7.キラキラ侯爵令嬢に変身した私に、坊ちゃんは恋をしたようです
ヴァレリオ様は、木陰に立っておられた。
お召しになっているのは、空色のベロア地の上着に、陽光を溶かし込んだようなクリーム色のパンツ。
襟元や袖口からは、雪の結晶のように緻密なアステリア・レースが覗いていた。
「おーい、ヴァレリオ! 何やってるんだ~い」
ジョバンニ様に再度呼ばれたことで、ヴァレリオ様はゆっくりと歩き出した。
いつもなら、明るくどこか落ち着きのないお方が――今は何だかぼんやりとされている。
目の前にいらしてもそれは変わらずで、ヴァレリオ様はただ無言のまま私を見つめていた。
ああ、そうか。見惚れてるんだ。
無理もない。というか必然よね。
今の私は――クロエは、ヴァレリオ様の理想の女性なんだから。
ジョバンニ様はしたり顔を浮かべつつ、クロエにヴァレリオ様を紹介し始める。
「彼はヴァレリオ・デ・サヴィオラ。兄君と共に美術のパトロンをしている。ヴァレリオは主に、目利きと画家の斡旋を担っていてね。その慧眼は、アステリア随一と称されているんだよ」
ジョバンニ様の言葉を受けて、いくつもの『賛辞の定型』が思い浮かんできた。
私はその中からベストなものを選んで、クロエの記憶の中の女家庭教師の所作を真似る。
淑女らしい柔らかなトーン、そして微笑みに至るまで。
「まぁ! では、このアステリアの芸術は、ヴァレリオ様が守り育てられているのですね」
「そういうことだ☆」
我ながら中々の出来だ。
内心でほっと胸を撫でおろしていると、ジョバンニ様の紹介はクロエへと移っていった。
その内容は、クロエの頭の中にある情報とまったく同じだった。
ほんの少しのズレもない。
本当にこの架空の女性・クロエを従妹だと思い込んでいる。
凄いと思う反面、とても恐ろしかった。
この催眠、ちゃんと解けるのよね……?
「……というわけなんだけど、ふふっ、ヴァレリオ。私の話、ちゃんと聞いていたかい?」
「っ!!?? ごっ、ごめん!! クロエ様があまりにもお美しくて、つい……」
「っ!!??」
ヴァレリオ様は、クロエの虜になっている。
そんなことはもう分かっていたはずなのに、頬がかーっと熱くなってしまった。
おかしいな。他の方々から褒めていただいた時には、ちゃんと誤魔化せたのに。
「おやおや。早くも花婿候補が見つかったようだね?」
「「ジョバンニ!!」」
ヴァレリオ様と一緒に食ってかかる。
ジョバンニ様は、これまた愉快とばかりに大きなお腹を揺らして、そっとバラ園の方に手を向けた。
「あとはお若いお二人で」
ヴァレリオ様と顔を見合わせる。
永遠に続くかのように思われた沈黙の後で……ヴァレリオ様が小さく頷かれた。
「本来なら、僕のような者が、貴方のような『青い血』を引く高貴なるお方と並んで歩くなど、許されることではないでしょう。ですが……どうか、ほんの一時だけ、ご無礼をお許しいただけませんでしょうか?」
「ええ。喜んで」
酷く畏まったご様子のヴァレリオ様に、花が咲くような微笑みを贈る。
どうやら無事に軌道修正が出来たようだ。
内心で胸を撫でおろす。
「あっ、ありがとうございます! でっ、では……」
ヴァレリオ様が勇み調子で、腕を差し出してこられた。
私はそんなヴァレリオ様の腕にそっと手を添えて、バラ園の中へと足を踏み入れていく。
石畳の小径が、幾何学模様を描くように庭を縫っている。
低く刈り込まれたツゲの垣根に囲まれて、バラの花々が整然と咲き誇っていた。
中央の噴水では、戦いの神と美の女神の像が静かに見つめ合っている。
その足元には、舞い落ちた赤や白のバラの花びらが、水面にゆらゆらと浮かんでいた。
「ああ、本当に夢みたいだ」
ヴァレリオ様は、鼻孔をほんのりと膨らませて、肩に力を込めていた。
緊張二割、わくわくが八割。
無礼を承知で言わせてもらえば、のぼせ上られているように見えた。
今ならきっと聞き出せる。
筆を折られた真相を。
そして、『再起の芽』があるか否かを。
これは絶好のチャンスだ。
なのに、私はまた二の足を踏んでしまう。
ネコさんの読みは間違っていない。
私は夢を見ていた。
坊ちゃんが、あのアトリエに戻って来られる日を。
だけど、これから語られる内容によっては、その夢を諦めないといけない。
覚悟は出来ていたはず。
なのに、今更こんなふうに足掻いたりして……ほんと、見苦しいったらないよね。
内心で首を左右に振って、気持ちを切り替える。
一番に優先すべきなのは、ヴァレリオ様のお心だ。
「美術のパトロンをされているとのことでしたが、ヴァレリオ様ご自身は、絵を描かれたりしないのですか?」
「昔は描いていました。ですが、今はもう……」
「まぁ? なぜ、お止めに?」
「単純に才能がなかったからです。最初から分かっていたはずなのに、それでも筆を執り続けて、最後には絶望して……あの子達には、本当に酷いことをしてしまった」
たぶん、ズタズタに斬り裂いてしまった絵のことを言っているんだろう。
一欠片でも残っていると知ったら、坊ちゃんはお喜びになるのかな。
「画家の方々とお仕事をされていて、描きたいと思うことはないのですか?」
「正直言うと、あります」
「……えっ?」
耳を疑った。
聞き間違い? ヴァレリオ様が気まずそうに目を逸らす。
撤回されるおつもりなのかもしれない。
ダメ。止めなきゃ。
これを逃したらもうきっと、坊ちゃんはアトリエには戻って来ない。
「なっ、なら、描けばいいじゃないですか!」
「ですが、僕には才能が――」
「上手でも下手でもいい! ヴァレリオ様が楽しいなら、それでいいじゃないですか!」
肩で息をする。全速力で走り切った時みたいに。
はっ、と我に返った時にはもう遅かった。
今のは間違いなく私の言葉。
クロエが発するはずのない言葉だった。
クロエとヴァレリオ様は、これが初対面。
ヴァレリオ様の作品を一点も見たことのない彼女が、あそこまで肩入れするなんて……あまりにも不自然だ。
「ふっ、ふふっ……いやですわ。ごめんなさいね。つい、熱くなってしまって――」
「楽しむのは、僕にはちょっと……難しいかもしれません」
やんわりとお断りをしようとしているんだろう。
やっぱり、そうなんだ。坊ちゃんはもう描く気がない。
あのアトリエには、もう……。
「それでも……どうしようもなく、貴女を描きたい」
「え……?」
思わず足を止めた。
次の瞬間、ヴァレリオ様ははっとして、勢いよく首を左右に振る。
「っ、申し訳ございません! 身の程も弁えずに――」
「ぜっ、ぜひお願いします! ぜひっ、わたくしを描いてください!」
サファイアブルーの瞳が大きく見開く。
それと同時に、木の上で何かが動いた。
あれは――猫さんだ。
枝の上で立ち上がって、高々と拳を突き上げている。
そんなにヴァレリオ様の絵が好きなのね。
何だか自分事のように嬉しくなる。
「あひゃ~……まさか、お許しいただけるとは……」
そう言って、ヴァレリオ様はきゅっと目を閉じた。
嬉しさ半分、戸惑い半分といった感じのご様子だ。
「ふふっ、前言撤回は認めませんことよ?」
「……はい。心得ております」
私の口から自然と笑みが零れる。
つられるようにして、ヴァレリオ様の口からも。
こうしてクロエは、ヴァレリオ様のモデルを務めることになった。
ヴァレリオ様がまた絵を描いてくださる。
それは凄く嬉しいことのはずなのに、どうにも素直に喜ぶことが出来ない。
胸の奥から込み上げてくる、この寂しさにも似た感情は……一体何なんだろう?
今の私ではいくら考えても、答えは出そうになかった。




