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大泥棒のティーカップ事件簿

 *

 大川 保助は泥棒だった。藍川 林檎は入院患者だった。たったそれだけの必然がどう重なり合ったのかはこの世の誰が知っていることでもないが、それでも、二人のホモサピエンスが出会い、惹かれ合った事実は、確かな事象として、存在していた。

 彼らの出会いは、互いが互いのすべきことを成していた最中の、いわば小さな事故のようなモノで。何ら語る必要性の無いその出来事を、しかしここでは、語らうことにしておこう。


 *

 奇妙奇天烈な仮面を装着した大川 保助は、小脇に戦利品の封筒を抱えて逃走していた。別に誰かに追われているわけでもなく、厳密にいえば帰還しているだけなのだが、いやしかし油断はいけないと思い直し、静寂に包まれた病院の廊下を小走りで駆け抜けている。

 と、懐中電灯らしきオレンジがかった光が、前方に見えた。夜勤の警備員らしく、腰のホルダーには黒い鉄の塊が見える。拳銃だ。ぞっとしない感覚に襲われて、保助は素早く、かつ慎重に手近な病室のドアを開けた。全く音を立てずに動くことに成功し、内心秘かにガッツポーズを決める。さすがに泥棒稼業を始めて早六年。基本的な動作はマスターしている。

 警備員の足音が遠ざかるのを待ってから、またドアに手をかける。思えばこの時、彼の経験はまだ、たったの六年だったのだ。

「ん……誰? どろぼぉ?」

だからこそ、病室に誰かいる可能性を失念していたし、その誰か――付き明かりに照らされて光る長く艶やかな黒髪を垂らす、病的なまでに白い肌の少女に声をかけられた時、馬鹿正直に答えてしまったのだ。

「はい、大泥棒の、大川 保助です」

この受け答えが原因で、知りあって初めの数週間、保助は少女から「大泥棒の大川さん」と呼ばれることになるのだった。


 *

 他称病弱の薄幸少女こと藍川 林檎は、十六歳という若さにしては、奇妙奇天烈なまでに完成した価値観を持っていた。そもそも、少女と言うにはあまりに大人びた雰囲気を持っているし、それも病の所為なのだろうかと思うと、安直に褒めるのも憚られた。

 だからというわけでは無いが、保助は彼女と話す時、進んでくだらない話題を提供して

いた。

「犯人は現場に戻るとは言うけど、まさか泥棒が一仕事した場所に通い詰めているとは、誰も思わないんだろうな」

言いつつ、保助は病室の窓際、水の入っていない鉢に活けられた鈴蘭の造花に目をやった。この花にもとある物語が伴っているのだが、もうその話は、話せ話せとせっつく林檎に一通り語り終えている。保助の目線を追って同じ場所で視線を止めると、林檎は自然と頬が緩むのを感じながら、話に乗る。

「ほんと、現場に戻ってくる犯人なんて、テレビの中だけだと思ってた。変なんだね保助さんは」

二度目にここで会った時のことを思い出して、林檎は声を抑えつつ笑う。若干拗ねた風な表情になった保助に向かって、彼女は意地悪げな口調で言った。

「『侘しい空間から、退屈そうな姫君を盗み出そうと思ってな』だっけ。あはっ、今時そんなクサイ台詞、ドラマでも言わないよ?」

林檎の言葉に、うぐ、と保助は苦々しげに呻く。保助は何かと理由付けが苦手で、問い詰められると直ぐに気取った言葉が出てきてしまう。最初の夜に両親から見放されていると語った林檎を気にして再度訪れた時にも、その特性は発揮されてしまっていた。

「まあ、そんなこともあったな」

いかにもきにしていない風を装って言ってみるが、彼女がまた小さく吹き出したのを見る限りばれたのだろう。それ以上は何を言っても無駄だと考えて、保助は仏頂面で黙り込んだ。

「保助さん、それも、墓穴だよ」

くくく、と堪え切れない笑い声を漏らしつつ、林檎は小刻みに肩を揺らす。どうにも上手く対応できなかった保助は、黙ったまま顔を背けた。面白くなさそうに、呟く。

「いいのかそんなに笑って。今日はそんなに良くないんだろう、体調」

「うん? 大丈夫大丈夫。軽い風邪だし……っごほ、けほっ」

「ほら見ろ」

急に咳き込む林檎に呆れつつもベッド脇の冷蔵庫から水のペットボトルを渡してやる。胸元を押さえながらゆっくりと喉に流し込んで、林檎は息を吐いて寝転んだ。少し埃が舞って、また小さく咳が出る。

林檎は先天性の免疫不全症を患っており、その上人一倍症状が強く、幼少の頃からほとんどの時間を、病室で過ごしていた。保助ら一般人には大したことない風邪も、彼女にとってはこじらせれば命に関わる大病だ。そのため看病に疲れ切った両親は彼女を捨て、もう

十年もの間、林檎は一人で過ごしていた。入院費だけは今だ両親から払われ続け、その事実も彼女を苦しめている。捨てたクセに。

 独学で勉学はこなしてきたが、友人と呼べる存在は、依然一人として存在しない。あえて挙げるなら、売店で働く女性だけだった。

 保助がここに通い始めて三カ月経つが、林檎の口からそれを聞いた時、彼は酷く打ちのめされた。

「死を考えたことは。無いのか?」

以前、保助がそう尋ねた時、彼女は笑って、ただ一言答えた。

「馬鹿だな。いつ死ぬか分かんないんだから、ずっと考えてるに決まってるよ」

 ベッドに寝転ぶ林檎を無言で眺めていると、聞かせるつもりは無かったのだろうが、小さなぼやきが、聴こえた。

「生きたいよ」

か細い姿がいつも以上に弱々しく見えて、同時に、今の呟きは「生存し(いき)たい」でなく「活動し(いき)たい」だったのだろうなと思えた。俺もだ、と、保助は呟いた。


 *

 林檎が眠ってしまったのを見届けてから、保助は階段を二つ下がって一階の売店へ足を運んだ。さほど広く無い店内のレジで暇そうにしている女性を見つけ、声をかける。

「福田さん。よほど暇そうだな」

「何それ、嫌味ですか? 大川さん」

保助の姿を確かめた女性が唇を尖らせる。彼女、福田 緑は林檎をよく気にかけている女性で、病室でかち会った保助の正体を初見で当ててしまったとんでもない人物でもある。業務用のエプロンの裾を伸ばしながら、緑は相も変わらず見透かしたかのように、言う。

「藍川ちゃん寝ちゃいました?」

「ああ、そうだが。でもあれは」

「狸寝入り、ね」

「……はぁ」

保助の言葉を完全に横取りして、緑は微笑む。思わずため息を吐いた保助に、彼女は続けた。

「で、泣いているだろうから暫く福田さんとでも話してよう。ってところですよね?」

「あなたという人は」

先の先まで言い当てられて、保助はもう一つため息を落とした。もはや読心術じゃなかろうかと疑ってしまうのも毎度のことである。

「ふふっ。本当、分かりやすいですね大川さんは。はい、私今日はシフト終わりなんで、行きましょうか。そろそろ治まるところでしょう? 藍川ちゃんも」

「だな」

エプロンを外す緑に余計な台詞は言わず、保助は彼女の代わりにレジに入った店員にコーヒーを三本要求した。


 *

 病室に入るなり「ありがと」と小さな声が聞こえ、保助は危うくコーヒーの缶を落としかけた。気を使ったのがバレたかと焦る。林檎は今までの生活上、同情などといった感情を嫌っていた。機嫌を損ねた林檎は扱いが非常に面倒であることを思い出して、緑と二人ですわ一大事と内心構えていたが、林檎が黙って右手を出して来たことからなるほどコーヒーのことかと肩を撫でおろす。

「あと、一人にしててくれたこともね」

「っ……。気付いていたか」

「それはもう。ん、コーヒーちょうだい」

容赦ない言葉に苦笑しつつ、出された手に缶コーヒーを渡す。後ろで忍んでない忍び笑いを漏らす緑にも、こちらは仏頂面を向けつつ渡す。余計に笑われて、保助はまたかと心中項垂れた。

「うわっ、苦っ。保助さん、これブラックだよ」

「ん? ああ、悪い。忘れてた」

林檎にまた文句を言われ、さらに肩をすくめる。どうにも分が悪い日のようだ。

「ふふ、藍川ちゃんはまだ子どもなんだから、気をつけないと。保助さん」

と、今の今まで黙り続けていた緑が、急に窘めるように言ってきた。ん? と保助は一瞬小さい違和感を感じて、直後の林檎の呟きでその正体に気付いた。

「たもすけさん……?」

なるほど呼び名かと思い至り、訂正する。

「いきなり何だ、福田さん。普段は苗字で呼ぶだろうに」

「え~? 何言ってるのよ保助さん。福田さんなんて他人行儀に。いつも通り、緑でいいですよ?」

「ん? いや、だから」

「へぇ~。仲良いんだね、保助さん達。知らなかったなぁ」

こちらも普段と違うトーンの低い声で言う林檎に阻まれて、保助はつい言葉をとぎる。してやったりとでも言い出しそうな緑だけが、この状況下で笑顔だった。

「あら? 知らなかったの藍川ちゃん。私達一応大人なお付き合いをさせていただいているのよ。ねぇ? 保助さん」

確信犯の爆弾投下に、しかし保助は気付かず、応じる。縋るような眼で自分を見る林檎の真意は、彼の性格上分かりかねた。

「いや、まあ、多少言い回しに齟齬が生じている気がするが、およそそんな感じではあるな。だが福田さん。俺はあなたを呼び捨てたことなど一度も無いぞ」

言い終えてから林檎の表情の変化に気づき、やはりわけが分からず緑を見るが、こちらはこちらで口元を押さえて笑いを堪えているようで、保助は余計に混乱した。

「大川さん、ほんと、凄いですよあなたって。言っといてなんですけど、誤解、解いてあげてくださいね。今私が何言っても聞かなそう。それじゃ」

混乱しっぱなしの保助に、緑はそれだけ言って返答も聞かずに病室を出て行った。どこか一仕事やり遂げたような表情だったのは気のせいだろうと、保助は一人ごちた。もとい、言いきかせた。でなければ、ようやく理解できた現状の創造主に対して文句の一つや二つは言い放ってしまいそうだった。意を決してベッドに座っているであろう林檎の方に顔を向けると、案の定、彼女は泣きそうな、それでいて怒り出しそうな、その上笑い出しそうな複雑な表情を浮かべていた。つまりは、困惑だろう。

「えと、えっと……その、あの」

「干支なのか越冬なのか園なのか賀名生なのか」

「どれでもないっ。誤魔化さないでよ。福田さんと、付き合ってるの?」

「どう答えて欲しいんだ」

「ノー」

間を空けず即答する林檎に、我ながらよく好かれたものだなと苦笑する。尚もどう答えたものかと保助が思案していると、その間を迷いと取ったのか、林檎は勢い込んで声を荒げた。心なしか、頬を赤く染めているようにも見えた。

「だ、だって、保助さん、私のこと、好き、だよね? うわ、我ながらおこがましい言い草。……それに、それに私、保助さんのこと、その、好きだから……。あの、ええと、うぁ~」

「もういい」

結局言い淀む林檎を一言で制して、保助はため息をつく。思考内容は単純明快、かつ由々

しき事態。つまり、だ。

「その通りだ」

と、そういうこと。


 *

 月日は百代の過客にして、とは言うが、まさにその通りかも知れないと、保助は思った。緑に嵌められて、もとい背を押される形になって保助と林檎は名目上の立場が「恋人」になって以来、赤レンガ造りの病院を白く彩っていた雪も形を潜め、早季節は新春である。眠っている林檎のベッド脇から窓の外を見ると、そろそろ鮮やかな梅の花も咲き始めていた。見える範囲の街並みを見渡して、特別感慨も持たずにまた梅に目をやる。

 十数年前に旧横浜の街を襲った大地震によって、街の外観はそれまでとはガラリと雰囲気を変えていた。この病院の位置にも、かつては同じ赤レンガ造りの倉庫が建っていたが、その倉庫とは名ばかりの元観光地も、地震によって全壊していた。そこに何故病院が建ったのかは、無論一市民の保助が知るところではない。

 幼かった自分から肉親と住居を奪っていった天災を思い返し、保助は深いため息をついた。確か自分はあの頃六歳だったから、林檎はギリギリあの地震には遭ってないのだなと考える。災害の後の街は、今まで見てきたどんな何よりも、彼の頭に根強く張り付いている。結局、あの日の正午から自分の人生は決まっていたのだ。両親が死に、帰る場所も無く、あまつさえ親戚も皆地震で絶えたらしく、身寄りの無い保助は手当たり次第に生き抜く道を選んでいった。荒れたコンビニから食糧を盗み、公園の片隅で夜を越した。思えば、保助が現在泥棒として生きていることすら、奇跡に等しいものなのだ。

「保助さん……?」

と、目を覚ましたらしき林檎から声がかかって、保助は思考を中断した。彼にとって、もうとうの昔に乗り越えた過去なのだ。今更蒸し返す意味などどこにもない。なので極自然に、保助は林檎に返事を返した。

「おはよう、林檎」

呼びかけただけで、林檎は軽く頬を朱に染める。緑に嵌められたあの日以来、彼女の希望で保助は林檎を名前で呼ぶようになっていたが、希望した本人がまだ呼ばれ馴れていないようだった。

「お、おはよっ」

 徐々に会話が弾んでいって、ふと、つい最近林檎の主治医になったと聞く三輪 尊医師について、林檎が切り出した。

「そういえば、こないだ変わった私の主治医なんだけど」

林檎がそう切り出した地点で、保助はこれは愚痴が来るなと悟り、馴れた所作でプラスチックのコップに熱い紅茶を二つ、一方には角砂糖を一つ放り込んでから聞く態勢に入った。無言でコップを受け取った林檎は「熱っ」と呟いて備え付けのトレーにそれを置いてから、改めて切り出す。

林檎の病は完治が極めて困難で、そのせいか担当する医者が次々と変わる。変わる度に何かしらの評価を下すので、その批評が愚痴かどうかの区別はつくようになっていた。愚痴の場合は、例外なく長引く。

「あいつ、三十過ぎで独身のおっさんなんだけどさ、診察中に、やたらとベタベタ触ってくんだよね。もう気持ち悪いったら」

「林檎の先入観のせいじゃないのか?」

毎度のことなので、保助も適当に応じた。が、

「こないだなんて胸触られたんだけど? 直に」

「……顔の特徴を教えてくれ。それと体格な。身の程を教えてやる」

とたんに豹変した保助を、林檎は慌てて窘めた。彼が言うからには冗談じゃないだろう。林檎個人としては気を緩ませるとそのまま頬まで緩みそうな言葉だったが、保助にはできる限り犯罪を犯してほしくなかった。泥棒にそんなこと、直接は言わないけれど。

 保助も落ち着き、熱かった紅茶がすっかり冷たくなってきた頃、保助は思い出した風に、尋ねた。

「お前、そろそろ誕生日だろ? 欲しいものとかあるか?」

「え? ないない、無いよ。ていうか保助さん、言ったら盗む気でしょう? あの鈴蘭だってそうだったし」

「そりゃあ、俺は泥棒だ」

「う~ん……」

どうにも歯切れの悪い林檎に、保助は首を傾げる。

「どうしろって言うんだ?」

「あ、そうだ、保助さんバイトとかしてくれない? それで、ええと、ティーカップとかプレゼントしてくれたら嬉しいなぁ、なんて」

「泥棒で盗んだ物は汚いから受け取れない、と」

「え!? や、そういう意味じゃ……っ! というか、だったらあの鈴蘭も受け取ってないよっ!!」

「冗談だ」

若干必死になって取り繕う林檎に、保助は吹き出す。約六年、干支の半分ほど年の離れている林檎を、保助は愛おしく思った。彼女は周りの同年代とはまったくもって発する雰囲気が違って大人びていて、妙齢の保助としては手を出さないように堪えるのも一仕事だった。まったく、可愛い女だった。

「よし、わかった。二週間、バイトして買ってやる」

「ほんと? ありがとう!」

急に年相応の幼さを伴って笑顔を向けてくる林檎に苦笑しつつ、

「礼は当日までとっとけ」

またお得意のクサイ台詞が出たことは、舞い上がっている林檎には気付かれなかったようだった。


 *

 「それで、大川さん達の背を押したこの私に、ティーカップのデザインを選んでくれと」

約束の誕生日前日昼。約束通りに日払いのバイトを二週間こなし、約束通りのティーカップを購入するべく、保助は総合病院一階の売店にて緑の助言を授かるため業務中の彼女に声をかけていた。要件を告げると喜々としてエプロンをはずし、「福田抜けまぁす」と適当極まりない宣言だけ残して、保助の要望に答えてくれている。からかうような言い草に多少不快を顔に浮かべるが、緑は気にした風も無く相変わらず揶揄するような視線を向けてきた。

「ふふ、バイトねぇ。泥棒さんがそこまでするだなんて」

「うるさい」

仏頂面で返しつつ、結局、緑に勧められた、有名なブランドのティーカップを二つと、ついでに切れかかっている茶葉を購入した。

「頑張って下さいねぇ~」

尚も笑みを隠さず言う緑に、保助は一言で返した。

「うるさい」


 暫くして、保助と緑は病院に戻っていた。別れ際に「今日は後非番なんで」と言って去ろうとする背を呼びとめ、保助はそういえばと、手に持った紙袋をあさり、手のひら大の小包を緑に投げ渡した。

「? なんです? これ」

「今日の礼です。大したものではないが」

淡々と言う保助に、緑は笑って言った。

「怒られますよ? 藍川ちゃんに」


 階段を上がって病室に入ると、林檎はベッドにもぐって寝息を立てているようだった。しばし穏やかに上下する肩を眺めて、保助は仕方ないと病室の隅に置いてあるパイプ椅子を持ってきて座った。息をついて、小声でつぶやく。

「折角来たのだが……本人が寝ているんじゃあ仕方ないな。また日を改めるか。む、一週間後になってしまうか。まあ、問題ないな」

「あるっ!」

「起きているなら最初からちゃんと出迎えろ」

「う……。催促しちゃったから受け取りづらいんだよ……」

目を逸らして言う林檎に、保助は少し笑いながら、手に持った紙袋を突き出した。

「約束のものだ。受け取れ」

「うわ、なんか良くない取引の現場見たい」

無愛想な保助に苦笑しつつ、林檎は差し出された紙袋を受け取る。中にあった包装紙を取ると、鈴蘭をデザインしたらしき模様のティーカップが姿を見せた。わあ、と、子どもの様にひとしきり目を輝かせてから、今度はその笑顔を保助に向ける。

「ありがと、保助さんっ」

「いや、約束だからな。気にするな。茶葉も買ってあるんだ、飲むか?」

「うん」

林檎からカップを受け取り、保助は今日店員に聞いたばかりの淹れ方を思い出しつつ紅茶をいれた。何かのハーブを使っているらしいが、詳しい品種等は初心者の保助には全く分からない。購入理由も簡単で、ただ良さそうな香りだったから、だ。

十分に色が出たのを確認して、保助は林檎の目の前のトレーにカップを置いた。すぐ近くに林檎の顔が来て、しかし保助は大人の風格そのままに引き返そうとして。

「……ん?」

唇の塞がる感覚がして、保助は首を傾げた。頬と言わず顔全体を真っ赤に染める林檎を見て、名前の通りだとかどうでもいい感想とともに事実確認をする。なんだ、もう十分大人、か。

「子どもじゃ、無いよ」

「……いいんだな」

「……ん」

一般的な女性のそれよりさらに幾分か華奢な林檎の肩を抱いて、保助はもう一度、今度は彼の方から唇を重ねた。泥棒のくせに期を見誤っていたかな、と、関係ない思考が脳裏に浮かんだ。


 体力の低下が原因だったのか、季節の変わり目に林檎は何度か体調を崩した。そのたびに少しやつれた彼女の顔を見る羽目になった保助だが、夏も中盤に差し掛かり、どうにか林檎の体調も落ち着いている。一年で最も虫の喧しいそんな頃、事件は起きた。


 *

 三階の、変わらぬ病室で、保助は林檎と対峙していた。どう対応したものかと迷い、挙句に何も言えず往生しているだけだが。林檎は、保助が病室に入るよりよほど前から、一人で泣きじゃくっていたようだった。

少ししてようやくなんとか言葉をひねり出し、保助が問う。

「おい、何があった」

声を押し殺していた林檎は、保助の言葉に堰が切れたかのように嗚咽した。何事か、と、保助もまた焦りを覚える。林檎の持病故、いつ余命宣告をされてもおかしくないのだ。こうなっては気が気でないのも仕方のないことである。かといって、このまま黙っていても栓無き事であるというのも、また事実であった。

「落ち着いたら、話せ」

「……うん」

たっぷり十分ほど泣き続けて、ようやく落ち着いたらしい林檎から聞きだしたことによると、どうやらこういうことらしかった。

 林檎の主治医である三輪 尊医師は、彼女の話を聞く限りどうにも品の無い医者らしく、常日頃から林檎はこの医師に対して反感を持っていた。

今日この日も、毎日行われる診断で例のごとくセクハラ行為に及んできた三輪を邪険に振り払っていた林檎だったが、彼女の「訴える」という単語に焦燥を感じたのか、三輪はついに暴力をふるってきた。とっさに顔をそむけ、林檎は身をすくめるが、その時手の甲に触れてトレーから落ちた中身の入ったティーポットが、三輪の腕に火傷を負わせたらしい。傷を負って逆上した三輪が、「危険物」と判断してティーポット以下カップ等を一式、全て没収してしまった、と。

林檎の話を聞き終え、彼女の怒りを宿す目を見、保助はため息をついて林檎の頭をかるく叩いた。

「な、なに?」

「俺がなんとかしよう。だから泣くな」

「でも、どうやって? 皆三輪のロッカーか何かにしまわれちゃったんだよ?」

お決まりのクサイ台詞にはやはり気付かない林檎をしり目に、病室のドアを開けつつ、保助は言う。

「忘れたのか? 俺は泥棒だ」


 *

 病院に勤める医者の控室は、一階にある看護師センターの隣に位置していた。看護師センターは受け付けも兼ねており、広いロビーを挟んだ向こうには売店も見える。

見舞客を装って院内の内装の最終確認を進めながら、保助は細く息を吐いた。もう、この病院に通い出してほとんど半年になる。今更確認の視察など、何の意味も伴わない事に違いなかった。ただ、医者の控室や看護師センターに対してはそうではない。何せ、普通に林檎の見舞いでやってくる際、受付の関係で看護師センターには多少目を遣るものの、医者が休憩するだけの控室など、用があるはずも無かったのだ。唯一初めてこの病院に、盗みの目的で夜間立ち入った際には控室への侵入を果たしたが、しかしそれも一度きり、その上保助が通い出してから入ってきた三輪のロッカーなど、当然知る由も無い。大泥棒を自称する保助にとって、状況はどうしたって不利であった。このまま事を行うのは、六年以上にわたってこの業を重ねてきた彼からしてみれば、否、例え新米の盗人であったところで愚の骨頂であるのは火を見るよりも明らかだった。それも、目的が女の為の私物奪還ともなれば尚更である。私情で動くべきではない、稼業ならば、己の生活の経済的利潤のみを追求するべきだと、思考の一部が冷静に呼びかけた。考慮の余地も無く正しい意見を却下して、保助は自嘲の笑みを浮かべた。以前の鈴蘭とで、これで二度目だ。全く阿呆になったものだと思いつつも、今更何があったところで、当の林檎本人から制止されたところで、計画を止める気は最早皆無だった。賭けるのはたった一つ、自らの内を占める想いに。捨てるのはたった一つ、大泥棒の肩書き。失くしたところで、やることに変わりは無い。欲するままに、得るだけだ。


 *

 真夜中の、時計の針が十二時を示す頃。病院中に響き渡る爆音に、保助は半ば呆然として立ち尽くしていた。何とも悪運の強いことで、目的の物は滞りなく奪還することが出来ていた。戦果も上がり、大成功といって差し支えない結果を報告すべく心なし上機嫌に、

しかし決して気を抜くことなく林檎の病室を目指していたところに、急な爆音である。それを発端に無数の警報装置ががなり立て、院内には慌ただしい足音が幾つも立ち上ってきた。悪運とは言え、何もこのタイミングで事件なんてと思わず保助は頭を抱えかけ、すぐに大事に気付いて疾走する。鳴っているのは異常を知らせる警報装置だけでは無かった。あの地震の記憶が、鮮明な音に追い立てられるようにして浮かんでくる。中に混じるこの音は、――――火災報知機。

耳に張りついて止まないサイレンの幻聴を振り払うようにして、保助は足を進めた。急がねばならない、林檎の無事を、確認しに。持っていたはずのティーカップが手元に無いことに、保助はそこでようやく気がついた。一瞬だけ逡巡し、かぶりを振る。そんなもの、どうとでもなれ。

 廊下を覆い始めた煙に焦燥を覚え、殴りつけんばかりの勢いでドアを開けると、病室内に若干入り込んでいるらしい白煙を吸い込み噎せる林檎の姿が目に入った。大事無い、その事実に安堵し、すぐさまそばに歩み寄る。背中をさすってやりながら、保助は精一杯に落ちついた声音で声をかけた。

「すまない、ティーカップを取り戻せなかった」

「ん……。いいよ、保助さん。心配して戻ってきてくれたんでしょう? それより、早く非難しないと」

「ああ。そこのタオルで良い、口と鼻とを押さえておけ。……脱出経路を確保する、ちょっと待ってろ」

「うん」

言いつけの通り林檎がタオルで口元を防いだのを確認してから、保助は病室の窓を開け放つと、外から聞こえる喧騒を無視して慣れた手つきでカーテンを取り外した。二枚のカーテンを結びつけ、これでは長さが足りないと見るや先程まで林檎が被っていた布団で補強する。微かに漂ってきたシャンプーらしき香りは、だんだんと色濃さを増していく煙にあっさりとかき消された。出来あがった即席のロープをベッドの足に結びつけつつ、言う。

「病院でも、風呂には入れるんだな」

先のシャンプーらしき香りに対しての疑問である。そんな状況で無いのは勿論のこと百も千も、或いは万にも数段飛ばして恒河沙くらい承知の上なのだが、しかし、一見落ちついた風の保助も、多少なりこの現状に焦りを覚えていないわけでは無かった。そんな、彼にとっては気を紛らわしたい程度の気の無い一言だったのだが、年頃の少女たる林檎にとってはそうそう気軽に口にしたい話題ではなかったらしく、小さく眉を寄せてから憮然と、口元を押さえるタオル越しに言い放った。

「保助さん、デリカシーだよ、デリカシー。残念なことにお風呂は、一週間に一度、それも体調の良い時にしか入れさせてくれないよ。そうでなくたって汗とか結構気にしてるんだから、その辺分かって欲しいなぁ」

「む。そうなのか、それは、なんだ、軽率だった」

素直に謝罪する保助に「いいよ」と首を振って余裕の態度を見せる林檎だったが、保助の継句には、思わず額の頂点まで、それこそリンゴの様に真っ赤になった。

「すまない。いつもどこか良い匂いがするんでな、その辺りまで考慮できなかった」

「っ、な、何言ってんのさっ! ……もう、これだから油断ならないんだよ、保助さんは」

「お前が甘いんだ」

微妙に保助の口元が上がっているのを見て、林檎はもう一度眉を寄せた。途中から明らかに確信犯だったらしい。

余談を終えて、保助は病室のドアの方にちらりと目を遣った。落ちつくには十全な時間だったが、それは勿論のこと火の回る時間もあったという訳で、薄らと、病室の中にまで、視認できる程度まで増してきた煙が見える。これ以上の猶予はあるまい。

「林檎、体調はどうだ」

「今日はそんな悪くない……。けど、これ以上煙くらったら良くないかも」

「だろうな。よし、なら、悪いが多少無理をする」

言うや否や、保助は状況が読めずきょとんとする林檎に歩み寄ると、有無を言わせず、その細い体躯を片腕で抱き上げた。瞬時に頬を染める彼女の様子に込み上げる笑みを堪え、保助はそのまま、今しがた結びつけた縄に捕まって窓の外へと躍り出る。以前に一度、しかも女性相手に手痛い敗北を喫したとて、保助の運動能力は一般のそれを大きく上回っていた。軽快に壁を蹴って、一気に地面まで降りる。とにかく喧騒から離れよう、そう考え、彼は抱えたままの林檎をそのままに、病院の裏口に走った。

と。

「あぁ? 誰かと思えばいつかの大泥棒……。元気にしてたみたいじゃねぇか」

裏口の門に差し当ったところ、まさに今敷地から脱出せんとした手前で、保助の足は自然、棒きれのように動かなくなった。聞き覚えのある声とともに、踏みつけられた即答部の感覚が思い出される。

「あんたは……」

「おう、覚えてたか。そりゃ重畳。見たところ少女誘拐とか、火事場泥棒ってわけじゃあ無さそうだな」

「……何をしているんだ、あんたこそ」

「長年の連れを助けに。関わんなよ、私に勝てないんじゃあ、踏み入れた瞬間デッドエンドだ」

「そう、だろうな。……あんたらに関わるつもりは無い。特に今は、こちらにも連れがいてな」

「みてぇだな。んじゃ、私は行くよ。そうだ、行くあてねぇならあの植物園、使っていいぜ。どうせしばらくはあそこには帰れねぇだろうし」

「ああ、ならばそうさせてもらおう」

思っても無い申し出に、自らの悪運の強さを再確認する。「じゃあな」と小さく片手を上げると、彼女は颯爽と、火の手が上がる病院内へと消えて行った。一度だけ病院を見遣り、そして、保助はまた足を動かした。腕の中で林檎の息が荒くなっていることぐらい、彼はとっくに把握していた。


 *

 未だ衰えぬ技術で錠を解き、変わり映えの無い園内に立ち入る。事務室を開けると、直ぐに林檎を横たえた。いつの間にか、意識を失くしているようだ。何故か備え付けてあった対毒ガス用としか思えない装置を使って体内に入り込んだ煙を抜く。探しまわるとこれまた何故か出てきた、普段林檎が服用しているのと同じ薬を水で無理矢理流しこむと、ようやく、彼女の息遣いは治まりを見せた。やはりというべきか、ここの持ち主だった彼女らは、裏社会と呼べるそれと繋がっているのかも知れないと、少なくない戦慄と共に思った。自分が生きている事実が妙に有り難く感じられてくる。殺されても、おかしくは無かったのだろう。

「……」

緩やかに呼吸を繰り返す林檎に視線を向ける。病院に戻ることは、きっと出来ないだろう。彼女らが関係しているとなれば懸念事項も上がってくるし、そんなとことに恋人を預けておく気はさらさら無かった。とはいえ、医療機関に入れなくてはいずれ林檎は死に至るであろうことは、いくら学の無い保助といえど、容易に想像できた。

「俺自身も、そろそろ潮時かもしれんな……」

灯りの無い事務室で、植物の香りに包まれながら、元大泥棒は思う。

まずは仕事を探そう。住む場所を見つけよう。出来れば、入院もさせず、林檎と二人で暮らそう。どうせ病院でも常備薬を投与していただけで点滴も無かった。不可能なことでも無いだろう。まっとうに、それこそ幸福に日々を送って。



そうやって、生きよう。


学校行事にてしばし空けてしまいました。こっちも、もうひとつの連載の方も。北海道の空は広かったとです。


今後は二日か三日程に一回更新とする予定です。とはいっても、後二つなのですが。

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