第三の不思議「月光師匠」
音楽室の怪談と言えば、彼抜きには語れない。
彼はドイツが生んだ音楽の巨匠である。
彼の名は――ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
目が動く肖像画もベートーベン。
口が動くデスマスクもベートーベン。
そして、現在、三階の廊下に流れている曲もベートーベン。
彼も自分が遙か東の島国で、怪談の立役者になっているとは夢にも思わなかっただろう。
「行きましょう」
隣にいた和人形もとい貞子先輩は意気揚々と歩いて行く。
ミステリ研究会の会長ということもあって、不思議現象に興奮気味のご様子。
このご時世にミステリと言えば推理もので、こういった分野はオカルトだと思ったがそうでもないようだ。
そもそも俺が言える口ではない。
俺の入っている部も何がしたいのかよくわからない。
なぜ地域研究「会」じゃなく地域研究「部」なのかもわかってない。
むしろ、これこそ旧校舎の七不思議の一つに入れてもいいんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、貞子先輩から置いて行かれている。
こういうときは一人で行動する奴から死んでいく。
仕方なく貞子先輩を追うことにした。
いや、本当は怖いからだ。
わかってる。
音楽室は三階廊下の一番奥らしい。
扉一枚を隔てて、月光の調べが流れてくる。
俺も男の意地を見せねば、と貞子先輩に代わって扉を開けた。
誰か居てくれと祈ったものの、希望は月光の如く儚い。
「誰もいない」
音楽室の様子を見た俺の気持ちと貞子先輩の言葉がかぶった。
俺の言葉は絶望に、貞子先輩の言葉は希望に溢れているという違いはあったが……。
ピアノの前には誰も座っていない。
開いた窓から吹く風でカーテンが揺れている。
そこには月がたたずむだけ。
併設された音楽準備室を見てみるもののやはり誰もいない。
戻ってピアノを調べる。
かなり年期の入ったピアノだ。
誰かが弾いていたとは到底思えない。
ピアノに積もっている埃もそれを示している。
調律もされていないだろうから、先ほどのようなきれいな調べになるとは考えづらい。
――では、さっきの音は?
「あれ」
貞子先輩の持つ懐中電灯が壁の上を射す。
「ベートーベン、ですね」
赤みを帯びた光の先にはベートーベンの肖像画がかかっていた。
今にも「眩しいぞ!」と吠えそうな表情にみえた。
俺のスマホが鳴ったのはそのときだった。
あまりにいきなり鳴り始めたので貞子先輩が驚いた。
当然、俺も突然の音と振動、及び、貞子先輩のガクッという驚き方に驚いた。
着信音はベートーベンの「交響曲第5番ハ短調」の作品……六七番だったか?
通称は「運命」と呼ばれることが多い。
さて、俺の電話の着信音は買ったときからずっと同じで変えていない。
運命なんて曲のデータはそもそもスマホに入っていない。
俺の運命の扉を叩くのもいい加減にして欲しい。
恐る恐る画面を見てみるが、表示されているのは当然のごとく「非通知」である。
表示画面を貞子先輩に見せてみる。
「出て」
いやぁ、ちょっとそれは抵抗がある。
ただでさえ非通知の電話に出るのは抵抗があるものだ。
どういうやり方か知らないが、着信音を変えてくるような相手の電話なんて出たくない。
「かして」
貞子先輩は細く真っ白な手のひらをすっと差し出してきた。
人に出させるのも抵抗があるためしぶっていると、はぎ取られてしまった。
「もしもし」
貞子先輩は、電話に出た。
何か話しているようだが、向こうの声は聞き取れない。
「はい?」
聞き返すように首を上げた。
懐中電灯の光をベートーベンの肖像画に当てる。
そこには相変わらずベートーベンがいた。
目を閉じているように見えたが気のせいだろう。気のせいということにしたい。
「あっ、ごめんなさい」
誰かに貞子先輩は謝っている。
「はい。それじゃあ失礼します」
通話は終わったようで、貞子先輩はスマホを返してくれた。
「えっと……、誰、だったんですか?」
貞子先輩は壁の上に指を向けた。
暗くて見えないが、そこにはベートーベンの肖像画があるはずだ。
「駄目」
LED電灯向けようとした俺の腕は貞子先輩に止められた。
細い腕の割に力は意外に強かった。
「眩しいからやめろって」
誰が、と聞き返すのも憚られた。
「あっ、そうでしたか……」
もう、それで納得するしかない。
それでここから出られるならそうする。
俺は、妥協を覚えたんだから……。
「続きを弾くから邪魔をするな、と」
そのとおりだ。
邪魔をしたらいけないな。
「早く出ましょう」
「ええ」
音楽室を出て扉を閉める。
背後からはまたしても月光師匠の演奏が流れてきた。