変わる世界
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愛原ナギサが結婚した。愛原ナギサと婚約相手が幸せそうにハニカミあっている光景を、俺の部屋のテレビが「現実なんてこんなもんですよ」といった態で映していた。
クソ野郎。俺はナギサちゃんの横で鼻の下を伸ばしている男を睨みつけた。俺の憎しみが公共の電波を逆流して男に届くようにかなり集中した。それでも男は「ナギサは甘えたがりで子供っぽくて、法的に結婚できる年齢になっているか、ときどきわからなくなりますよ」などと報道陣に笑顔でノロけていた。
俺が藁人形と釘を探しているうちに、いつの間にか五時になっていた。稲倉のところへ家庭教師に行く時間だ。俺はテレビを消し、部屋の壁で微笑んでいた水着姿の愛原ナギサを押し入れに放り込むと、急いで玄関を出た。
「愛原ナギサ?」稲倉が首を傾げた。「AV女優か?」
「違うって!」俺が声を荒げて否定した。「ほんとに知らないの? 最近はどんなドラマ見ても出演してるじゃんか。ほら、『巡査のおしごと2』とか。超ミニの制服着てさ」
俺が熱弁をふるっても稲倉は理解していないようだった。愛原ナギサといえば男子中学生なら誰もが下半身を疼かせたことがあるほどの有名人なのだが。
「おれ、テレビ見ないし」稲倉が興味なさそうに言った。
「おまえ、勉強ばっかりしてるとよくないぞ!」
なんで成績一位の俺が、校内一の不良で名が通っている稲倉にこんなこと言わなきゃならないんだ。俺は愛原ナギサがいかに美しく、エロく、魅力あふれる大根役者であるかを唾を飛ばして力説した。次から次へと言葉が出た。家庭教師を頼まれて稲倉と喋るようになったおかげで、少し舌のまわりが良くなったようだ。
「うるせえ」稲倉がたまりかねたように言った。「いいから、さっさと数学教えろ」
そろそろ稲倉の逆鱗に触れそうだったので俺は口をつぐんだ。
なんだか体が温かかった。こんな風に自分の好きな芸能人のことを誰かに話したのは始めてだ。たとえ相手が死刑囚みたいな面の男だって、俺の話を全く聞かずにぼりぼりとケツを掻いていたって、じんわりとした喜びが俺の胸に広がる。
「目立たなくなったな」稲倉が言った。いつの間にか俺の方を向いている。
「え?」俺が訊き返した。「あのさ、稲倉、前から言おうと思ってたけど、おまえ決定的に主語が足りないよ」
「主語?」
「国語の勉強も足りなそうだな」
俺が溜息をつくと稲倉が顔をしかめた。
「そろそろ俺も怒るぞ」
「あ、すみません、つい」俺が慌てて謝った。「それで、何が目立たなくなったって?」
「おまえの顔」
俺の顔、の、殴られた跡のことか。稲倉の言葉を自己補填した。
「思ったより腫れはすぐひいたんだ。殴られ慣れて回復力があがってんのかも」
俺は梶谷に殴られた頬をさすって答えた。
あのあと、俺はホームルームを終えて職員室へ戻ろうとする沢木をつかまえ、具合が悪いので早退させてくれと頼んだ。沢木はボロボロになった俺の顔を見てハッと息を呑んだが、俺が階段から落ちたと説明すると「あ、そうなの。お大事にね」と言ってスタスタと歩いていってしまった。いくらダメ沢木でもこんなベタベタな言い訳を本気で信じたはずがない。俺の顔にいじめの、それも暴力的な世界を感じて怯えたのだろう。知らなかった、気づかなかったで逃げようとしているのだ。
教師にも見捨てられた俺を救ったのが、いじめの加害者である不良の親玉とは、運命の歯車はサビついてギイギイと逆回転しているようだ。
「今日は助けてくれてありがとう」俺は心から稲倉にお礼を言った。「あと、死ねって言ってごめん」
「べつに」稲倉があくびしながら言った。「思ったことは言えばいいだろ」
きっとそれが稲倉の道徳律なのだろうな、と俺は納得した。言いたいから言う、気にいらないから殴る、興味がないからケツを掻く。俺を助けたのだって気まぐれみたいなもので、こいつは決して正義の味方なんかじゃない。明日にはこいつは何事も無かったのように俺を殴り始めるかもしれない。いじめられっ子の立場から言えば、やっぱりこいつのことは好きになれなかったが、でも稲倉は他の奴らとは何かが違う気がした。
「なあ、思ってることがあるから言うけど」
「なんだ?」
「やっぱり分からないんだ。稲倉が俺を助けた理由が。稲倉は俺のこと嫌いみたいだし、俺をいじめている奴らのボスなんだぞ。接点だって、こうして勉強を教えてやってることだけだし」
「さあ」稲倉が言った。「おれも分からねえ」
「なんだよそれ」
「たぶん、おまえが殻を破ったのに感動したからかな」
「おれはヒヨコか?」
「そうだな、おれはなんか、親鳥の気分」
まったく意味がわからない。話が通じ無さそうなのでこれ以上訊くのはやめた。
俺は稲倉が解答し終わった問題集を採点した。二次関数の証明問題への解答は途方もなく迷走していて、京都を目指せと言われたのにアフリカの草原に行っちゃいました、という感じだった。どうやって海を渡ったのか知らないが、稲倉には泳いで太平洋を横断するぐらいわけないようだ。やっぱり話しが通じなくて当然だな。俺は赤ペンで大きくバツをつけた。
翌日、俺が登校すると、教室の空気がいつもと違っていた。やっぱり思春期真っ盛りの猿どもにも愛原ナギサの結婚はショックだったのかと思ったが、どうやら奴らが噂しているのは俺と稲倉の関係についてらしかった。婚約会見を開いた覚えは無いので、昨日の梶谷との一件が広まったのだろう。
別段聞きたくもないのに俺の耳が条件反射で猿どもの陰口を拾った。常に聞き耳をたてて生活してきたせいで、変な癖がついてしまっているのだ。
拾った情報によると、奴らは稲倉が俺をかばった理由についてあれこれと推測しているようだった。俺と稲倉はホモで恋人同士なのだとか、実は稲倉には考えがあって俺の救出劇を自作自演したとか、挙句の果てには俺が黒魔術を使って稲倉を操っているというオカルト説まで出ていた。どれも馬鹿げた話だ。俺に黒魔術が使えるなら、ナギサちゃんの婚約者に使っている。
「稲倉さん」
梶谷が苦い顔で挨拶していた。眠そうな稲倉が肩に鞄をかけてノシノシと教室に入ってきたところだった。
「おう」
稲倉はあくびまじりに答えるとドシンと椅子に座った。まるで昨日のことなど覚えていないかのようだ。あるいは本当に覚えていないかもしれない。稲倉はまだ頬が腫れている梶谷を一瞥しただけで、すぐにどうでもよさそうに視線を逸らした。
梶谷はヒクヒクと引き攣った顔で何か言いたげにしていたが、結局口を開くことなく正面に向き直った。小心者の金魚のフンには勇気という物が無いようだ。
不思議だ。普段ならすでに一発殴られててもおかしくないのに、今日の俺は無傷だ。
噂のおかげで、俺への暴力が止んだらしい。俺と稲倉になんらかのつながりがあると知ってなお、手を出してくる者はいないようだ。稲倉のささいな行動で俺の生活がここまで変わるのかと思うと、俺は驚くと同時に馬鹿馬鹿しかった。
もっとも、いじめの種類が暴力から徹底的な無視へと変わっただけで、俺への差別は続いている。腫れものにさわるように、猿どもは俺の背後に稲倉の姿を見てとって避けていた。俺にすら「おまえ稲倉とどんな関係?」と訊いてくる者はいなかった。仮に訊かれたとしても「成績の良さを買われて家庭教師してます。たまにディナーにも誘われます」としか答えれないし、信じる奴はいない気がする。ともかく、体を痛めずに済むようになったのは大きな改善だ。
同日、一時間目。
教壇では今年六十歳になった日本史教師の細萱が、織田信長の天下統一について話していた。名将信長の壮大なドラマを、ご丁寧に面白みを一切排除してから、機械のように教えてくださっている。細萱がバラエティ番組の司会をやったら、視聴率0も夢じゃないだろう。
俺の頭には教科書の文字も細萱のお経も入ってきていなかった。五時間目のホームルームのことで頭がいっぱいだ。憂鬱さに胸やけがした。不安と緊張にモヤモヤとしていると、気がつけば五分や十分は軽くたっていた。時間の進み方が不自然に早い。
あっという間に日本史の講義も終わり休み時間になった。俺は眠くも無いのに腕を組んで机に伏せた。寝たフリをして目を閉じると、聴覚が研ぎ澄まされてくる。猿どもの耳障りな笑い声が鬱陶しい。
ああ、嫌だ嫌だ。修学旅行なんて。
今日の五時間目のホームルームは修学旅行の準備だった。いまいましい。修学旅行なんて旅行業界と学校の癒着じゃないか。風呂、飯、バス移動、自由時間、およそ考えられる憂鬱な要素を凝縮した最悪のイベントだ。
「それじゃあ、六人一組で班を作ってね」
沢木が悪魔の指令を出した。俺の背中を嫌な汗が流れた。席替えと同じ、いやそれよりもっとひどい。ここで決まったグループで沖縄を三泊四日も旅行しないといけないのだ。不良グループに入ったら最悪、体育会馬鹿のグループなら最低、虚勢で生きる媚び人間グループならワーストだ。どこに入る確率が高いかは分からない。どこからも誘われないから。
猿どもがわあっと一斉に動いた。どいつもこいつも、はみ出さないように必死だ。一人になるのがそんなに怖いか。あっという間にいくつかの猿軍団が出来上がった。
「ちょっと、誰か奥山くんを入れてあげて」沢木が困惑したように言った。
ああ、こういう同情が一番ウザイ。俺だってこいつらと旅行に行くなんてゴメンだっつーの。
「このクラスでの最後の思い出になるのよ。仲良くしましょうよ」
俺は座ったままこの状況に決着がつくのを待つしか無かった。精一杯涼しい顔を作ってみるものの、手はどんどん汗ばんで言った。時計を見た。まだ三分しか立っていない。急に時間の進み方が遅くなったように感じられた。
「あなた達はまだ五人ね」
沢木が窓際を指さした。稲倉や梶谷のいる不良グループだった。このババア、とんでもないジョーカーを引きやがる。
「奥山くんを入れてあげてくれない?」
「はあ?」男の一人が不満げな声を出した。「ありえねえだろ」
「せ、瀬尾くん。そんなこと言っちゃダメよ。奥山くんがかわいそうでしょ」
沢木の語気は弱弱しかった。瀬尾は不良グループの中でも実力者だ。体格は稲倉に劣っているが、顔はもっと趣味が悪い。性格が顔に出るという説を、瀬尾の惨忍な顔を見ると信じることができる。沢木が歯が立たないのも当たり前だ。
「そいつと一緒になんて恥ずかしくて歩けねえし」
「でも。六人一組だから」沢木がほとんど泣きそうな声で言った。
「あーウゼエ」瀬尾が吐き捨てた。「だったら、中村、おまえこっち来いよ」
「俺かよ」中村が嫌そうに答えた。体育会系グループの一人だ。豪胆な性格は不良グループからもウケがいい。中村はギロッと俺を睨むと不良グループの方へ行った。
「これで六人」瀬尾が言った。「で、オタク山はあっち、それでいいだろ」
「え、まあ、それならいいけど」沢木が言った。結局この女は形だけでも丸く収まればいいと思っているのだ。体育会系グループにできた一枠に俺が入ったところで、何の解決にもなっていないのに。どこに入っても俺の扱いは同じなのだ。
瀬尾が話している間、稲倉は何も言わなかった。梶谷はチラチラと稲倉の動向を窺っていたが、反応が無いのを見ると瀬尾と一緒になって俺を拒否し始めた。あんな小物っぷりで不良なんて笑っちゃうな。
「俺だって、おまえらなんかと一緒なんてありえないから」
気がつくと心の声が口をついて出ていた。
教室内がシーンとした。稲倉だけが愉快そうにクックッと含み笑いをしていた。
ざわざわと猿どもがどよめき始めた。
「いまのオタク山が言ったのか?」
「なんかキャラ違くね?」
俺は席をたって雑音の中を体育会グループが集まる場所へと移動した。運動バカたちは俺を汚い者でも見るかのように一瞥したあと、完全に無視するように決めたようだった。稲倉と俺の噂のせいで、悪態をつきたくてもつけないのだろう。
俺は仕方なく運動バカたちから一つ離れた椅子に座った。特にすることもなく、沢木の視線に耐えながら時間が過ぎるのを待った。隣でバカたちが笑いあっているのが俺をイラだたせた。一秒が一年に感じられた。
「おまえ、行くつもりなわけ?」
「え」
唐突な質問に眠気でボンヤリとしていた意識が覚醒した。危なかった。稲倉の部屋のフローリングによだれを垂らすところだった。
「なに?」俺が訊き返した。
「だから、修学旅行行くつもりかって」
「行かないなんて選択肢はないだろ」
俺が言うと稲倉はシャーペンを問題集の上に放り出し、両手を広げて体を伸ばした。
「おれは行かねえぞ」
「え」俺が目を丸くした。
「だから、修学旅行」
「あ、いや、それは分かったけど。なんで行かないの?」
稲倉の言い出すことはいつも予想がつかない。全くこいつと話すと倍は疲れる。こいつ以外と喋らないから比較対象は無いけど。
「なんで行かないかって?」
稲倉が眉をよせて考え込んだ。なんでおまえが考え込むんだ。自分のことだろ。
「行きたくねえからだな」
結局、稲倉からはなんの答えにもなってない返答が返ってきた。ポットに「ポットかよ!」と突っ込みを入れるのと同じだ。でもサンサンと輝くビーチではしゃぐ稲倉より、自分の気持ちの赴くまま修学旅行の欠席宣言をする稲倉のほうが受け入れやすかった。こいつはそういう奴だ。
「おれだって、行きたくないけどさ」俺が息を吐いた。
「じゃ、行かなきゃいいだろ」
「簡単に言うなよ」俺はムッとした。「そんなことしたら、親がどう思うかわからないし」
「まだいじめられてること言ってねえのか?」
「ああ」
「バレてるだろ」
「それはない」
うちの親は鈍感なのだ。息子が制服を吐瀉物で汚して帰ってくるのは体が弱いせいだと思っているし、気づかれないように体の傷は隠し続けている。このまま俺がいじめられていることなんて知らせない。同情はごめんだ。
「休めよ。親に見栄はって行くことねえだろ」稲倉が言った。「そんで、おれと北海道に行こう」
北海道? 稲倉と二人で? どうも話がぶっ飛び過ぎている。どういう思考回路してんだ。
「意味がわかんない」
「だから、修学旅行に行くフリしておれと北海道に行けばいいんだよ」
「いや、だから、おまえと二人で旅行する意味がわかんないの」
「そんなら、学年全員で旅行する意味の方がわかんねえだろ」
たしかに。
じゃなくて、それとこれとは違う話しだ。稲倉の妙なペースにいつの間にか巻き込まれてしまう。
「行こうぜ。あいつらと沖縄よりよっぽどいい」
稲倉の目は真剣だった。薄々気づいていたが、こいつはあのクラスが、あの学校が嫌いなようだった。一番強い者であることと、幸せであることは違う事象なのだろうか。
「考えとく」
つい気圧されて言ってしまった。押されて押されて土俵際に追い詰められ、そのまま寄り切られたようだった。稲倉がニッと笑った。何かを企んでいる顔にしては爽やかすぎる笑顔だった。
しかし修学旅行サボリ計画はあっさりと佳境を迎えた。
沢木の馬鹿が「修学旅行参加確認証」を配ってきたのだ。参加するかしないか書いて親のサインをもらい、参加しない場合はその理由を書かなければならなかった。神様、どこまで俺を追いつめる気ですか。
「とりあえず『行く』にして親のサインもらえばいいだろ」
稲倉がなんでも無いように言った。稲倉の部屋は、すっかり俺たちの歓談スペースになっていた。
「いや、それで当日休んだらきっと親にも連絡がいくよ」俺が反論した。「それに冷静に考えてみれば中学生二人が平日に旅行してたら補導されるかもしれない。それで親に電話されたらアウトだ」
「親が、親がってさあ、おまえマザコン? ファザコン?」
「どっちでもないよ」
ただ、どうしても親には知られたくなかった。心配をかけまいとしているんじゃない。あんな能無しの親に憐れみの目で見られるなんて俺が耐えられないのだ。
「じゃあ、工作するしかないな」稲倉が不敵に微笑んで俺にペンを渡してきた。
「欠席?」
沢木が面食らったように言った。俺が渡した参加確認証を疑わしげに見つめている。
「はい、経済的な事情で」
俺は出来るだけ自然に聞こえるよう努力して言った。心臓がバクバクいっていた。俺の目がつい参加確認証へと向く。親のサイン欄には、紛れもなく俺が書いたサインがあった。
あんまりマジマジ見るな。筆跡は変えたつもりだが、うまく書けた自信は無い。真似ようと意識すればするほど、自分で書く親の筆跡は作り物くさい出来となった。
ええい、キョドるな。堂々としていれば犯罪はバレないものだ。
「わかりました。残念だけど、仕方ないわね」
沢木はまだ少し不審に思っているようだったが、諦めたように言った。よっしゃ、俺の勝ちだ。教師一人だますのなんて軽いもんだ。この女だって俺が来ない方が厄介ごとが無くなってありがたいだろう。
ああ、こうもあっさり憂鬱が解消されるとは。行動力って大事だな。
前言撤回しよう。俺の考えが甘かった。
俺が家に帰ると、お袋が険しい顔で待っていた。
「たくちゃん、ちょっと話があるの」
これは、バレたな。沢木のやつ、告げ口しやがった。
俺とお袋はリビングのソファに向かい合って座った。いつもすぐに自分の部屋へ向かっていたから、この真っ赤なセンスの悪いソファーに座ったのも久しぶりだった。お袋の顔をまともに見たのも。
「今日、先生から電話があって、たくちゃんが修学旅行を欠席するって言ってるって」
お袋が吐息まじりに言った。急に老けこんだようだった。白くなりはじめた髪と顔中のしわが存在感を増したように思え、痩せた体は掴めば折れてしまいそうだった。
「ああ、うん、だってほら、おれ勉強したいし。大金払って四日間も遊びまわるなんて馬鹿みたいじゃん」
訊かれてもいないのに言い訳が出た。喉がカラカラに乾いていた。まばたきもいつもより多い。
「勉強?」お袋が目を細めた。「先生ね、経済的な事情が欠席の理由だって」
「だからさあ、勉強したいから、なんて理由じゃ認められないだろ? ちょっと嘘ついたんだよ」
俺は笑いながら言った。冗談っぽく聞こえるといいな。でも口元が引き攣ってしまった。
「お母さんのサインまで嘘ついて書いたの?」
「うるさいな、だから悪かったって」
ああ、イライラする。大人は何も分かっていない。
「たくちゃん」お袋が静かに言った。ソファーを立ちあがって俺の方へ向かってきた。顔が青ざめている。これは怒鳴られるな。まあ別に構わない。こんな間抜けな親に怒鳴られたところで痛くもかゆくもない。
でもお袋は俺を叱りつけたりしなかった。
代わりにギュッと俺を抱いた。
「いじめられてるんだって?」
ガラガラと自分の立っている足場が崩れていく気がした。頭の中が真っ白になる。
知られてしまったのだ。
ちきしょう。
ちきしょう。
こんなウスノロの親に同情されるなんてまっぴらだ。
「沢木が言ったの? あいつ勘違いしやすいんだよな。おれ、いじめられてなんかないよ。まあ、たまにふざけてからかわれることはあるから、それをいじめだと思ったんじゃないかな」
声が震えた。これじゃ説得力が無い。沢木め、親にチクって俺の助けになるとでも思ってんのか。むしろ不快なんだよ。
お袋が手に込める力を上げた。俺の体が温かい感触に包まれた。
「違うの。先生は、修学旅行の出欠について連絡してきただけよ」
――え?
「ごめんね。もうがんばらなくていいから」
お袋が優しい声で言った。
「だから、泣かないで、たくちゃん」
――あれ?
俺の頬を生温かい液体が伝っていた。口の中がしょっぱい。鼻をすすってもすすってもズビズビと鼻水が垂れてくる。
「お袋」
気づいてくれたんだな、と言おうとして先が言えなかった。喋ろうとしたら涙をこらえる力がゆるんでしまって、嗚咽で言葉が出せなくなってしまったのだ。お袋の腕の中で、俺はしゃくりあげて泣いた。中学に入ってから、俺が泣いたのは始めてだった。
ああ、俺は本当は気づいてほしかったんだ。傷ついた心に共鳴して欲しかったんだ。プライドを捨てればこんなに楽になれる。
「修学旅行の日、おれ、北海道に行くんだ」
目をこすりながら俺が笑った。
「北海道?」お袋は驚いたように俺を見つめた。「一人で?」
「ううん」俺が首を横に振った。「友達と」
お袋は今日はじめて笑顔を浮かべた。
「そう」
「うん」
「そうなの」
「うん」
お袋はまた泣きはじめてしまった。今度のは悲しみの涙では無さそうだった。
読んで頂きありがとうございます。
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