師匠 Ⅱ
師匠こと、ミハイ=ルージュは、褐色のコースターに乗せられたコーヒーカップを手に取りひと啜りした後、随分おもむきの変わった弟子に尋ねた。
「随分と変わっただろ、この国……フェアベルゲンも」
「えぇ、フェアベルゲンは段違いに文明の発展を遂げています。特に衛生や治安を含めた、生活系の変わり様は目を見張るものばかりですよ。王都にこうして越してきて良かったと思っています」
国家官僚、賢人としては否であるが、と牽制するように。
師匠ミハイもエリファスが自ら好いて政界に乗り出していないことは既知の事。だから学生として謳歌しようとしているエリファスを見て安心したのかも知れない。
目の前に座る、金髪をなびかせる少女の風貌をした師匠の満足そうな笑みを見れば疑う余地はないだろう。
「まぁ、ならいいんだ。うん。よし。だが少しは自重するんだぞ? バレると面倒だろ」そこまで言って師匠は声を小さくして「『若返り』の魔法は」と。
「心得ています」
賢人の正体。俺も、その辺は抜かりない。市民証の制作に協力してくれたファーレンハイト卿の動向はしっかりと見ている。ここ一ヶ月で目立った動きが無い以上、ファーレンハイト卿が論文資料を悪用する可能性は薄い。因みに殺傷性、兵器利用価値の高い魔法は渡していないが、やむを得ない。そう言った論文資料を巡った争いすら起こる可能性を秘めているのが魔法だ。そもそも、一介の貴族が管理できるものでは無い。
「そういえば師匠、学園の方は随分と面白そうな事になっていますね。五皇貴の『アルフォード家』と『フォーケン家』が同時に入学してくるなんて」
「ん? ……本当か、それは懐かしい面子が揃うではないか。しかし、エリファスはもう二家共に面識はあるんだよな?」
「はい、まぁ。それとなく……」
ミハイ=ルージュは弟子の堅物っぷりに頭を抱えたくなった。
何故こいつはこんなにも女になびかない?
可笑しいだろ。頭沸いてるだろ。
いや、そうに違いない。
フォーケン家の今年魔法学校に入学する新入生、ティファニー=クラン=フォーケンは聖女とも言われ巷にその名を轟かせている。それはもう奇妙な集団ができる次元なまでに。ミハイもティファニーとは何度か対面した事がある。白磁の肌にサファイヤの様な深い紺色のセミロングヘア。
目の前の男を見る限りきっとなんとも思っていない。本気で、だ。鈍感という類いではなく、そういう感情が貧困を通り越して皆無なのだ。病的なまでに。完全無欠の賢人、唯一の弱点と言ってもいい。
――ちょっとは美人を観て、その枯れた内心を動揺させろ。
「おいエリファス。お前の在学中の保障人として私も明日の試験結果発表に着いていく。勿論、異論は認めない」
「は、はぁ。まぁ師匠が来たいなら良いですけど、面白いものなんて何も見られませんよ」
「ふんっ。面白い事なんて誰かが何かやらなければ発生しないだろ? フラグと言うやつだ。立ててやろう、このミハイ=ルージュが、な」
師匠は何故か目に闘気を宿らせていた。弟子の成長が楽しみなのだろう。
そこで一旦、話が途切れる。
「すみません。ヴィナ教の啓示をお聞きになりませんか?」
女性が横に立っていた。さっきから此方をチラチラ伺っていたのは分かっていたが宗教勧誘か、面倒だ。
「すみません。生憎、無宗教なもので」
「ケチな事を言うな。話ぐらいいいだろう。暇人」
「五千ユグルの魔法具で、店の信用を勘ぐる様な方にケチだの暇人と言われたくないですね」
「な、なななんだとぁッ! エリファス、キサマ師匠に向かって逆らうのかッ!?」
「反抗期ですよ。僕、十 五 歳 な の で」
茹でだこ見たいに赤くなった師匠を他所目に宗教勧誘の女性が割って入る。
「争いは憎しみのみを生み落としていきます。二人共、その辺りで留めておくのが宜しいのでは無いでしょうか?」
「平和主義なのだな、お主の宗教は」
「えぇ、教典にも争いは根絶すべきと著されておりますし、何よりノスト神がそう言って降ります故――」
「すみません。自己紹介が遅れました。私、ヴィナ教の布教活動をしています、ニーアと言います」
「そうか、ニーアか。私は……レプリカント。魔法使いだ。宜しくな」
師匠は当然、偽名だ。
元宮廷魔法師団団長のミハイ=ルージュは歴代の団長でも軍を抜いて強いし、人格ある人物だ。当たり前の様にみんな知っている。だから隠すのだ。
「同じく魔法使いのベルンハルトです。宜しく、ニーアさん」
当然俺にはその必要はない。
「挨拶が済みましたところで、ベルンハルトさん。レプリカントさん。ヴィナ教の教えには興味ありませんか?」
ニーアは尋ねた。
「ふむ。ニーアの言うヴィナ教とは友愛平和を掲げるのだったよな? 間違いないか?」
「そうです、レプリカントさんは争いのない世界を望みませんか?」
一瞬、師匠がたじろぐ。
「――それ以上、口を開くな」
冷え切った、ドスの効いた、低重音を発したのは俺だ。
「ニーアさん。貴方の崇拝するヴィナ教は素晴らしい。友愛、平和、親愛、理想郷に必要なのを兼ね備えている。」
「……」
ニーアは喋らない。
「この世界の人は多くが戦いが止むことはないと思っている。そんな中、ヴィナ教が信念を貫いているのは良い事だし、是非、見守りたい。
――だが、ヴィナ教が、他人の心象のスキに漬け込み布教活動をする。それが神の啓示と言うなら、話とやらの続きを喋るといい。バレていないとでも思ったのか? 聴覚強化の魔法はその高い情報採取能力故に、逆探知に引っ掛かりやすいんだ、覚えておくといい」
ニーアは唇を噛み締めながら、出口へ踵を返していった。ニーアが師匠が過去に何かあって漬け込んでくるのは明らかだった。
「…………」
「…………」
無言の空間が流れる。
気不味いのはお互い様だろう。
その空気を先に破ったのは、エリファスだった。
「師匠、一体何があったのですか? 答えて下さい」
師匠がどこの馬の骨かも知らない様な宗教に身を任せそうになるなど有り得ない。前までなら。王都が変わった様に師匠も変わってしまっている。
「……もう盗聴はされておらんのか?」
「はい、念の為に防音壁を張りました。外に音は漏れません」
ミハイは俯いてゆっくりと口を動かした。
「…………すまん。私は禁忌を犯した。
『生体練成』を施行した」
✳
ミハイの母親が四年前に暗殺者の対象になり、殺された。ミハイは当時まで宮廷魔法師団の団長を務めていて、『ラビット』にも従属していた。犯人いわく、ミハイに向けられた怒りの矛先がいつの間にか母親に行っていたそうだ。
負い目を感じたミハイは禁忌である『生体練成』を行い、ミハイの母親の魂を零界からむりやり引き摺り出そうとした所、術式の反動作用で魔素の侵食を受け、複雑な魔法を使う事が出来なくなったそうだ。皮肉な話、多大な代償を払ったのにも関わらず、ミハイの母親は息を吹き返す事は無かった。
ミハイはその時、宮廷魔法師団団長としての立場もあり、国も名誉を守るため、国王はミハイの罪を不問にしたが、使える魔法に制限がある以上、魔法師団除名を余儀なくされた。『ラビット』は手厚くミハイを迎えたが、彼女は彼らの恩恵を庇護にして生きる事は、出来ないと言って固辞し、今に至るらしい。
「……すいませんでした。」
「いいんだ気にするな。もうどの道母上は、私が手を出したが為に、人知を超えた霊界の奥地に連れて行かれてしまっただろう、取り返すのは不可能だ。私が愚かだったのだ」
異常をきたした魂は霊界の牢獄へ連れて行かれてしまう。もう、そうなってしまってはどうする事も出来ない。
「さっきは師匠らしからぬ所を見せてしまったな。これからは割り切って行く。心配かけて申し訳ない」
割り切れる訳がない。
身を呈してでも取り返そうとした母の命だ。はいそうですか、と切り離せる感情ならどれだけ楽だっただろうか。
「霊界から師匠のお母様を連れてきます。必ず」
「だからお前には話したくなかったんだ。言っておく。無理だ、やめろ。出来るわけがない。親指一つでドラゴンを相手にするようなものだ。お前が今ここで血迷ってはいけない」
「…………」
「現実は思いもよらないほどに残酷だ。平和なんて訪れないのを本当はみんな知っている。それでも知らない顔をする様にな。私も母上がもう絶対に戻ってこないと知っていながら可能性にすがりたくなる。
もしエリファスが私の過去の失敗を埋め合わせるくらいなら、エリファスの技術で一万人の今生きている命を助けてくれ。後生の頼みだ。母上を霊界から連れ帰ってきても、私がそれを許さない。エリファスまで霊界に行かれたら私は生きてゆく自信がない」
全て、全て師匠の言う通りだった。
「でもな、エリファス。全部肩書を外してみると意外と視野が広がるんだよ。こんな私にでも、お前以外の門下生が出来たしな。世界が反転したように違って見える、分かるだろ?」
俺の場合、視野の変わり方が極端だが師匠の言っている事は理解できる。
試験会場では平民と貴族の亀裂が手に取るように見えた。街の変わりようもすぐに分かった。
「分かりました。俺は今生きている師匠を大切にします。それでいいですね」
「あ、あぁ。宜しくな」
✳
一方、魔法学校の試験結果を受け職員の大半が顔を蒼白に染めていた。
入学試験総合成績
首席 エリファス=フォード=ベルンハルト
総合獲得点 1,980Point
次席 オルグレン=アルフォード
総合獲得点 1,105Point
三位 ティファニー=クラン=フォーケン
総合獲得点 1,094Point
「千点台が三人も」
「去年は一人でしたからねぇ」
「一位は千九百点台だと……」
「見た事ねぇよ」
「どんな野郎だ」
「バケモノだな」