第六の不思議「I Can't Fly」
旧校舎には屋上がある。
外から見て屋根が平らになっているのだから、そりゃ屋上はあるだろう。
しかし、入り口はない。
三階から屋上に続く階段がそもそも存在しないのだ。
部室で屋上の怪談があると聞いて、違和感を覚えていたがそういうことだったと今さらになって気づく。
気づいてもどうしようもない。
入り口がないということは、同時に出口もないわけである。
4−4の教室の扉は、「俺の役目は終わった」と言わんばかりに消えてしまった。
屋上には俺と貞子先輩。それに月と雲だけだ。
けっこうあるな……。
貞子先輩は俺と同じ高さにあり、月はもちろん上にある。
だが、雲は下にあった。
旧校舎は三階建てだったと記憶しているが、記憶とは斯くも曖昧なものなのか。
どうやら俺の知らないうちに旧校舎はスカイツリーも見上げる高さに成長していた。
「今夜は……月がきれいね」
貞子先輩は空を見上げている。
高いところにいるせいか、見上げる月はほんの少し大きい気がする。
それに先輩の台詞がなかなかロマンチックだ。
健全な青少年にそんなことを言うと、勘違いをしてしまうから辞めて欲しい。
まるで純文学の中に入り込んだんじゃないかと思い込んでしまう。
「旧校舎の七不思議の一つ。誰も彼もが死んでいく屋上」
もちろんここは純文学の世界なんかじゃない。
げに悲しきかなホラーなのである……。
「それで、ここはどういうことが起きるんです?」
誰も彼もが死んでいく屋上。
もう名前からしてやばさしか感じない。
「誰もここから生きて帰れない」
そのまんまじゃないか……。
「でも、伝承が残っている以上は生きて帰ってきてる人がいるってことですよね」
「そうね。月が本当にきれい」
なんなんだろうか。
気の利いた返事を俺に期待しているのだろうか。
いや、もしかして本当に気が……? 勘違いしていいのだろうか。
「それに……とても大きいわ」
秀逸な返答など俺にはできるはずもなく、月を見上げ、
「はい、たしかにきれいです。手を伸ばしたら――」
届きそう、とよくある返しをしようとしたところで言葉が止まった。
空には先ほどと同じように月があった。
ただ、なんだかでかい。
空の半分くらいを月が覆っている。
本当に手が届きそうなほど近くに迫ってきていた。
うっすらとしか見えていなかった月の模様がくっきり見える大きさだ。
月面で餅をつくウサギなんていないことが見て取れる。
硬質な地面とクレーターしかそこにはない。
そんなことを考えている間に月はもう空の大部分を覆い尽くしている。
ここにいれば間違いなく誰も彼もが潰されて死ぬ。
つまり、そういうことらしい。
しかし、どこに逃げればいい。
屋上の縁から先は空だ。
下をみても雲がぷかぷか浮かぶだけで、それ以外に見えるものはない。
「どうするの?」
先輩が尋ねる。
ここから飛び降りて果たして無事でいられるか?
ノーだ。
俺に翼はない。
「I Can't Fly」である。
ここにいれば潰されて死ぬ。
飛び降りれば地面に激突して死ぬ。
どっちにしても死ぬしかないじゃないか。理不尽だ。
「私、待つのはもう嫌なの」
「えっ?」
先輩はいきなり告白した。
どうしてそんなことをここで言うのかはわからない。
「死を見上げて待つなんて絶対に嫌」
それはつまりここから飛び降りるということだろうか?
「でも、ここから飛び降りたら――」
「死んでもいいわ」
だから、その台詞は――。
「そうですか。わかりました」
そこまで言うんなら、俺だって勘違いさせてもらおう。
やけっぱちと言ってもいい。
どうせ死ぬんなら最後に紐なしバンジーを決めてやろうじゃないか。
隣にはやたら綺麗でちょっぴり不気味な女性が一緒ときている。
今日は死ぬには良い日だ。
屋上の縁に先輩と一緒に並ぶ。
「先輩、覚悟はいいですか?」
「ええ」
返事をしつつ先輩はすでに足を虚空へと踏み出していた。
早いよ。こういうときは「せーの」とか言って一緒に踏み出すものだろう。
先輩の勢いにつられて、俺の足が屋上からはみ出した。
俺たちは重力のままに暗闇を突き進んでいく。
「今日は、本当に――楽しかったわ」
先輩の口調からは最期を感じた。
昔、病院で見届けた祖母の最期が思い浮かんだ。
小さい時分でもわかるほどに、満足そうな顔で祖母は逝った。
先輩の顔からは、そんな祖母の顔と微妙に違う部分があった。
楽しかったのはきっと間違いないだろう。
だが、諦めも混ざっている。
こんな状況だからそれは仕方ない。
でも――、
「何いってるんですか、貞子先輩。明日からは夏休みですよ」
先輩は何も言い返さない。
「楽しいのは今日だけじゃありません。明日からは、もっと楽しいに決まってます」
言ってみるものの、すでに明日は絶望的な状況だ。
「明日からはあのうるさい部長が一緒なんです。楽しさはきっと今日の比じゃありません」
あの部長は滅茶苦茶だが、一緒にいると本当におもしろい。
だからこそ俺は、あの部活から離れられないでいる。
「でも、私は……」
「何いってるんですか! 貞子先輩も一緒にです。約束したでしょ! 俺がミステリ研に、先輩が地研部に入るって!」
先輩が俺の顔を見る。
「……そうね。約束したわ」
先輩は静かに微笑んだ。
その笑顔はやはり整いすぎていて、どこか儚い。
「約束なら、仕方ないわね」
先輩は俺の腕を引いた。
宙に浮いた俺を、同じく宙に浮いた先輩が引っ張る。
そうすると俺たちの体は自然と近くに寄ってしまうわけで。
「東君。迎えに来てね」
――待ってるから。
耳元で呟かれた声はどこか空しく朧気に耳へと響いた。
そして俺も、俺の意識もどこか深くに沈み込んでいった。