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「えっ?」
ごぼごぼと、泥の中心に、女の顔が浮かび上がる。
リシテは思わず息をのんだ。この姿には、見覚えがある。
「これ! このひとが、お父さんを……!」
「お、ジャな……」
泥がうめいた。
「サガシ……ル、ノハ」
レトワが踏み出す。リシテを自分の背にかばって、前へ進んだ。
「オマエ、ジャナイ」
泥がはっきりと叫びをあげた。びゅっと、四方へ槍のように、腕らしきものを伸ばす。
石畳が突き破られ、パンのように持ち上げられた。
「きゃ……!」
リシテの足下も崩れていく。レトワの腕がリシテの腰に回された。豪快に、引っ張られる。
「痛い!」
「すまんな、だが、アレに食われるのは嫌だろう?」
ぎちぎちと、泥のくせに歯ぎしりをして、女の顔がこちらを向いた。
「ジャマ、じゃま、ジャマ、するナ」
「あのっ、お父さんを知りませんか!?」
「今、この状態で聞くのか」
苦笑いの息を吐いて、レトワが石畳を避ける。
石畳返しの攻撃に遭って、次々に、道端の人がひっくり返る。
「あっ、」
(どうしよう!)
怪我人が出てしまう。焦ったリシテは両手を振り回した。
「おろしてください!」
「何をいまさら。死ぬぞ?」
確かに――今落とされたらまずい。びゅうびゅうと耳元で風が鳴る。周囲の建物を遙かに下に見て、リシテは唾を飲み込んだ。
「たっ、高い、んですけど」
「高い? そうか」
人間には高いのか、と呟いて、レトワが、ふと腕の力をゆるめる。
「わっ」
リシテはこのまま落とされるのかと思って、レトワにしがみついた。彼の上着の裾が、生き物のように大きくはためく。
どうしたとでも言いたそうに、レトワが片眉をあげた。
「何だ、落としてほしかったのか?」
リシテは必死で首を左右に振る。声が出ない。
「……!」
「そんなことはしない」
ひゅん、と、風が横殴るのをやめた。数拍の間があって、急に重力が牙をむく――落ちる。
「おっ、落とさないって言ったのに!」
落下しているではないか。
涙目のリシテの脇を、驚いた小鳥が高く鳴いて避けていく。
「ははっ」
「笑い事じゃないー!」
見る間に、石畳の模様みたいな、はがれた切片がはっきりしてくる。
「さぁて」
レトワがリシテを引き寄せた。反射的に、リシテは首を振る。
人間の形をしていても、やはりこれは、召喚した、<異質なモノ>なのだ。空を落ちていきながら、こんなに嬉しそうにするなんて、どうかしている。
「大丈夫だ、落としたりしない」
「今! 落ちてるから!」
泥が、きりきりと尖り、身構えているのが見える。文句を言いながらも、リシテはとっさにレトワにしがみついた。
「あれ、何!?」
「さぁ。お前の父親を、<地下>に引きずり込んだ輩だ。だが、その後、見失ったようだな?」
「見失っ、えっ」
最後まで言えない。ぐいと引っ張られ、全身の関節が反対側に曲がる気がした。
うめくこともできないまま、レトワに抱えられ、振り回される。
高く、あるいは低く、身軽に飛び回って、レトワは泥の様子をうかがっている。
「あのっ、これ以上辺りを、壊さ、ないで、ほしいん、です、けど!」
「あ?」
レトワが息を吐き、泥の近くに舞い降りた。抱えられたままのリシテも、地面に足がつく。膝ががくがくした。
レトワは半分笑いながら、泥に向けて顎をあげた。
「お前が捜しているのは、この娘ではなくて、親の方だろう? 落としておいて、なくしたのか」
びりびりと、泥が細かく打ちふるえた。
「捜してやろうか?」
意地悪そうに、レトワが笑う。泥に浮かんだ女の顔が、怒りを帯びて険しくなった。
「黙、レ、お前の、ヨウな、切れ端ニ、ドウコウ、言われル、無様はさらさヌ」
「お前は俺を知っているのか」
ぴしりと、辺りの石畳達の、縁が欠ける。白い光が、ふわふわと、レトワの体からあふれて、広がっていく――光に触れた石畳は、しばらく、抵抗するかのように音を立てていたが、やがて不意に、地面に落ちた。ごとんごとん、と、それぞれ、元あった場所に戻っていく。
「あぁ、楽しいな」
「たっ、楽しまないで! 不謹慎よ」
リシテが涙目で睨むと、レトワは意外そうに肩をすくめた。
「召喚士というものは、こういう戦闘が好みなのではなかったか」
「これまで貴方を召喚したことのある人は、そうだったのかもしれないけど! 私は違うから!」
「しかし、父親を捜すとき、こうした事態になることも想定しただろう? それゆえ、最大限に、強いものを召喚しようとした」
「そうだけど……覚えてるの? 記憶が、」
「戻りきってはいない」
リシテはレトワの顔をじっと見た。
レトワの暗い瞳の奥で、火花のような明かりが、揺らめいている。召喚した当初のように、金色に輝いている。
「記憶、戻ればいいね……」
「簡単に言ってくれる。お前が、大げさな召喚を試みるから、打ち払って痛い目を見させようと思って、近づいてきた、のかもしれないのに」
「そうかな」
「怠惰」
不意に、泥がごぼごぼとうめいた。
「怠惰? それは名前か? 俺のどこが?」
「ジャマ。怠惰。ナゼ今になっテ、こんなトコロに」
ごぼごぼと咳き込むように鳴りながら、泥が、石畳の隙間に埋もれていく。リシテは慌てて、両手で空をかいた。
「待って! 行かないで!」
「あの気味悪い奴と添い寝でもする気か?」
「そういう! 意味じゃ! ない!」
「分かってるんだが、言ってみたかっただけだ」
泥が完全に消えてしまう。
手がかりが得られず、リシテは大きくため息をついた。
辺りの石畳ははがされて、ひび割れなどの損傷が激しい。だが、それぞれ元の場所には戻されている。
巻き込まれた通行人達が、怯えて頭を抱えている。だが、やがて終わったことに気づいて、ちらほらと互いの怪我を確認しだした。
「お嬢さんも、大丈夫かね」
話しかけられ、リシテは頷く。老人の視線の先を追って、レトワの顔を見上げた。
老人が聞く。
「そちらさんも怪我はないかね」
「ないな。……あれほど、人間とは違うモノや、それを翻弄してやる俺を見たというのに、普通の対応だな? 慣れているのか?」
「いいやぁ、お前さんのようなのは、初めて見る。だが、お前さんはそのお嬢さんを助けたし、わしらに殴りかかって来てもいない。今のところ、わしらと同じ、ただの通行人。で、怪我でもしてないか、ほかの人間と同じように確認して、何かあったら手当がいるかどうか、聞いた方がよかろ」
拍子抜けするほど、あっけない対応の根拠だった。
「……ふん、そういう気質の人間が多い町、か。召喚士には住みやすいかもしれんな。あぁ、召喚士というのは秘密だったか?」
「え? ううん、お父さんが怪しいモノ呼び出したり研究してるのは、みんな知ってる……と思う。隠してないし。お父さんが今どうなってる……っていうのは秘密」
老人は、別の人に話しかけ始めた。
リシテは空を仰ぐ。さっき自分は、空のどこ辺りまで飛んでしまったのだろう。
「……ねえ、石畳とか、直せる?」
町の人に迷惑をかけないつもりだった。だが、この大迷惑、である。
「元あった場所に戻すくらいなら、もうやったな」
「だよね」
これ以上直せないのは、リシテにも分かった。
「とりあえず、帰ろうか……」
背後で、ぴちん、と、石畳の隙間がはぜる。
一矢報いるつもりか、鋭く、泥が飛び出した。
レトワが悠然と腕を広げる。とっさに、リシテは身をすくめた。だがレトワの動作に気づいて、彼の腕を引いてどかそうとした。動かないので、突き飛ばそうとする。
(わざわざ攻撃を受けるつもり!? どうして!)
「危な……」
そのとき、銀色の光が炸裂した。
眩しさで、一瞬、熱いと錯覚する。――実際には、光は柔らかく、熱はない。
「何……?」
薄く目を開くと、レトワは黒い目をすがめて立っている。彼が何かしたわけではなさそうだ。
リシテは、彼の視線の先にいる、銀色の生き物に目を見はった。
「キオ?」
朝露のしたたるような銀の睫。霜柱にも似た銀色の目、髪。白磁の肌は傷一つなく、まるで彫刻作品のように美しい。それは、一人の青年だった。
「どうして、ここにいるの?」
泥が跡形もなく消えたのは、さっきの光のせいだろう。その光の中心にいたのは、この銀髪の青年である。
「キオが、助けてくれたの? ありがとう……でも、どうしてここに」
「守って、何がいけないんだ?」
青年のくせ、彼はどこか子どもっぽい響きで呟いた。
リシテは困惑して、首を傾げた。
「キオ、自分の国に帰ったんじゃなかったの?」
「君を助けたくて」
辺りにいた通行人達が、固唾をのんで見守っている。
レトワも黙って、リシテをちらり、と見た。
(そんなふうに、みんなに反応を待たれても困るんだけど)
「キオ、たまに遊びに来てくれるけど……いつからここにいたの?」
「君を、守りたいんだ! 守らせてくれ!」
キオはリシテに答えてくれなかった。それどころか、拳を握り、熱弁している。
リシテはますます、眉をひそめた。
「もしかして、私のお父さんの、事情、知ってる……?」
「知ってる。それを、外で言うほど野暮じゃないよ。……でも、だから、助けたい。君の力になりたいんだ! 君が危ないって、察知したから、飛んできた」
「うーん、でも、今回、私はキオを召喚したわけじゃないから……召喚して契約を結んだわけじゃないのに、こんな危ないこと、頼めないよ」
それに、キオは明るく開けた、清浄な森にしか住めないと、以前聞いた。あの泥を追い払えるなら、強いのかもしれないが――<地下>には、連れていけない。
無理はしないで、と、リシテはキオをじっと見つめた。
「……っ」
美声年は、地団太を踏みたそうな、妙な仕草をした。
「ちょっとあれは哀れだな……さすがに、同情を禁じ得ない」
ぼそりと、レトワが呟いた。