明けの明星
お盆になると、毎年、田舎のおばあちゃんの家に帰省していた。父方の祖母で、ふくよかな顔つきの、しっかりと伸びた背が印象深い、優しく良いおばあちゃんだ。私としても、訪ねるとお小遣いまでくれるおばあちゃんに会いに行くのは嫌じゃないし、北の方なのもあって、夏の暑さを避けるにも丁度良い。でも、送り盆の日、顔も知らないおじいちゃんや、曾祖父母の墓参りに行くのは、どことなく違和感があって嫌いだった。完全な他人の墓に手を合わせているのと、私にとっては、ほとんど変わりなかった。
「ここちゃん、お墓参りに行こうか」
深い皺の刻まれた顔に笑みを添えて、おばあちゃんが言った。おばあちゃんは私のことをここちゃんと呼ぶ。ずっとそうだった所為もあってか、そこに違和や不快感は無かった。本当は嫌だけど、私は大人しくその言葉に従った。私の中でこれは最早通例行事だし、我儘を言って、わざわざおばあちゃんを困らせる気も無い。サンダルを履いて、懐中電灯を手に先導するおばあちゃんの後をついて行く。おばあちゃんの後ろに私、その後ろに父と母が並んで、言葉無く夜道を歩いた。
小さな橋を越えて墓地の前に着くと、おばあちゃんは立ち止まって、懐から取り出した虫除けスプレーを私に寄越して来た。受け取って、むき出しの手足と、それから首回しに吹きかける。冷たい霧がすうと肌に染み込んできて、心地よかった。後ろについていたお母さんにスプレーを手渡して、さっさと墓地に入って行ってしまったおばあちゃんの後を追う。おばあちゃんの持つ懐中電灯の明かりを頼りにしないと、前方の様子さえ満足に把握できないくらいの、そこは暗闇だった。真っ暗な夜の墓地は、それだけで気味が悪い。幼い頃は、ここに来るだけでべそをかいていたらしかった。湿度の高い、ベタつく風が吹いて、うすら寒い感覚が背筋を撫でた。何度来ても、本当にぞっとしない。この暗闇も、まごうことなく、墓参りを嫌う要素の一つだった。昼間に来ればいいのにとこぼした事もあるが、おばあちゃんは笑って「少しでも長く、こっちに留まっていて欲しいからね」と言った。それ以上は、何も聞けなかった。
バケツに水を汲んで、私達は親子の姓でもある恵比寿家の墓の前に立つ。柄杓ですくった水を、おばあちゃんは数回、墓石にかけた。ようやく追いついてきたお母さんとお父さんは、おばあちゃんから受け取った柄杓で、隣の、一回り小さな墓に水を浴びせた。それが誰の墓なのか、私は知らない。お母さんはいつもと違う、どこか弱々しい声音で、
「昔はね、難しかったのよ」
とだけ言った。おばあちゃんも、普段気の良いお父さんさえも、神妙な表情を浮かべてい
て、私は酷く戸惑った。受け取った数珠を左手に掛けて、ぱっとしない気持ちのまま、手を合わせた。
お参りが終わると、お母さんの雰囲気は幾分か元に戻っていた。渡されていた数珠を返す。
「お墓を出るまで持ってなさい。ついて来ちゃうから」
「ついて来るって、幽霊?」
「そうよ。困るでしょう?」
「いないよ、そんなの」
軽く笑って、私はお母さんの下げていた鞄に、数珠を滑り込ませた。「もう……」だなんて呟いていたけど、お母さんも少し、微笑んでいた。なんとなく、その笑顔に安堵した。
お盆が過ぎると、夏休みはあっという間に終わってしまった。宿題に追い込まれ、なんとか終えて登校した始業式の日は、疲れていたせいか、どことなく肩が重かった。
何かに憑かれているかのように、重かった。
*
戸惑う、という言葉の語源を、私は知らない。けれど、今のこの心境を的確に表そうとするならば、それが正に、戸惑うだった。私は戸惑っていた。
「だからつまり、私は幽霊で君は憑かれたって事だよね」
うんうん、と、一人頷く彼女。顔立ちが何処か私に似ているような気がするその人は、自称する通り、というか、まさに、と言うべきか額に逆さのハンペンみたいな三角形を張り付けて、幽霊のような出で立ちだった。いっそ優雅とも表現できる感じで、宙に浮いている。
「んー、あー。まぁ、君のおかげってヤツだよね、私にこの顔があるのは。とにかく、当分現世に居させてもらうつもりだから、よろしくベイベー」
びしっと(口で)効果音まで出して、清々しい程に晴れやかな笑顔にウィンク付きで、幽霊は言い放った。言い切った。文字通り、地に足の着いていない台詞だった。
「幽霊ってもっと皆テンション低いのかと思ってました……」
口をついて出てきたのはそんな台詞で、どうやら、私までふわふわ、思考が正常に働いていないらしい。私のおかげ、という言葉から察するに、相似した顔つきついては、きっと憑依した人間の顔に似るとか、そういった理由なのかもしれない。それにしたって、自分と似た存在と面と向かって話し合うのは、相当な違和感を持たされるものだった。幽霊だなんて言うのだから、尚更。
「どうして、私に憑いたんですか?」
ようやっと、聞きたかったことを口にする。その質問に対する返答は、酷く簡素なものだった。
「お数珠つけて無かったから!」
「……」
お母さんの言葉に従わなかったことをこれほど後悔したことは無いだろう。それにしたって適当極まりないワケもあったものである。妥協して納得、質問を続行する。
「何で今になって出てきたんですか?」
九月十三日。もう、通っている公立中学の新学期が始まって久しかった。丸ひと月ほど、この幽霊は私に潜伏していたことになる。何故、どうして。
「寝過した!!」
大仰に両腕を広げて、彼女は叫んだ。幽霊が寝過していた。そりゃあ私だってテンプレートな幽霊の存在を信じていたわけじゃないけれど、イメージとか、根こそぎ破壊されていく思いだった。失敗したジェンガみたい。大崩落。
それじゃあ、最後に。
「どうやったら、成仏するんですか?」
別にこの幽霊に対して、怖いとか嫌いとかっていう感情があるわけでは無いけれど。でも私には、やらなきゃいけない事があるから。あまり長居させては上げられない。
「んー、そうだね」
彼女は、一見、というより一聞、感じの悪い質問とも取れるそれを聞いて、しかし、腕を組んで悩んでから、笑顔のままに、こう答えた。
「したいことを終えたら、かな」
*
中学二年生である私が通う中学は、かなり一般的な、良くも悪くも、普通の中学校だった。学問スポーツ共に平均レベルで、よくある話、たまに地方大会か、運が良ければ全国大会に行く程度のスポーツ少年少女が現れ、中には、勿論都会の、すこぶる頭の良い学校へ進学する生徒もいる。そんな中で私はと言えば、運動中の中、勉強中の中、顔もスタイルも馬鹿にはされなければ褒められもしない、つとめて平均的な人間だった。あえて言うならば、苗字と、名前が珍しいくらい。名字の恵比寿もさることながら、子を三つ並べた子子子の名は、全国を探しまわったところで私をおいて他にはいないだろう。
そう言えば、訪ねたところ、あの幽霊は大和と言うらしい。それが名前なのか苗字なのかは、教えてくれなかった。「幽霊には神秘がつきものだからね。まぁ、幽霊自体憑き物なん
だけどっ! お、私今上手いこと言ったねっ!」というのが理由らしい。後半はただの駄洒落だけど。
ところで、『あの』幽霊という表現には少なからず語弊があったかもしれない。大和さんたる彼女は、何故なら今も、私以外には視えないというのをいいことに授業中の私の周りを飛び回っているからだ。正直なところ、これはこれで煩わしかった。「授業つまらないねー」だの、「あの教師さ、あれヅラだよヅラ!」だのとはしゃぎ回っているので私にしてみれば授業どころではないものの、ここで下手に声を出して注意しようものならクラス中から奇異の視線をいただくことうけ合いなので、終業して何処か人気のないところに逃げるまでは我慢一択である。自分が可哀想にも思えた。
と、廊下側前方二列目の席から、その一個隣の列の最後列に位置する私の方に向いている視線に気づいた。今年初めて同じクラスになった、中川君だ。噂によると一年生の最初からほとんど不登校の不良生徒だということだけれど、二年生の冬あたりから急に普通に登校するようになったらしく、その、他の男子には無い異常なまでに大人びた雰囲気と体育の授業で露見した運動能力の高さ、顔の良さが作用して、三年生に上がった当初から、女子間での彼の人気は圧倒的だった。
そんな彼が、どうやら間違いなく、私の方を見ているようで、噂や恋愛関係に疎い私でも、流石にドキマギせずには居られなかった。何だろう、私何か、変なのかな……?
真っ直ぐ私の目を見つめてくる視線に最早堪え切れなくなった辺りで、救いの音、午前中終業のチャイムが鳴り響いた。大和さんへの文句もある。私はすぐさま席を立ち、昼食の弁当をひっつかんで教室を出た。
*
人気の無いところ、という条件で選んだ先は体育館裏だった。何でも昔から不吉な場所と呼ばれている所為で誰も近づかないらしく、心の底から信じている人なんておよそいないとは思うものの、集団心理は恐ろしいと、そう思わずにはいられない様子だった。ここ何年も、この場所は誰にも手入れされていないのだろう。元は運動部の練習場の一つだったと聞くそこは、長い年月をかけて土を風に持ち去られ、ひび割れた固い地面がむき出しになっていた。ひどい所だと、単純にそう思う。
とは言え、今の私にはこの上なく都合の良い空間でもある。朽ちかけた木のベンチに、強度を確かめてから座る。少し軋んだけれど崩れる様子は無かった。見回しても誰一人いない事に一抹の寂しさを覚えながらも、私は手元の弁当箱の包みを解いた。すべきこと、というより言いたいことはあるが、まずは昼食を終えたい。一人物悲しいグラウンドもどき
で弁当を広げる自分の姿にそこはかとない哀愁を感じた。
「……さて」
弁当箱を空にして、私はようやく口を開いた。食事中、大和さんはと言えば飽きもせず辺りを飛び回っていて、私が立ちあがった今は、すぐ隣の空間に戻ってきていた。聞いたところによれば、宿主から離れて活動するには限界の距離があるらしく、ずっと私の視界におさまる箇所を転々としていた理由が知れた。幽霊にも、色々制約はあるらしい。と、余談はこのくらいにしておいて。
「大和さん」
「何かな」
「成仏しましょう」
「そうだねぇ」
何か裏があるのではと勘繰らずにはいられないくらいにあっさりと、相応の覚悟を持って切り出した話題は締結した。拍子抜けして、思わず聞き返すが、大和さんは軽い様子で「そうだよ」と頷いた。
「ふふん、浮世離れしているっていうのも幽霊には必要なアイデンティティだよね。何せ死んでるわけだしっ」
得意気に胸を張る大和さんに絶句する。その洒落は、いまいち笑っていいのか判断しかねるところだった。まぁ、生人より活き活きした死人ではあるけれど。これも、ちょっと笑えない、かな。
「そうだ、それで、どうしたら成仏するんですか? 確か、したいことを終えたら、って言ってましたよね」
「え、うん、そうだけど。それよりさ、子子子ちゃんは昨今の経済状況についてどう思う? 円高とか、不況とか」
これ以上無さそうなくらい白々しい話題転換だった。白を塗り重ね過ぎてむしろ歪な存在感を浮き上がらせるくらい。ここまで分かりやすく誤魔化そうとするのは、私を信用してないからなのか、それとも、何か言えない理由でもあるのか。どちらにせよ、本人が言ってくれない以上はどうしようもない話である。さっきはあれほど短絡的だったのに、急に成仏したくない用事でも思い出したのだろうか。
私としてみれば、はっきり言ってしまうと、迷惑千万だった。ただでさえ面倒を抱えた身なのに、幽霊の相手も並行してとなると、少しばかり荷が勝ちすぎるだろう。願わくば、元より抱え込んでいる方の問題を早急に片付けたいのだけれど、一筋縄でいくような事情でないことは、私自身が一番知っていた。
「なぁ、恵比寿」
「っ!? て、え? 中川、くん?」
急に背中から声がかかって、飛び上がらんばかりに肩が跳ねた。次いで振り返り、声の主の顔を見て更に困惑する。一度に二回も私を驚かした彼は、「悪い、急に声かけて」と不器用に微笑んで、私のすぐ隣の地面に立った。見た感じ、人と話すのが得意ではないようだ。先の授業中のこともあって、どうしてずっと、こっちを見ていたのか。聞きたいことはあるけれど、容易に音に乗せることは叶わなかった。
「それでさ」
未だ驚愕から帰ってこれない内に、中川くんは続ける。レースで言えば周回遅れくらいの位置で取り残されていた私は。
「視えてるんだよね、俺。――――その、幽霊」
どうやら、転倒による棄権で幕引きになるらしかった。僅かに開いた唇から漏れでるのは、自分にさえ届かないくらいの、呆然の声。
「……え?」
*
「色々あってさ、視えなかったものが視えるようになったんだ。多分、視点が変わったとか、そんなところ」
中川くんはそう言って、困ったかのように後ろ髪を掻いた。知りたかった答えを全部聞いて、それでも半ば信じられないままに信用する。大和さんの居る方向も完璧に把握しているみたいだし、さっきなんかは二人でよくわからない会話も交わしていた。自分だけがおかしくなった可能性を否定できるようになって、私も取り敢えずの安堵を得る。ここに至る経緯を掻い摘んで伝えると、中川くんはバツが悪そうに、また後ろ髪を掻いた。困った時のクセらしい。
「本当は、口出しちゃいけないんだよな、こういうの。当事者の問題だからさ。でも、視えるものを無視するって、案外難しくて」
「でも、私は助かったよ、中川くんが声かけてくれて。頭がおかしくなったのかとも思ってたから」
「ちょいと子子子ちゃん? それはこのワタクシの存在を否定していたっちゅーことだよね? ですよねですね?」
突っかかってくる大和さんはこの際無視。彼女と無駄話を始めると、自分が何を話していたのかわからなくなることをこの数日で既に学んでいる。スーパーボールよりも話題が飛
び回るのだ。それも、あらぬ方向に。
放課後また改めて対策を練る約束をしてくれた中川くんが校舎に戻っていくのを見届けて
から、私も同じ道程を辿って屋内に戻って行った。「ふふふ~ん? ああいう子がお好み焼きなんだね、子子子ちゃん」とか何とか、下らない駄洒落でもって詮索してくる大和さんは、やっぱり幽霊のイメージとは遠くかけ離れて、突き抜けに明るかった。そのくらい素直に生きられれば、私も、もっと迷わずにいられるのだろうけど。少し羨ましいと思うのも、不謹慎なのかな。
なんて感傷は、教室のドアの付近で駄弁る洋子達にあっさりと砕かれた。人半人分ほどしか隙間の残されていないドアを、クラスの女子の筆頭格、木下 洋子他三人にぶつからないよう身を縮めて通る。少しだけ、一番こちら側にいた子に肩が触れると、これ見よがしに舌打ちが聞こえた。堪えて、教室に入る。自分の席へと足早に向かう途中、「うっざ」とか、そんな言葉が背中を追いかけてきた。腹の底が冷えるような感覚も、頭に血が上る感じも振り切って、私は椅子に座り込んだ。着いてきていた大和さんが「どうしたの?」と首を傾げたけれど、準備した次の授業のノートの端に『ゴメン』と走り書きすると、それきり何も問うてこなかった。申し訳なさそうに背後に回る大和さんに、少しばかり救われたような気がした。気がするだけだって、わかっているけど。
この年頃特有の縦社会を形成する、洋子を筆頭としたグループと衝突したのは夏休み前、三学期制のこの学校で、期末テストを終えて久しい時期だった。元々は私もそのグループに所属し、今思っても馬鹿らしいとしか言いようのない生活を送っていたけれど、その日ついに、ひねて構えていれば格好良いとでも思ってるんじゃないかと錯覚させるほど悪ぶった洋子達の振る舞いに、私の我慢の限界が訪れた。きっかけは些細なことだったように覚えている。いつも通りに気に入らない教師の陰口をたたいていた時の彼女の台詞が、私にはどうにも看過できなかった。
「どうせあいつの親とかも、キモイ顔してるよねぇ。あはは、一族ろーとー、死ねばいいのに」
普段だったら私だって、軽薄に相槌を打っていただろうに、何故か、この時私の口をついたのは冷めきった、非難の言葉だった。よくは覚えていないけれど、多分、直接関係したわけでもない人達を、何でそんな風に言えるの、とか、そんな感じだったはずだ。自分だって勝手な憶測で陰口に乗っかっていたことに思い至ったのは、すっかり頭の冷えた夏休みになってからだった。
一瞬のうちに場は嫌悪化し、あっという間に私は、クラスで孤立するようになっていた。正直、洋子達と仲直りすることなんて考えてもいなかったけれど、擦れ違う度にこの調子
では、いつ爆発するか分かったものでは無かった。
本当言うと、この状況を打開する策は、喧嘩して割とすぐに見つけ出していた。簡単なこ
と。『あの時はゴメンね、なんか気が立っちゃってたんだ』なんて軽い調子に頭を下げれば、あっさりと、またあの輪の中に戻れるだろう。
でも、それで。自分自身すら騙して、それで、私は本当に納得出来るんだろうか。
「いやだな」
かすかに声に出してみる。嫌だ。納得なんて出来るわけが無かった。でも、だから。だったら、私は。
どうすれば、いいんだろう?
*
悶々として授業に集中出来ないままに放課後を迎え、受験生として致命的な現状にため息一つ、椅子を引いて立ち上がり、下校の準備に取り掛かった。幽霊、友人、受験と、三つの問題に苛まれて前後不覚、思考すらも整然としないままに、ほとんど無意識に日常を消費する。こんなことで、一体私はどこに行きつくのだろう。
そんな風に、軽い自己嫌悪に陥っていると、中川くんが私の席へ近づいてくるのが分かった。そうだ、放課後、大和さんの事情の解決を手伝ってくれるんだっけ。
「恵比寿、例の話」
「あ、うん」
「ここじゃああれだし、移動しよう」
「わかった」
応じて、ドアに向かって所で気付く。まだ教室に残っていたらしい洋子や、他のクラスメイトの奇異の視線が、特に私に突き刺さっていた。不思議な雰囲気があって、あんまり自分から他人に声をかけない中川くんに促されているのだから、当然と言えば当然のこと。そしてこれも当然と言えば当然のこと、中川くんに少なからず好意を抱く洋子達が、何気ない風を装って、私に声を掛けてきた。
「ミッコ」
子が三つ繋がっていることから生まれた私のあだ名を呼んで、洋子は首を傾げた。気軽に会話を始めたように見えているのは、きっと事情を知らない一部のクラスメイトだけだろう。教室に居るほとんどの人が、洋子の意図に気付いて話し声のトーンを下げていた。
「どうしたの? ていうか、あんたって中川と仲良かったっけ? 何かあったわけ?」
これは詰問だ。多分私に、黙秘権など用意されていないだろう。焦燥を悟られないように
必死で考え込み、最適な答えを探す。直ぐに業を煮やしたのか、昼休みにも洋子と話し込んでいた江藤さん(通称エトちゃん。今となっては、そんな親しげな呼称を使うことはでき
ないけど)が寄ってきて、洋子にかぶせるように口を開いた。
「なになに? どしたのミッコ」
「え、や、その」
執拗な追及に、不覚にも口籠る。その隙を、彼女らが見逃してくれるはずもなかった。
「なんなの? 何か、黙っときたい関係でもあるわけ?」
「そういう、わけじゃ」
「じゃあ――――」
追い詰められた。洋子が口を開き、トドメの問いかけを発する。
その寸前に、
「幽霊」
さらに上から被せるようにして、中川くんの声が響いた。「は?」と、洋子達が目を丸くする。きっと、私も同じような表情をしているのだろう。背中から、大和さんの感嘆が届いた。「ふぅん?」面白そうに、展開を見守っているらしい。
「幽霊、視えるんだよ、俺。で、恵比寿が何かに憑かれてるのに気付いたから、除霊してやろうと思ってさ」
努めて真面目な面持ちで、中川くんは語った。どうしようもなく真実で、私はつい後ろの大和さんに目を遣るが、中川くんの話を聞いたクラスメイト達は、あまりに荒唐無稽な彼の台詞に呆然としているようだった。
「ほら、行こうぜ」
中川くんに手を引かれて、訳が分からない内に、私は連れられるまま教室を出た。
ようやく事態を理解して落ちついたのは、例のグラウンドもどきに辿りついてからだった。張りつめた空気から逃れて緊張感から解放された所為か、膝から力が抜けて、へたり込む様に昼間と同じベンチに座る。引かれていた手は、靴に履き替える際に解けていた。
「ありがとう、中川くん。助かった」
ようやっとお礼の言葉を絞り出すと、中川くんは「いいよ」と笑って後ろ髪を掻いた。気恥かしいのかなと思うと、少し可笑しくなってくる。でも、言うべきはお礼だけじゃ無かった。
「ごめん」
呟くと、声がかすれた。はっとして顔を上げた中川くんが訝しんだ表情をする。
「ごめんって、何が」
心底分かっていないといった表情だった。堪え切れずに俯いて、かすれたままの声で続ける。
「あんなこと、言わせちゃったから」
「……ああ」
それだけで、彼は何とか理解してくれたようだ。今度は困った様に、また後ろ髪を掻く。
幽霊の存在を紛うこと無く信じ、あまつさえクラスメイトの女子に取り憑いているそれを除去する。そんな、当事者以外からすれば虚言妄言世迷い言としか捉えようのない旨の言葉を、堂々と、大真面目に、中川くんは言ってのけたのだ。間違いなく、変人扱いは免れないだろうと思う。黙っていれば私の被害が増加すると知っていたから、彼はきっと。やり切れない想いが、私の胸中を渦巻いた。
「私としてはさぁ、んなことよか、除霊されるって言い方が気に入らないぜーミドルリバっち」
「あ。いや、あれは方言と言うか……」
大和さんの陽気な声が響いて、重く沈んだ空気が少しだけ浮いたような気がした。
慌てて取り成す中川くんの表情からも暗さが幾分か除かれて見えて、まったく、どこまでも幽霊らしからぬ人だ。生前は朗らかで人当たりの良い、きっと、人気者だったのだろうと、本心からそう思う。
「生きてる時に、大和さんに会いたかったな、私」
「……にゃはは、無理だよ、それは」
今度は大和さんが困った風に言った。分かってますよ、そんなことはと笑って、中川くんに向きなおる。そう言えば、さっきのミドルリバっちって、中川くんのことか。わかりにくいあだ名もあったものだった。本名より長いし。確か、中川 太陽くん。
「それじゃあ、改めて大和さんに成仏してもらおうと思うんだけど、どうしよっか」
「とにかく大和さんの未練って奴を知らなきゃ始まんないんじゃ無いか?」
「ん? 未練?」
私の話に中川くんが乗っかって、続けて大和さんの素っ頓狂な声が上乗せされた。
「何か、未練ありますか? したいことって言ってたから、それだと思うんですけど」
「強いて言うなら少しでも生きてみたかったっていうのはあるけど、でも、あれ?」
「どうしたんです?」
難しい表情で腕を組む大和さんは、しばらく唸った後、はっきりと断定した。
「未練なんて無いよ?」
*
途方に暮れる私達に、大和さんは極めて軽い調子で「まぁ、中川くんもいるし、その内
スッといなくなると思うよ」だなんて言うので、仕方無しに会合は中止、あまり帰りが遅いと夕飯が間に合わなくなるという中川くんと別れて、私も帰路についた。
「ほへー。ミドルリバっちは料理出来ちゃうんだね」
「うん、父子家庭で、お父さんが忙しいんだって」
「あの人格には相応の理由があったわけだね。因果鳳凰ってやつだ」
「応報です」
「ヨーホー?」
「前世は海賊だったんですか」
「んー、んー。コーホー?」
「暗黒面?」
「違った、ハイホーだ」
「小人……。これ以上はアウトですからね」
「大丈夫、このお話はフィクションでしたっ!」
「なんせ幽霊ですからね」
「中々辛辣な存在否定っ!?」
無駄話を交わしている間に、自宅の屋根が見えてきた。今日のひと幕を思い返し、堪え損ねたため息が漏れる。
明日の心配が、懸念で済めばいいと、本気でそう願った。
*
懸念どころか、どんぴしゃで大当たりに最悪だった。自分の席へと向かいながら、沸々と沸いてくる怒りの感情を、拳を固く握ることで抑制する。火を見るより明らかに、非を認めぬより容易く、その惨状は見てとれた。
これが昨日まで自分の座っていた椅子かと、教科書を広げていた机かと思う。
椅子の上には、濡れ雑巾が我が物顔で鎮座していた。机の上には、品の無い悪口がでかでかと存在を主張していた。教師が来るまでに私が対処し得る量を考えている辺り、清々しいほどに外道だ。ちらりと洋子達に視線を遣ると、心底こちらを侮蔑しきった、嫌らしい笑みを浮かべている彼女らが映った。勝ち誇った表情から目を逸らして、片付けを始める。雑巾で落書きを拭いて、上からハンカチで水気を取った。流し台で雑巾を洗いながら、原因を考える。十中八九、昨日の妬み嫉みを含んだ日ごろの鬱憤晴らしだろう。
嫌がらせの内容に、思うところは一つも無かった。幼稚な手段には、どんな対処も意味を成さないから。ただ、クラスメイトから、こんなどうしようもない悪意を形として知らさ
れたことに、怒りではなく、悲しみの感情が湧いてきた。何処で間違ったんだろう。何を
間違えたんだろう。教室に戻ると、さっきはいなかった中川くんが、状況を知ったのか、
ひどく白けた表情で本と向かい合っていた。彼の方は直接被害を受けていないらしい。よかった。小さく安堵して、ようやくそこで、違和感に気付く。
「うっ……、く、ひぅ……」
どうして? なんで大和さんが泣いてるの?
さっきからずっと、まるで私の代わりとでも言わんばかりに、大和さんはしゃくり上げていた。
「ひっく……、ふっ、ざっけんな……」
誰にも視えないのに、それを分かっているだろうに、大和さんは教卓の上に立つ。呆然とする私も、同じく気付いて目を見開く中川くんも意に介さず、彼女は、雄叫びを上げた。
「ざっっっっっけんなっ!! あんたら何やってんだ!? 子子子ちゃんに何やってんだっ! 意味分かんない! わかんないわかんないわかりたくもないっ!! 子子子ちゃんが何をしたぁっ!? 全部あんたらの都合だろうが! せこいんだよっ、文句あるなら言葉で言えよっ、下らないっ! 言えるんだろあんらたは! 卑怯者! 子子子ちゃんが強いだけなんだからなっ、あんたら、本当はちょー弱ぇんだからな!! そんなことも分からないんだったら、あんたら皆、死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!」
まるで全然、動けなかった。視えてない、聞こえてないはずのクラスメイト達が、まるで時を止められたかのように動かない。大和さんの怒気に中てられたかのように、一切の音が、教室から消えている。慟哭は、続く。
「その声寄越せよっ、その体寄越せよっ! 私だったら絶対、子子子ちゃんを泣かせないのにっ! 妹を泣かせたりなんかさせないのにぃっ!! 何で私が、私がっ……。生きられなかったんだよぉ……っ」
景色が揺らいでくるのが分かった。滲んでいく視界の中、最後のピースを嵌めたかのように、記憶が、音を立てて積み上がっていく。
誰が眠っているのか知らない墓。
弱々しい母の言葉。
私に似た、私の大人びた様な容姿の、大和さん。
少しでも生きてみたかったという、彼女の台詞。
そして、今の。
そっか。
私に憑いた理由も。妙にかまってきた理由も。さっきの涙も、全部。
わたしを心配してくれた、大和さんの精一杯だったんだ。
「ありがとう、お姉、ちゃん……」
溢れる涙でぼやける目元をぬぐって、前を見据える。不思議と、涙は直ぐに止まった。もう泣かないようにと、連れて行ってくれたのかも知れないと思った。分かってるよ。頑張るから、私。目を逸らした振りをして逃げたりなんて、もうしないから。
大和さんの――――お姉ちゃんの姿は、もう無かった。
*
「あんたたち、出来てるんじゃないの?」
彼女が消え去った後も、無粋な問い質しは終わらなかった。止まっていた時など無かったかのように、ウソみたいに、日常は過ぎていく。確かにここにいた、お姉ちゃんの存在を、世界中が否定しているような錯覚を覚えた。相も変わらず、状況が改善したりなんかは、しない。
でも、横道にそれるのは、もうやめにした。
「関係無いよ、洋子達には。私もう、あなた達と話したくない。陰口も、下らない悪戯も、これ以上、したくないもん」
洋子の目が細められたのは、誰の目にも明らかだっただろう。空気を察したクラスメイトが、不用意に音をたてないようにと息を潜めている。
「はぁ? 何それ。そうやって良い子ちゃんぶって、中川の気ぃ引こうって? キモイよ、アンタ」
そんなつもりはない。はっきりと断言しようとした言葉は、肩に置かれた腕に驚いて中断された。
「子子子はそんな下らない奴じゃないよ。それに、俺の気を引くって言うなら、もうとっくに、だし」
「え?」
ふっと唇の塞がる感覚がして、全身が硬直した。教室全体から、どよめきが起こる。
「行こうぜ」
手を引かれるままに、教室を出る。去り際に聞こえた「何それ、キモっ」なんて声は、ちっとも気にならなかった。気にする余裕だって、無かったけど。
例によってグラウンドもどきに出ると、即座に頭を下げられた。
「ごめん、勢い余った」
「え、いや、その」
狼狽しきった脳は、中々整った文章を作り上げてはくれず、意味の通らない、どもった声が口をついて来る。だって、さっきのは、やっぱり……。その先の単語を思い浮かべることを本能が拒み、何時までも頭を上げない中川くんにさらに混乱する。
駄目だ、こんなんじゃ。しっかり生きるって、決めたばっかなのに。意を決して顔を上げ、声を絞り出す。
「大丈夫だよ」
我ながら落ち着きのない声音だったが、それでやっと、中川くんは顔を上げてくれた。安堵したようにため息をつく。
「はは……」
「あはは……」
お互いに気まずく笑いあい、なんとなく、無言。しばらく黙っていると、やがて中川くんが、何気ない様子で言ってきた。
「なぁ、子子子」
「な、なに?」
名前で呼ばれて、一瞬反応がつまる。そういえば、さっきも子子子って呼ばれていたことを思い出す。悪い気は、するわけ無かった。
「大和さんのお墓って、何処にあんの?」
「え? ……一応、北の方。新幹線で一時間くらい、かな」
「そっか。よし、じゃあ、冬休みにでも、行こうぜ」
「へ?」
唐突な提案に、思わず聞き返してしまう。でも、なるほど、それはとてもいい考えに思えた。
「でも、いいの? 付き合ってもらっちゃって」
「構わないよ。受験勉強の息抜きも兼ねて。友達の家で勉強合宿とでも言えば、多分誤魔化せるだろうしさ」
まさか幽霊に会ったなんて言えないもんなと、笑う。そうだね、と頷いて、一緒に笑った。冬が少しだけ、待ち遠しくなった。
*
吐いた息が白く染まって、空気に溶け込んでいく。昼過ぎとはいえ、やっぱり冬だ。マフラーの位置を整えて、携帯電話に目を落としたところで待っていた声がかかった。
「よう、子子子」
「こんにちは、中川くん」
挨拶を交わして、振り向く。コートを着込んだ彼は、相変わらず、大人びた雰囲気をまとっている。行こうかと促して駅へと向かおうとすると、「ちょっと待って」という中川くんの声に制止された。
「寄っていきたいところがあるんだけど、良いかな」
一も二も無く頷いて、中川くんに案内されるままに道を歩っていった。
着いた先は植物園だった。長い間開かれていないのか、どこか寂れた雰囲気を醸し出している。勝手知ったる様子で、そんな植物園の裏口のドアノブを、中川くんは捻った。鍵はかかっていないようで、きぃと軋んだ音を立てて、ドアが開く。手招きされて後に続くと、草木の匂いが、鼻孔をくすぐった。展示に違いないだろう花を無遠慮に摘み取って、中川くんはよしと立ちあがった。
「手間取らせた。行こうか」
「うん」
「ちょっと待てよ泥棒少年」
「おわ!? 何だ、姉ちゃんかよ。戻ってきてたんだ」
「ついこないだだけどな」
急に事務室らしき方向から現れた女の人が、立ち去ろうとした中川くんを呼びとめた。少し驚いていた風だけど、話を聞いた限りだと、彼のお姉ちゃんらしい。中川くんにも、お姉ちゃんがいるんだ。
「そっちのは? 今度こそ彼女か?」
「んー、まあ、みたいなもん」
「へえ、ちぃと見ねぇ間に小生意気になったもんじゃねぇか」
彼女扱いされて、見るまでもなく、私の頬は染まっていたことだろう。気付かない振りをして、お姉さんに会釈する。
「んじゃ、行くわ」
「おう、何時でも来いよ」
最後にもう一度会釈して、私達は今度こそ植物園を後にした。いざ、お墓参りだ。
*
お盆と違って、この季節のお墓は閑散としていた。既に太陽は半分ほど顔を隠し、小振りな墓石を赤く染めていた。きっと、私と中川くんの顔も一緒に。
柄杓で水をかけて、持ってきた花を花瓶に挿す。数日前におばあちゃんが来ていたらしく、花はまだ新しいものだった。
「上手くやれてるから、心配しないでね、お姉ちゃん」
中川くんもいてくれてるし、とは、心の中だけでつけ足す。きっとお姉ちゃんには届いているだろう。
「そろそろ帰ろうか」
宵の明星が空に光る頃に、中川くんが言った。頷いて、墓の前から立ち上がる。
「お墓参りですか? 御二人さん」
星に負けない明るい声が、耳に響いた。自然と、笑みがこぼれる。
「お墓参りですよ、大和さん」
「……そっか」
「そうだよ」
背を向けていたお墓にもう一度向き直って、溢れた笑みを、交わす。
「ひっさー、子子子ちゃん。元気してたかい?」
「久しぶり、お姉ちゃん。そっちこそ、元気だった?」
幽霊に聞く質問じゃないよー。おどけた風に、お姉ちゃんは言う。
「ま、ちょーちょーにこやかハッピーだけどねっ!」
冷たいはずの幽霊の、お姉ちゃんの体は、抱きしめてみると、とても温かかった。
私もだよ、と、返した。
表題作、つまり、これがメインにして最後の話です。この後にもう一つ、まとめと言うべき超短編が入り、「明けの明星」は終了となります。ここまでお付き合い頂いた方、本当にありがとうござました。少しでも、僕の伝えたい事が届いていればと思います。
なお、この作品は高校生たる僕が文化祭出展用に書き下ろしたものです。拙作でろくな校正もしておりませんが、楽しんでいただけたのならば幸いです。
では、ありがとうございました。また別の作品で出会える事があれば、その時はよろしくお願いします。