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クライム・トゥ・ザ・ハッピー  作者: ライスサワー
2/5

底辺と頂点2

縦書き表示推奨です。

 明日になったら宇宙人が地球を侵略しにきているかもしれない。淡い希望を抱いてベッドに入ったが、朝になっても東京タワーは折れていないし、国会議事堂は火煙をあげていないようだった。

 それでも台風十三号が接近しているとお天気お姉さんが言っていたので、これは強烈なスラッガーが来たぞと期待していた。が、十三号はビッグネームな割に成績不振で、電線をゆらし畑を湿らしただけで姿を消したようだ。十三号どころか一号ホームランすら打てていないじゃないか。

 ようするに俺は今日も学校に行かなければならないらしい。


 朝は一日の中で最も憂鬱な時間だ。俺は望んでもいないのに、一体誰のためなのか、今日も学校に向かってチャリを漕いでいた。憎らしいほどの快晴に反比例して、俺の気分は曇天だった。

――俺に勉強を教えてくれないか?

 昨日の出来事を思い出す。悪の枢軸、不良どもの大将である稲倉が、俺に勉強を教えろと言ってきた。昨今の嫌がらせ方法はそのラインナップをどんどん増やしている。俺は新製品を端から売りつけられるかのごとく、あらゆるパターンの嫌がらせを経験してきたが、家庭教師になれと言われたのはさすがに斬新すぎた。稲倉の考えはサッパリわからない。

 勇気と元気を出そうと思って、俺は朝らしくラジオ体操の歌を口ずさんでみた。どうもしっくりこない。短調に編曲してもう一度歌ってみた。うん、俺らしい。歌詞の中の「希望」を「絶望」に変えたら、もう俺のテーマソングにしか思えなかった。


 

 チャリ置き場には稲倉が待ち伏せしていた。

「よう」稲倉が手をあげて言った。

 一応周りを見まわしたが、俺以外の人間はいなかった。

 ひょっとすると稲倉は霊感が強くて、俺には見えない未亡人の霊に挨拶したのかもしれない。それか待ち合わせ場所で彼女と会ったときの挨拶の仕方を練習しているとか。なんでもいいから俺に言ったんじゃありませんように。

「おい、おまえだよ」稲倉がチッと舌うちをした。

 やっぱりそうか。

「あ……あの」挨拶されたからには何か返事をしなければ。昨日、稲倉の家を黙って出ていったことに機嫌を悪くしているのかもしれない。ああ、ちゃんとあのとき、一言いってから帰れば……。

 お…お…。

「お、おじゃましました」

 無論、俺は「おはようございます」と言うつもりだったのだ。焦っていたんだから、しょうがない。知らない人をお母さんと呼ぶことだってあるじゃないか。

「はあ?」稲倉が眉間にしわを作った。

「あ、あの、ほら」俺が目を泳がせた。「昨日帰るとき言ってなかったから」

 何を馬鹿なことを言ってるんだ、俺は。舐めてません、舐めてませんからどうか蹴りは一発だけにしてください。しかし、俺が受け身の体制をとっても、稲倉は攻撃してこなかった。

「なんだそりゃ」

 稲倉はプッと噴き出した。だんだんしかめっ面が崩れていって、最後には口を大きく開けて笑いだした。稲倉はもっと悪者らしくゲッヘッヘと笑うのかと思いきや、意外に爽やかにアハハと笑った。

 稲倉のこんな顔を見るのは初めてだ。普段の険しい表情は、「こいつがうちの組の若頭です!」と言われても「ああ、やっぱりね」という感じなのだが、顔をくしゃくしゃにして笑う姿は中学生の男子に見えた。

「あのさ、俺がおまえに家庭教師頼んだこと、誰にも言うなよ」

 稲倉は笑いながらそう言うと、何事も無かったかのように去っていった。

 俺は般若がフランダースの犬を見て号泣しているところを目撃したような気分だった。あるいは清純派アイドルが鼻くそでもほじっているところを見たような。とにかく、珍しいものを見てしまった。

 言い知れぬ爽やかな風が俺の心を吹き抜けた。そういえば、誰かに嘲笑されることはあっても、笑いかけられたのは久々だ。俺はチャリの前輪の鍵と後輪の鍵、それからサドル盗難防止のストラップがちゃんとついているのを確認して、昇降口へと向かった。

 試しにラジオ体操の歌を原曲通りに歌ってみた。さっきよりは俺に馴染む気がした。



 バシャっと俺に水がかけられた。尿意が我慢できずに、教室から一番近くのトイレに駆け込んだのがまずかった。トイレという閉鎖的な空間が、嫌がらせの温床だってことは分かっていたのに。

「うは、おまえビビッて漏らしちゃったのか?」

 男がニヤニヤと笑った。たしか海老沢とか言う奴だ。海老というよりはゲッ歯類に近い顔をしている。

 俺の股間からポタポタと水が滴り落ちた。断じて言うが俺は漏らしていない。用を足し終わったあと、このビーバーが入ってきて、俺の股間に水をかけたのだ。

 馬鹿馬鹿しい。低俗な遊びだ。俺は黙ってトイレットペーパーを引き出し股間を拭いた。昨日もこんなことをしていた気がする。俺のトイレットペーパー使用量は町で一番かもしれない。

「なんか言えよ」

 わき腹に鈍痛が走った。ビーバーパンチが当たったのだ。殴られるくらいなんてことない。おまえのその飛び出た前歯を突きたてられなくてよかったよ。

 黙ったままの俺をビーバーは気に入らなさそうに一瞥すると、唾を吐きかけて廊下へ出て行った。


「おい、あいつのズボン」

「うげ、マジかよ」

 ヒソヒソと話す猿どもの間を通って、俺は自分の座席へついた。

「オタク山くん、漏らしちゃったのお?」

 隣の席の田中が口元を歪めて言ってきた。アホに関わりたくない。俺は何も言わずに次の授業の教科書を鞄から出した。教科書は水につけられたり踏まれたりしてボロボロだったが、泣きごと一つ言わずに俺の成績を上げてくれていた。

「小便くせえぞ! オタクやまあ!」

 後ろの方から千切られた消しゴムが飛んできて俺の頭に当たった。

 そいつはおかしいな。俺は漏らしてないんだから、おまえの嗅覚がおかしいんだろ。耳鼻科行ってこい。

「くせえくせえ」

「あ、マジだ、臭うぞお!」

 猿どもが笑いながら鼻をつまんでみせた。そうかいそうかい。そんなに臭うならおまえら猿の誰かが漏らしたんじゃないのか?

 俺はじっと教科書を見つめた。猿どもの笑い声で内容はまるっきり頭に入ってこなかったが、そうするしか無かった。教師はまだか。もう授業開始時間だぞ。あと一分以内に来なかったら教育委員会に訴えてやる。

 俺はチラリと窓の方を見た。稲倉は窓際最後列、王者のイスに座ってつまらなそうに窓の外を見ていた。俺の心にモヤモヤとした気持ちが流れた。

――なんで何も言ってくれないんだよ

 稲倉がふっと教室に顔を戻したとき、俺と目があった。慌てて教科書に視線を戻す。俺も落ちぶれたもんだ、誰かに縋るなんて。だいたい稲倉は不良たちの親玉じゃないか。

「オタク山、てめえさっきから何こっち見てんだよ!」

 窓際の猿の一匹が吠えた。あれは稲倉の金魚のフン、梶谷だ。誰がおまえなんか見るか。俺が見てたのは猿山の大将の方だっつーの。ついでに言うなら俺はその大将から、ディナーに誘われた男だぞ。

「なにニヤニヤしてんだ!」梶尾が青筋を立てた。「黙ってねえでなんとか言えや!」

 金魚のフンが喋るなんて大発見だ。喋るウサギとかなら需要もあるだろうに、神様はなぜ金魚のフンに言葉を与えたのか。

「なにを騒いでるんだ。静かにしろ」

 ようやく国語の教師がやってきた。このゴリラ教師も、目が節穴の使えない奴だが、一応生徒たちを黙らせるぐらいの迫力は持っている。怒って座席を立ち上がりかけていた梶谷は、舌うちをして席に座りなおした。

 やっと休み時間が終わったか。ゴリラの授業遅刻はギリギリ一分程度だったので、教育委員会へ訴えるのは憂慮してやることにした。

 俺の脇は、冷や汗でびしょびしょだった。


 

 今日もまた、俺は悪の中枢、稲倉の部屋に来ていた。もつれる舌を必死に動かして、稲倉に二次関数問題の解答へ導くのが今日の仕事だ。誰か物好きな人が仕事を代わってくれるのを切に願う。時給ゼロ円で交通費も出ないが、刑務所スタイルの部屋で極悪死刑囚みたいな男と二人っきりになれるのだ。マイノリティの中の少数派の分岐小隊みたいな嗜好の持ち主にはたまらないはずだ。

「できたぞ」稲倉が得意気に言った。

 よし、一区切りついたので休憩させよう。たとえ答えが「2」になるはずの問題になぜかアルファベットで「Y」と解答していたとしても、一区切りは一区切りだ。

「休憩しませんか?」

「その前に、はやく答えあわせしろよ」

 俺は誇らしげに書かれた「Y」の文字に盛大にバツをつけた。稲倉が口を曲げてむくれた。

 俺は例のきれいな女性が運んできたジュースに口をつけながら、解答をみて首を捻っている稲倉の姿を見つめた。こいつはどうして勉強をやる気になったのだろう。興味は俺の穴という穴から溢れだすほどあるのだが、訊いて機嫌を損ねられては嫌なのでキュッと閉めている。ついでに教えても教えても理解しないこの生徒に、おまえは元が馬鹿らしいから無駄なことはしない方がいいよ、とでも言ってやりたいのだが、これも口に出したら殺されそうなので心の中に閉まっている。

「なんだよ?」稲倉がノートから顔をあげて俺を睨んだ。

 俺はなんでもないと首を横に振った。

「おれだろ」稲倉が言った。

 だから四文字で全てを伝えようとしないでほしい。それでもだんだん稲倉語に慣れてきてはいるが、今回ばかりはさすがに分からなかった。

「なにがですか?」

「梶谷じゃなくてさ。おれだろ。おまえが見てたの」

 どうやら国語の授業の前のことを言ってるらしかった。俺はどう反応していいか分からずキョドキョドとした。ほんとにこいつの考えていることは分からない。

「おまえのあの視線さ、すげえウザイ」

――え?

 あまりにも抑揚なく言うので聞き流しそうになったが、稲倉は今、俺を中傷したようだった。背筋に悪寒が走った。なんだか知らないが俺は稲倉の機嫌を損ねていたようだ。ああ、ついに今日がXデーか?

「むかつくんだよな」稲倉がキョトンとしている俺に念をおすように言った。「あれって、いじめられてるところを助けてほしいって目だろ?」

 胸がズキンと痛んだ。

 その言葉を言うな。それは俺の地雷だ。

「違います」俺が声を震わせた。

「いや、そういう目だったよ」

 違う、その話じゃない。俺は拳をギュッと握った。汗ばんだ手に爪が食い込んだ。

「おれは、いじめられてなんか、ないです」思いがけず反抗的な声が出てしまった。

「は?」

 俺はずっと「いじめ」という言葉を避けてきた。その言葉は「差別」とか「嫌がらせ」とかと違って、俺のプライドをボロボロにしそうだったからだ。いじめられている、という認定は、俺が暴力や中傷を笑い飛ばすスタミナを根こそぎ奪う気がする。だから、俺はいじめられてない、そう思ってきた。

「またプライドか」稲倉が言った。こいつは数学の問題は解けなくても人の心理を読むのはうまいようだ。獣に近いから野生の勘が働くのだろう。「おまえがいじめられるのも、そのくだらないプライドのせいだろ」

 カチンときた。稲倉に対する恐怖よりも、怒りの方が上回った。こんなことは十年に一度、あるかないかの大事件だ。

「知った風な、口を、きくな!」俺は興奮して、相手が稲倉であることも忘れて怒鳴っていた。しかし稲倉は俺の怒声になど眉ひとつ動かさなかった。

「おまえはさ、自分以外の人間は全員クズだとでも思ってんだろ。口に出さなくても態度でバレバレなんだよ。黙りこくって腹ん中で他人を見下す、そういう態度、すげえ腹立つ」

「ふざけるな!」息が荒くなった。こいつ、珍しくペラペラ喋ると思えば好き勝手いいやがって。

「人を侮蔑しているのは、どっちだ! お、俺を、笑ってるのは、誰だ!」

「だからさ、それはおまえがあいつらを馬鹿にしてるからだろ」稲倉が冷静に言った。

 その言い方がまた癪に障った。こいつは加害者の親玉のくせして、被害者に説教垂れるつもりか?

「最低だ」俺が吐き捨てた。「おまえが俺と関わりあるのを隠して、さ、差別を傍観してるのだって、ホントは仲間に見捨てられるのが怖いんだろ。お山の大将が、聞いて呆れるよな」

「あ? おい今何つった?」稲倉の語気が荒くなった。「勘違いしてんじゃねえぞ。俺とおまえは別にダチでもなんでもねえ。今言っただろ、俺はおまえがムカツクんだ。助ける義理なんかそもそもねえんだよ」

「だったら、お、俺以外のやつから勉強は教わるんだな!」

 俺はカバンを引っ掴むとドタドタと部屋の戸へと向かった。

「おい、待てよ!」

 稲倉が俺を呼びとめた。鋭い声に条件反射で立ち止まってしまった。

「おまえ、そのままじゃずっと独りだ」稲倉が言った。「頭のレベルがどうとかじゃねえんだよ。おまえが殻に閉じこもって人を馬鹿にし続けるかぎり、高校行こうが社会にでようが孤立するぞ!」

 うるさい。

 俺は何も言わずに部屋を出た。稲倉のクソ野郎。おじゃましました、なんて死んでも言うか。

 やっぱり今日はXデーだった。



 部屋のベッドに沈み込み、俺は深い溜息をついた。

 稲倉には失望した。結局あいつも、「いじめられている人にも原因がある」とか言っちゃうタイプなのだ。

 背広を着たおっさんがテレビ画面の中で、「いじめっこもまた、可哀そうなんですよ」とか「いじめられる方にも落ち度がありますから」とか訳知り顔で言っているのを見ると殺意すら湧く。俺はテレビが十万円以下だったら間違いなく液晶を砕いていた。幸いうちの大型テレビは高級品なのでアホな自称専門家のせいで壊されずに済んだ。

 あいつらは何も分かっていない。いじめられるのに明確な理由なんて無いのだ。

 俺が人を見下した態度をとっている? ああ、とっているとも。当然じゃないか。あんな猿軍団と俺じゃ釣り合わない。あいつらのどこに褒めるべきところがあるんだ。それに逆に訊きたいね、人を見下している人間なら、殴っても蹴ってもいいのかって。

 あの悪魔どもは結局、俺に難癖をつけてストレス解消のサンドバックにしたいだけなのだ。そして差別を続けるうちに元々トロい頭がさらに麻痺して罪悪感を感じなくなる。最低じゃないか。


――俺は悪くない。悪いのは全部あいつらだ。

 俺は部屋に置いてある空のアルミ缶を手にとった。クラスメイトの姿を重ねてグッと缶を握った。グシャリとすぐに缶はつぶれた。少しすっきりした。部屋の隅へとつぶれた缶を放り投げるとカラーンという音がした。俺の部屋の隅には、奴らの死骸が山のように積み重なっていた。



 

 俺はまたもチャリ置き場で待ち伏せされていた。二日連続で登校待ちされるなんてちょっとしたアイドルだ。相手が男じゃなければもっといいんだけど。

「よう、オタク山くん」

 相手が梶谷じゃなければもっといいんだけど。

 梶谷は二人の窓際族を引き連れてニヤニヤと笑っていた。猿が三匹、気色悪い笑みを浮かべているのは、放送コードに引っ掛かりそうなぐらい醜い光景だった。モザイク忘れてますよ。

「昨日は俺にガンとばしてくれちゃってありがとな。放課後お礼しようと思ったらすぐ帰っちゃうんだもんなあ」

 梶谷が言った。俺にとってのチラ見はこいつにとってのガン飛ばしらしかった。どんだけガラスのハートなんだ。というか俺はそもそもこいつを見ていたわけじゃないので、しつこい上にとんだ勘違い野郎である。

「来いよ」

 梶谷が顎をしゃくった。ついて来いという意味らしいが、俺には顎の下がかゆくなったようにしか見えなかった。精一杯虚勢を張っているのが丸わかりで滑稽だ。


 連れてこられたのは技術・図工棟の隣のゴミ捨て場だった。なるほど、ここなら掃除の時間でも無い限り人が来ない。猿にしては考えたものだ。

「おい、おまえら押さえてろ」

 梶谷が指示を出すと男の一人が俺の体をホールドした。もう一人は技術棟の端で見張りをしている。ちゃんと役割も割り振れているようだ。

 梶谷が手を組んで指の関節をポキポキと鳴らした。ヒョロッとした梶谷がそれをやると真剣に骨折の心配をしたくなる。威圧のための動作だろうが完全に逆効果だ。

 腹に梶谷のパンチが入った。喉がつまる。思ってたよりキツイ。この野郎、筋力ないからって骨で直接殴るのはやめろよな。

「なんだよその目は」梶谷が眉を上げた。「馬鹿にしてんのか?」

 殴るスピードがあがった。二発目がいいところに入った。胃液が込み上げてくる。

 吐いたら暴力が激しくなるだけだ。俺は学習する男なのだ。懸命に口を閉じて嘔吐しないよう努めた。

「ぶはっ」

 まったく、梶谷は空気の読めない奴だ。

 馬鹿の一つ覚えでまた腹を殴ってきたので、俺はこらえきれなくなって口の中の液体を勢いよく噴き出してしまった。

「ちょっ! てめえっ!」

 俺の吐瀉物を真正面から浴びて、梶谷はキレたようだった。

 腹に強烈な一撃を感じた。目から火花が出そうだ。視界が霞む。何度も、何度も殴られた。俺の腹はサンドバッグだから、梶谷の怒りがぶつけられるのだ。

 口の中に鉄のような味が広がった。血の味だ。

――もう強がる気力もねえや。

 奇妙な虚脱感と共に、場違いに頬が緩むのを感じた。

 誰か、誰か救急車よんでくれ。

「梶谷! それ死ぬって!」

「おいおい、やりすぎだろ」

 気がつけば俺は地面に横たわっていた。梶谷たちの声がする。さすがに不安になったのだろうか。俺は腫れあがった目を薄らと開け、クラスメイトの姿を見た。

 全員が笑っていた。

 何が可笑しいんだろう。こいつらは狂っている。だから俺はこいつらを猿と、悪魔と呼ぶんだ。人間がこんなことできるわけがない。

「クソ野郎!」俺は気力を振り絞って声を張り上げた。

 黙っているだけのはずの俺が叫んだことに、梶谷は面食らったようだった。

「ああ?」梶谷たちの笑いがやんだ。「なんつった?」

「おまえらみたいなクズが、俺を殴るんじゃねえ!」

 一瞬の沈黙があった。

 言ってやったぞ。

 妙な解放感あった。痛みを感じなくなって、不思議と笑顔になった。

 もういいや、ここで死んでも。

 ドカッと鈍い音がした。梶谷が俺にとどめを刺す音だろうか。それにしては感触が無い。

「うわあああ」

 男たちが悲鳴と共に走り去っていく。

 再びドカッという鈍い音がして、俺の目の前で梶谷が吹っ飛んだ。

「な、なんで……」梶谷が尻もちを突いたまま、頬をさすって言った。顔が驚愕のあまり歪んでいた。「なんで俺を殴るんだよ、稲倉さん!」

 俺の前に稲倉が仁王立ちしていた。

 数学の問題集に苦闘する稲倉とはまるで別人だった。なんだかいつもよりデカい気がする。体のサイズを自由に変える機能が備わっていないのなら、ボスとしてのオーラがそう見させるのだろう。

「終わりだ」稲倉が言った。相変わらずの四文字。稲倉語だ。何が終わりなのかよく分からない。でもその四文字はやたらと心強かった。

 梶田は不満気な顔をしてすごすごと立ち去った。

「大丈夫か?」稲倉が俺を見下ろして言った。かっこつけすぎだ。

「なんで助けてくれたの?」俺が消え入りそうな声で言った。

「聞こえない」

 こいつは鬼か、天然か。

「なんで助けてくれたの?」大きな声を出すと腹が痛んだ。「俺のこと嫌いなんだろ?」

「ああ、まだ嫌いだな。むかつくし」稲倉が答えた。「でも一歩前進したみたいだから、手助けしてやってもいいかと思ってな」

「前進?」

「んや、まあ、自覚が無いならいい」稲倉が言った。

「余計に気になるじゃねえか」

「それより今のは貸しだから、家庭教師よろしくな」稲倉がいけしゃあしゃあと言った。

 そうきたか。意外にしたたかな奴。

「ところで稲倉はおれが殴られてるところを、最初から黙って見てたのか?」俺がムスッとして訊いた。

「ああ」稲倉がしれっと言った。「途中まで助けるつもり無かったからな」

「死ね」

「おまえ、予想はしてたけど、本音になると途端に口わりいな」


 俺は稲倉に支えられて歩いた。ホームルームには遅刻してまで出る気が起きなかった。第一、こんなナリだ。保健室に行くのを俺が頑なに拒むと、稲倉はトイレの個室に俺を放り込んだ。そして「そこで休んでろ、唾でもつけときゃすぐ治る」と言い残して稲倉はトイレから出て行った。

 俺もおまえのこと嫌いだけど、ちょっと言いたいことが分かったよ、稲倉。もちろん、唾うんぬんの話じゃないぞ。

 俺は壁にもたれかかって痛みが引いていくのを待ち続けた。


少し手直ししました。ご感想いただけると嬉しいです。

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