トワの大いなる学習帳:「睡眠」
自分と比べてとてもとても大きなものが目の前にあった場合、人はその全容を把握することは出来ない。自分の目前にあるその物体の一部を切り取って、そこから物体の有様を慮るしかない。思えば人間が何かと接触する時というのは何時だってそういった部分が少なからず含まれているように思う。相手のことを初めから知っている人間なんて、そんなものは人間とは言わない。少なくとも地球人ではない。俺たちが地球人である限り、人は未知との遭遇を常に繰り返しているということになるのだ。異星人との接触やミュータントとの交錯などというものは、そういう意味でとてもありふれている日常の一幕に過ぎない。
そんなことを考えながら、俺は視界を遮っている毛束を掻き分けた。全容を視覚的に把握出来ないものは何も「大きいもの」に限らない。自身と距離が近すぎたら、たとえ一般的に小さいと言われるものでも目の機能限界を凌駕するケースは往々にしてある。夢の世界の少女は、世間的に見た場合は「小さい子供」であったが、そのフワフワした白い長髪は俺と密着した場合、視界を覆い尽くすだけの規模を容易に備えていたし、窒息させることもまた容易に出来た。
「トワ・・・トワ!」
(恐らく仰向けの姿勢をとっている)少女が何事かと上半身を起こし、俺の方を振り返る。俺は酸素を求め咽頭部を目一杯拡張しゾンビのように喘いだ。ゾンビが喘ぐのももしかすると単に息苦しいだけなのかもしれない。
予想していた通り、どうやらいつの間にか眠ってしまい、いつものように夢の中の白い部屋に召喚されていたらしい。トワに先程の不可思議な状況の説明を求めたところ、どうやら俺がこの部屋にやって来る際常に仰向けの直立姿勢で目を閉じていたことが気になって、自らも同じ行為をすることによって意図解明しようとしていたようである。何も上に折り重なることもなかろうと思ったが、同じ位置であるということは、彼女にとって追体験を履行するには必須の条件だったのだろう。少女には人間の物差しでは測れない独自のルールがある。地球人にとっての、宇宙人のルールである。未知との遭遇だ。
しかしその一方で、少女は“相手の気持ちになって考える”という地球人的な思考に則ることが出来るようにもなっていた。出会った当初の無機質で淡泊な少女の振る舞いを見てきた身としてはこういった彼女の変化(進化だろうか)はそれはそれは感慨深いものがあるのだが、一方で多様化する彼女の手数に少々ついていけなくなりつつもあるのだった。
そういった彼女の意識変化への対策も考えなければならないのだが、とりあえず今は自分の窒息死の可能性を排除しなければなるまい。ゼェゼェと息を切らしている俺を不思議そうに眺める少女に対して、俺はいつも通り講義を始めることにした。今日のテーマは睡眠だ。
「眠る?眠るとは、何?」
開始して間もなくの質問である。実に勉強熱心な生徒を持てて俺は涙が出るほどに嬉しかった。
「休息、が近いかな。生物は定期的に睡眠という完全な休息を図ることで、生命活動を維持しているんだ」
「完全な休息」と少女が小さく復唱する。
「そうだ。思考をリフレッシュするんだ。一日の内に溜まった情報を睡眠によって溶かし、軽くする。そうしないとパンクしちまうからな」
少女には今の会話の中に何か引っかかるものがあったらしく、少し考えるような仕草をした。俺は彼女の発言を黙って待った。
「人にとって、一日は、負荷か?」と少女が言った。
「起こった出来事は、負荷?」
「どうだろ。そうかもしれない」
俺は少し考えてから、結局肯定の意を示した。生物は生きるために睡眠をとるが、それは身体的な意味だけでなく、精神的な意味合いも含まれるのかもしれない。日々体に積まれた疲労と心に積まれた嫌なことを忘れることで何とか生きながらえているのかもしれない。
「よく分からない」とトワが言った。
「生きて、負荷をかけ、かけた負荷を忘れるために眠る。でも眠るのは生きるため。生きるのは負荷をかけるため。何故そうまでして生きたり死んだりするのだ」
まずい、と思った。最近トワはとある男の言葉のせいで生と死に関して並々ならぬ関心を示しており、会話がそちらに流れがちになっているのだ。単純に難しい話題という以外に、俺はどうしてもこの話題を避けたい理由があった。今回もまた舵を取り直さねばならない。
「でもな、トワ、今まで睡眠は生きるためのものという考えで話を進めていたけど、実際のところはよく分かって無いんだ。睡眠時間なんていう完全に無防備で無為な時間が存在する意味は俺には分からない。もしかしたら生物の進化を遅らせるために設けられたリミッターなのかもしれないぞ。生物進化を破綻なく遂行させるための首輪なのかも」
可能性の話だけどな、と俺は新たな道筋を提示しつつ、深い追求を避けるために逃げ口上を付け加えた。少女は新規の方向性が示されたことで少し混乱しているようである。相変わらず読みとり辛い表情を微かに曇らせ、指先で長い髪を弄りながら、どう考えたものかと思案しているようだった。
「結局」
少女が呟いた。
「生物にとっての睡眠とは、何?」
「・・・“保留”、かな」
今日学んだこと
睡眠・・・物事を回避するための一時的保留手段。
・生物の自虐性を内包している。
・私は保留や回避行動を欲することが無いという点で生きてはいないと言える。