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丸眼鏡の、砂色のあちこちはねた、くるくるの短い髪。小さな妖精達に引っ張られたりからかわれたりもするけれど、滅多に怒ったりしない、気のいい人だった。
いつも、着古したジャケットやズボンのポケットに、珍しい鉱物や砂や有機物――塩柱とか、カタツムリの干物とか猫の前足の爪とか――をつっこんでいた。気が向くと、まるで鼻歌を歌うようにそれらを混ぜ合わせ、青空や夕空の下で、陶磁器やガラス瓶に入れて呪文を唱える。異質な世界から、異質な、力の強いモノを呼び出すのは、力に見入られたり怒りを強く持った者が多い。けれど、リシテの父は、単純に<異質なモノ>の観察者だった。話をしたり、どんなふうに世界が見えているのかを聞いたりしては、相手を拍子抜けさせたり、相手の思い出話を記録したり、そんなふうだった。
あの日も――ほんの、一週間前のことだが――父は、小包を切り開いていた。中には、遠国のスパイスが入っている。食事に用いてもいいだろうけれど、乾燥した葉っぱはいい匂いがして、さぞかし、気のいい<異質なモノ>がつれそうな感じがした。
「今日は、あぁ、底に潜ってみようかなぁ」
ちょっと散歩に行ってくるねとばかりに、父は庭に出て、陶器の碗にスパイスや細切れな紙片を投げ入れた。
思えば、あんな交信の仕方で、魔法のない、魔力の乏しいこの土地に、よく、力の強い<異質なモノ>が現れるものだが――昔から、鉱山の底には彼らが住んでいたと言うから、魔力がなくても近所だから、来やすいのかもしれない。
ともかく、父の召喚に応じて、茶色の、泥の塊から、女の顔が現れた。
「こんにちは。僕はリオンテ・オードラン。君の名前は?」
「リオ、ンテ」
濁りがちな声で、塊が父を呼んだ。
「そうそう。君達のような、人間とは異質な<モノ>達と、会話をしたり、世界について調べているんだ。君の、名前は?」
「アルテバイゾン」
女が笑う。
そのまま、ぬるり、と、地面に吸い込まれていく。吸い込まれたところに、それまでなかったはずの、大きな亀裂が生まれていた。
亀裂の底は、まったく見えない。どこか深くて冷たい、遠いところから、ひょう、と風が吹いてくる。
父の足下が崩れていく。初めは、あれっ? と、危機感なく、けれどやがて蒼白になって声をあげて、父が亀裂に落っこちる。
「父さん!」
様子を見ていたリシテは、作業部屋の窓をたたいて、それからドアを開けて外へ飛び出した。
「危ない!」
リシテの前に、急に第三者の声が割って入った。
「キオ?」
以前リシテが召喚したことのある、長い銀髪をたなびかせた、線の細い青年だった。
「いけない、下がって、リシテ」
「でもお父さんが!」
黒髪の男が、先日の話を聞きながら、顔をしかめた。
「その、銀髪の奴は? 父親探しには、役に立たないのか」
「キオはね、元々、高山の、水と空気の綺麗なところに住んでいるの。たまにこっちに来るぶんには、気分転換になっていいらしいんだけど、……お父さんが落っこちた、地底の、どこだか分からないところへは、加護がないとかで、行けなさそうなんだって」
「ふうん。弱虫なんだな」
「弱虫っていうか……得意じゃない場所って、あるでしょう。誰にでも」
「お前にも、得意ではない場所だろう。<地下>なんぞ。それを、お前は行くと言う。召喚されたモノがそれに従わないという選択肢は、そもそも存在しない」
「そうかなぁ」
リシテは首を傾げる。
「ともかく、貴方は、<地下>とか、大丈夫……なんだよね?」
「さぁ? 記憶が欠けているからな」
「……記憶喪失? 召喚のやり方が悪かったのかな?」
「言っただろう、この器が、合っていない」
さわさわと、庭の隅の香草が揺れている。
リシテは、知識をひっくり返して考えてみた。が、自分が召喚したのはこれで三度目、経験が少なくて、原因がはっきり分からなかった。
「うーん……ごめんなさい」
父であれば、もっと上手に、召喚を加減できたのかもしれないが――。
「お父さんがやってるのを、見て覚えたから……やり方が、やっぱり、不完全なのかも」
「この原因が、お前の力不足か何かは分からないが」
男の、あまり興味なさそうなくせ、どこか突き刺さるような、冷ややかさすら感じる喋り方が、ふわりと、鷹揚に和らいだ。
「まぁいいさ。長い人生、たまにはこういうアクシデントがあってもいい」
「器が合わなかったってことは、入りきらないのかな?」
「さぁ。ところで、アレは何だ」
男が、作業部屋を指さす。窓越しに、何か光るものが見えた。戸棚の隅だ。
「あれ……私が昔、召喚しちゃったひとの、一人……この前も思ったけど、何でいるんだろう?」
「お前に、用があるのではないか?」
「お前、というか……あっ、自己紹介を忘れてた。私はリシテ・オードラン。貴方の名前は?」
「言っただろう。記憶が欠けている」
苦笑した男の表情は、どこか人なつっこい老犬を思わせた。
(若いはずなのに。それに……強いって、自分で言ってたから、それで記憶が欠けてても、今は危険が少ないから慌てないのかな)
「どうしたものか……つけたければ、お前がつけていいぞ」
「え?」
「名前」
底の読めない、穏やかに深い黒の瞳が、リシテを見つめる。
何だか、父のいない不安も、心配も、召喚のためにしたあれこれの作業や疲れも、みんな、どこかに置いて、リシテは一人だけになって立っているような、それでいて怖くない、不思議な気分になった。
「レトワ」
「ん?」
「レトワは、どう? 召喚に使った羽は、北の、レトワ山脈の奥地で拾われたものなの。お父さんの大事な道具なんだけど、緊急事態だから借りました。羽は……後で、もっといいものを補充して、謝るつもりだけど」
「レトワ。山脈の重石の名前か。まぁいいだろう」
男は軽く腕組みをした。目を細めて、聞く。
「それでリシテ。俺はどこへ行けばいい?」
「とりあえず、お腹すいてない?」
「すいていないな」
「喉乾いたり、具合の悪いところは?」
「特にこれといって不自由なところはない。あぁ、さっき言った通り、記憶と、力が欠けている。それは何となく分かる」
「そっか。ちょっと自分のクッキーと水だけ、口に入れてくるね。町に行く前に、私が倒れるかも」
「それを早く言え」
レトワは呆れた顔をする。彼を置いて、リシテは隣の、作業部屋と似た作りの建物に入った。
ドアを開けると、作業部屋とは違う、生活の匂いが鼻をくすぐる。汲みおきよりもおいしいからと、父が工作した浄水機代わりの瓶に水を通す。柑橘類の皮をむいてグラスに落とし、水を受けた。
(本当に、召喚できた)
胸がどきどきしている。さっきは、いったん緊張がほどけて平静になりかかった。けれど、一人になると急にそわそわしてくる。
(落ち着いて。お父さんを、捜しに行くんだから。ここからが本題だから)
乾いたパンの塊を、一切れ切り取って、チーズをのせて火であぶる。
お腹がすいて、目眩がした。
「結構、パンが余るんだよね。食べてるんだけど……残るとこのまま食べてもあんまりおいしくないから、今晩くらいにはグラタンに入れようかなぁ」
(そうだよね、お父さんがいないから消費量が少ないんだ。前は毎日みたいに、パンも焼いてたんだけど)
リシテは、窓越しに、父よりも背の高い、どうかすると深淵な雰囲気もする男の方を、ちらりを見やった。
お腹がすいていないと言っていたが、一切れくらい要らないだろうか。
「ねぇ、食べる?」
「クッキーじゃなかったのか?」
立て付けの悪い窓を開けて、リシテがパンを振ると、レトワは目を丸くした後、ふうと息を吐いた。
「もらおう。……だが、父親捜しはどうした?」
「うん、今行く」
リシテが火の始末をして、グラスとパンを持ってくるまでの間、レトワは再び、作業部屋に視線を移した。
作業部屋の窓越しに、銀色の目がこちらを見ている。レトワは笑った。その、剣呑な笑みに、銀色の青年がびくりとする。
「……安心しろ。別に、お前を食いやしない」
レトワの呟きに、二、三度、青年が口を開け閉めした。言葉にならないようだ。やがて、
「あの子を……傷つけたりしたら許さない」
か細い声で、青年が言い返した。
「はい、これどうぞ」
ドアを開けて、リシテが家から出てくる。
作業部屋にいた者は、既に姿を消していた。