
「んふふ、ねえ?あなたは最初に、誰からあなたが負の化身だと聞いた?」
「何?どういう意味だ」
「そもそも、あなたが負の化身だと誰が決めたの?」
「・・・決めたという、事ではなく。我は、魔王だ」
「私思うの。負の化身が、愛を知れるのかなって。だって負の化身だよ?知ろうとする事自体、何だか自然に反してる気がする」
「なら我は、一体何なのだ。今までの事はすべて無意味だったのか?」
「そうじゃなくて、あなたはきっと、もう負の化身じゃない。負の化身としてじゃない使命がきっとある。確かに負の感情から生まれるけど、愛を知ったあなたは負の化身という存在からすでに逸脱して、新しい使命も背負ったんだよ」
「新しい使命・・・」
「これからは、それを考えていったらどうかな?」
何度目かの転生。
我は最早、“魔王”ですらないのだろうか。生きていけばその分“答え”が見出だせると思っていた。しかし実際はその反対だ。答えが出る度、また疑問が沸いてくる。確かにこれまで得てきた答えは無駄ではないのだろう。しかしそれ以上に、我はまるで喉が渇くように答えを欲してしまう。
ファラの血筋、アレッサの血筋、両一族が2大魔女一族として瘴気を受け継いでいる世の中。魔王は勇者である男、アンヘルと肩を並べていた。2人の背後、そして眼前には大勢の兵隊が列を成している。ただ人間の戦争に荷担する事が使命だとは思いたくないが、人間は必ず栄えるのなら敵意を持つ人間だけを殺す事はむしろ使命と言ってもいいのではないか、先ずはそれを確かめたいと思った。一方が滅び、一方が栄え、争いが減る。人間には、本当にそれしかないのか。一度この目で確かめてもいいだろう。そうして魔王は、兵隊に向かっていった。しかし人間はもうすでに、魔王の想像を上回っていた。確かに目の前の敵は一掃した。これから敵意を持たない人間同士だけがまた少し栄えるはずだ。しかし想像を遥かに越え、人間は争いを止めない。何度街を滅ぼしても、どこかでは誰かがまた争う。魔王は眺めていた。殺し合う兵隊を。――そもそも人間に、争いを止める能力はあるのだろうか。
まるで太陽が昇り、落ちるように、代わり代わっていく皇帝。寄せては返す波のように、減っては増えていく領地。首都の場所が変わり、国の名前が変わり、その大きな国が東と西に分かれただの、西側が早々に侵略されるだの、本当に人間は、“何の為に殺し合っているのか”。そしてまた、1000年ほど栄えた帝国が滅びた。帝国は別の帝国に吸収され、街の名前も変わった。コンスタンティノポリスから、イスタンブルへと。しかし名前など最早どうでもいい。魔王は心の底から途方に暮れた。元々魔王が住んでいた大きな国を滅ぼしたのは、同じくらい大きな国だったのだ。まるで自分は広大な花畑に咲き渡る花の1つに留まる虫のよう。たった一輪の花を征服し、満足していた愚かな虫のよう。敵意を持たない人間同士だけにする、そんな事は絶対に叶わないと、魔王は悟った。そう、やはり人間は、殺し合うのが前提だと。魔王は眼下に望む殺し合いに背を向け、その場を後にした。